2024年06月13日22時47分掲載
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文化
野添憲治の《秋田県の朝鮮人強制連行10》連行者の多い小坂鉱山 鹿角市小坂町
戦時下、銅の増産を軍需省から要求された小坂鉱山には強制連行の朝鮮人592人が働いた。少ない食事での重労働で逃亡者、死亡者が多発した。逃亡者はつかまると袋叩きにあった。朝鮮人のほか中国人連行者、仙台捕虜収容者からの英・米・豪捕虜も働かされていた。いずれも多くの死亡者が出たが、資料はほとんどない。死んだ朝鮮人連行者は笹原に埋められた。墓地は笹に埋まり、人も入れなくなっている。(大野和興)
重労働で逃走者が続出
小坂鉱山は1861 (文久元) 年に発見され、南部藩が直営した。のちに藤田組に払い下げられ、設備の充実で採掘鉱石は増加した。他鉱山からの買鉱もおこない、精錬額は増加した。
アジア・太平洋戦争になると産銅が奨励され、軍需省から増産が要求されたが、労働力不足で生産が達成できず、徴用工・勤奉隊・学徒隊を動員したがそれでも不足し、強制連行の朝鮮人を使用した。
旧厚生省の調査では482人、下請の多田組が110人の計592人が来た。少ない食事で三交替の重労働で、逃走者は147人、死者1人とある。多田組は死傷者なしとあるが、小坂鉱山で飯場を経営した金竜水 (キム・ヨンス) は 「死亡者は31人で、火葬して寺の沢の笹林に埋めた」と証言している。逃亡者は 捕らえられると別室で袋叩きにされ、食事も与えられないので、 死んだ人もいたというが、 旧厚生省の資料には書かれていない。
小坂鉱山には朝鮮人連行者の他に、中国人連行者がきている。鉱山では200人を要求したが、途中で7人が死亡したので到着した193人は康楽館に収容された。「外務省報告書」 では日本の敗戦で帰国するまでに58人が死亡している。冬は雪が深いので土の中に埋められないので、康楽館の中に埋めた。小坂町には小坂鉱山病院という立 派な施設があったのに、死亡診断書がない。
小坂鉱山にはこの他に、仙台捕虜収容所第八分所が置かれた。元山小学校の運動場に飯場が建てられ、 1945 (昭 和20)年に英・米・豪の350人が収容されたが、「朝鮮人よりも食料が不足し、 多くの死者がでた」 (金竜水) というが、 詳しい資料はない。
死亡したといわれる朝鮮人の墓地は 笹竹に埋まり、人も入れなくなった。
参考文献
・『朝鮮人労務者に関する調査』 1946年
・野添憲治 『異国で逝った証言者』 (秋田魁新報) 1997年8月21日夕刊
・『秋田県警察史』下巻 (秋田県警察本部) 1971年
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