2024年06月07日22時17分掲載  無料記事
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文化

野添憲治の《秋田県における朝鮮人強制連行9》伝説の多い小真木鉱山 鹿角市十」和田町

 幕藩時代金山として栄えた白根金山が明治初期に小真木鉱山として再興され、銀銅鉱山として採掘が続いた。アジア太平洋戦争末期、165人の朝鮮人が徴用で連行された。うち5人が落盤や病気で死亡したが遺骨は不明。監視は厳しく、食事は粗末で、未払い賃金も受けとらないまま帰国した。(大野和興) 
 
落盤で怪我人が多発 
 
 小真木鉱山(別称白根金山)は鹿角市十和田地区西端の小真木にあり、JR花輪線末広駅か北へ約3キロの所で、旧鉱山施設や露天掘跡は今でも車窓からよく見える。斜面は険しいが南に面しているので日当たりもよく,積雪は 少ない。 
 
鉱山の発見にはには伝説があるが、史実としては1598 (慶長3)年に南部藩の奉行が開発して白根金山とした。 当時は金の品位も最高級で、全国から山子や商人が集まり、「千数軒の町が誕生した」という。その後は米代川を通じて能代湊から大坂、長崎方面に運ばれたが、のちに鹿角産出金は野辺地湊と盛岡ルートに改められた。 長期間の発掘で鉱山は次第に衰退していったが、「明治初期には黒鉱の発見で再興、小真木鉱山として銀銅の採掘を続け、鉱石を尾去沢鉱山の選鉱場に送られた」 
 
 小真木鉱山に朝鮮人連行者が来たのは遅く1944(昭和19)年に75人、1945(昭和20)年に90人、合わせて165人で、全員が徴用となっている。朝鮮人連行者は米代川に沿った2階建ての飯場に入れられたが、川が柵の役目をしていた。飯場の入口には監視人が付き、出入れを厳重にして逃亡を防いだ。飯場の食事は「主食は大豆と粟で、一回の量が 少なかった。 朝食の時に昼の弁当を渡 されたが、空腹なので朝のうちにほとんどの人が食べた」 (安根浩) という。 
 
 冬になっても薄い上衣だけで 「布団にはワラが入っているほか、ボロボロの 毛布一枚で、夜中に寒くて眠れなかった」(石起煥) と、韓国に帰国した2人に筆者が直接尋ねた時に聞いた。全員が鉱内で働らかされたが、落盤が多く、2人が死んでいる。あとの3 人は病気で死んだが、遺骨はどうなったのか、帰る時にも渡されなかった。 旧厚生省の調査には 「全員に未拂金ナ シ」とあるが、 帰国の時にカネを貰った人はいないと帰国者は言っていた。 
 
参考文献 『秋田大百科事典』 (秋田魁新報社) 1981年. 
「秋田県朝鮮人強制連行真相調査団会報」 第67号 2011年 


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