2024年05月10日20時27分掲載  無料記事
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文化

野添憲治の《秋田県朝鮮人強制連行の記録7》大柴鉱山の朝鮮人 鹿角市十和田町

 大柴鉱山は秋田県と岩手県の鉱山で県境にあった。小さな鉱山で、親会社は東朝鮮鉱業。鉱山の経営を任された明石文吾さんは、小規規模な鉱山で日本人と朝鮮人は一緒に住み、同じものを食べていたと語る。旧厚生省の調査では「「死亡者、死亡者、逃亡者ナシ」 とある。(大野和興) 
 
◆日本人と同じ待遇で働く 
 
 大柴鉱山は現在の鹿角市大湯から山に入り、岩手との県界にあった。その奥に不老倉鉱山という大きな山があっ た。 
 
「わたしの兄は鉱山が好きで、あちこちに自分で見つけた山を持っていた。鉱石を掘るのが目的ではなく、採山の取れる山を見つけては売っていた。大柴鉱山もまだ戦争(アジア・太平洋戦争)が始まる前に見つけた」(明石文吾) 
 
 山で、東朝鮮鉱業に売った。東朝鮮鉱山は朝鮮でも鉱山をやっており、 兄から買うとわたしに 「お前がこの鉱山の責任者をやってくれ」と言われた。 わたしは鉱山経営をしたことはないが、兄が協力するのでやれというので、 大湯に社宅を買ってくれたので、その社宅から毎日鉱山に歩いた。 
 
 そのうちにアジア・太平洋戦争が始まると、小さな大柴鉱山も忙しくなった。小さな鉱山では労働者を集められなくて苦労していると、 社長が朝鮮から2家族と、独身者を20人ほど連れて来た。あとは日本人を頼み、坑内では いつも20人位が働いていた。掘った鉱 石は地元の馬車屋を頼んで運び、小坂鉱山に売っていた。 
 
 奥にある不老倉鉱山は大きく、戦争中は帝国開発がやり、その下請けを鹿島組がやっていたが、400人位の朝鮮人が来ていた。トラックで運ぶ道路づくりをさせていたが、真冬に「白いズボ ンに素足にワラの草履をはき、背にムシロを背負いて働いていたが、見ら れる姿ではなかった。 大柴鉱山は朝鮮人も日本人も一緒に住み、 同じ物を食べて働いていた。不老倉鉱山のように、朝鮮人を差別したりはしなかった。 
 
 1945(昭和20)年7月20日にも7人の自由の運行者が大柴鉱山に来た。鉱夫 5人、大工2人だが、 旧厚生省の調査には9月20日に退所している。「死亡者、死亡者、逃亡者ナシ」 とある。 
 
参考文献 「秋田県朝鮮人強制連行真相調査団会報」 第9号 1998年 


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