2023年12月06日21時24分掲載
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映画 『メンゲレと私』 アウシュヴィッツの中で学んだ生きる術 笠原眞弓
最近のガザとイスラエル、またウクライナの市民、世界のあちこちで起きている、特に子どもたちを巻き込んだ戦況に心を痛めている。ユダヤ人問題は、今の日本人にとって遠いことかもしれないが、国内にある人種や部落差別などと重ねて考えた時、他人事ではなく迫ってくる。
このクリスティアン・クレーネス、フロリアン・ヴァイゲンザマーの二人の監督による『メンゲレと私』は、両監督の『ゲッベルスと私』(2018年公開)、『ユダヤ人の私』(2021年公開)に続く3部作の最後の作品だ。前2作はすでに成人した人の語りだったが、これはリトアニア出身のユダヤ人、ダニエル・ハノッホ氏(1932年生まれ)の、まだ少年期の記憶である。
子どもの記憶は、脳の中で画像として記憶され、揺るぐことがないと言われている。だが、細かい襞のような部分は、解説できないし、彼が強制収容所で目を掛けられたヨーゼフ・メンゲレ医師(収容者の生死の選別を行っていた)については、映画の中ではほぼ言及していない。医師の彼はバリバリナチスのシンパで、ここに書けないような実験的手術を収容所内で行っていたと書かれているものを目にしたことがある。
ダニエルは、深いしわの刻まれた面をしっかりと上げて「リトアニアで兄と姉、父母と暮らしていた」と語り始める。9歳の時にドイツ軍に占領され、家族離散を経て13歳で解放される。その間、アウシュヴィッツを含む複数の強制収容所を経験し、生きていく上でのたくさんのことを学んだということだ。
彼は長い金髪の利発な子で、美しいドイツ語を話せたことも幸いしたのか、メンゲレのお気に入りとなり、特異な収容所生活を送る。特に赤十字の視察に「捕虜待遇にも気を配っている」とう見本展示の役もしていて、その時の食事は特別ミルクなどが出されたというし、メンゲレが毎日行う生死の選別では「死」の扉から逃れたと淡々と話す。
1945年1月、ドイツ軍は連合軍に追い詰められてドイツ国内に彼らを移動させる、いわゆる「死の行進」がはじまる。それが彼の経験した真の地獄と言える。ドイツ兵ですら寒さと飢餓の極致の中にあり、そこで目撃したのは、暴力、伝染病、カニバリズム(人肉食)だったと。
的確な判断の積み重ねだったのか、彼は生きて連合軍によって解放され、兄の生存が判明して再会した後、1946年、パレスチナ(建国前のイスラエル)入りを果たす。
彼の故郷のゲットーにいた子ども131人のうち、ここまで生き延びたのは27人だったそうだ。
96分/12月3日より東京都写真美術館ホールにて公開中、全国順次公開
東京都写真美術館 休館日・上映時間情報は下記から
(12/9、12/10のみ「ゲッペルスと私」「ユダヤ人の私」の上映がある)
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/movie-4757.html?fbclid=IwAR2-C2VV0ezoNFHPszLuxq1CaYKoIhMZTlkr-jEUyYVixiRkU37zxf9FDQ4
(レイバネット日本から転載)
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