2024年07月09日10時55分掲載  無料記事
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反戦・平和

イタリアの作家ダーチャ・マライーニさん来日 戦時中の弾圧語り、「分断される世界」に警鐘鳴らす

 ノーベル文学賞候補になったイタリアの文学者、ダーチャ・マラーイーニ(87歳)が、6月11日から20日、北海道大学OBらの招待で来日した。ダーチャはイタリアの文化人類学者で写真家でもあったフォスコ・マライーニの長女。父がアイヌ研究のため学んだ北大の学生で、太平洋戦争開戦日にスパイ容疑で逮捕された「宮沢・レーン事件」の当事者、故宮沢弘幸さんとの思い出や、自身の日本での抑留体験を語り、「世界全体が非常に危険な状態にある今、その根底にある文化の衝突による分断化」に警鐘を鳴らした。(福島清) 
 フォスコは1938年、国際学友会の奨学金を得て、アイヌ研究のため北海道帝国大学に、妻・トパーティア、2歳の長女・ダーチャと来日した。当時は、日中戦争下だったが、フォスコは北大の外国人教員と学生らが結成した「心の会」を通じて、北大生の宮澤弘幸らと国際交流と親睦を深めた。 
 宮澤弘幸は、1941年12月8日の太平洋戦争開戦の日、軍機保護法違反のスパイだとして、教員のレーン夫妻らとともに特高に検挙され、暗黒裁判で懲役15年と断罪され網走に収監された。一方、イタリア語教師として京都大学に赴任したフォスコは、連合軍に破れたイタリアでファシストたちが建国し、日本が承認したサロ共和国への忠誠を拒否したため、一家そろって愛知県の民間人抑留所に収容された。そこでは日本の官憲による監視下で、飢餓状態に苦しめられた。 
 ダーチャは、6月12日に東京・新宿の常圓寺で開催された「ダーチャ・マライーニさん歓迎・交流会」で講演した。講演は、事前に渡した質問事項に沿って行われた。おそらく最後の訪日になったであろうダーチャの講演は、自身の体験と文学者としての洞察を合わせて、説得力ある内容だった。以下、概要を紹介する。 
 
――日本では未翻訳ですが、「Vita Mia」を書き終えられて、最も訴えたかったこと、今回の日本訪問で、最も確認したいことは。 
 私にとって日本は、子供の時期、8年間を過ごした大切な場所です。それはその後の私の未来を創る礎の一つともなりました。私にとって日本とは私のアイデンティティの一部です。アイデンティティとは一個の石や岩ではありません。それは何層にもいくつにも与えられたものが重なって、できているものです。私のルーツの大事な一つが日本にあると思っています。 
 戦争中は大変な経験をしたけれども幸運でした。私たちの敵となる存在は、官憲だったんだけれども、官憲は収容所の中の人です。一方、外にいる日本人は皆、私たちの側にいてくれたということを知っていました。 
 人間は、絶対の力を手中にすると、自分でも知らないうちに非常にサディスティックになってしまうものなのです。我々は収容所では官憲の手中にありました。官憲は古い軍隊主義の思想の人々でしたから、私たちを祖国の裏切り者として扱い、そういう祖国の裏切り者は、どんな残酷な行為で扱っていても正しいのだという考えでした。しかし、これは収容所の外ではなかったことなんです。 
 日本人の多くは私たちの友達でした。ある女性は、風呂敷いっぱいに食べ物を持ってきてくれたんです。でも、これは官憲達に持っていかれてしまいました。その上、彼女は拷問を受けました。スパイではないかと。そんなことは絶対なかったのです。実際の市民は違うところにあるものだなと私は理解しています。だからこそ、私は今でも日本人と良い関係を持ち続けていられるのです。 
 
――ダーチャさんの文学のテーマは「閉じ込められた領域」からの脱出・解放とか、フェミニズム、反ファシズム、ジェンダーなどです。これらはダーチャさんの何の体験、思いから書かれてのでしょうか? 
 私たちは、サロ共和国への従属に同意のサインをしなければ、収容所に送られるだろうと言われていました。サロ共和国というのは、イタリアの北部で当時建国されたナチやファシズムとの同盟を組む国家です。父と母がサロ共和国への従属を拒否したのは、人種差別、人種主義への反対というイデオロギーのためでした。この人種差別、人種主義というものは、両親には耐えられないことでした。父と母はそれぞれ別々に、その署名を求められたのですけれども、それぞれ別々にノーと言いました。 
 その当時、周りの人々は、少なくとも母だけは3人の小さな娘がいるから、サインするだろうと考えていましたが、母も拒否しました。両親とも民主主義という理想に対して非常に忠実でありました。私は当時6歳、妹は2歳と小さかったのですけれども国家の裏切り者として、ひどい扱いを受けることになったのです。これが戦争の悲惨さです。 
 
――文化の持つ重要性についてお話しいただけないでしょうか? 
 人間は、自分たちの内側に善と悪の両方を備えています。フロイトも同じことを言っています。エロスとタナトス(ギリシア神話に登場する死そのものを神格化した神)というと思いますが。エロスというのは命に対して人生に対して、美しさ、芸術、喜び、そうしたものを讃えるものです。タナトスは、ある意味で死に向かう者、自分自身を破壊すること、そして他人をも破壊するということです。人間はこの両方を持っています。すべての人がこの二つの能力を備えています。 
 そして、そのネガティブな方をコントロールできるのは、教育、文化、宗教、思考、勉強、読書、哲学です。こうしたいろいろなことをすべて文化と一括りできますが、これらが私たちの持つタナトス、つまりネガティブな側面をコントロールすることができるのです。そうすることで、我々が持っているネガティブな部分を変えてゆく、それはより高いものに変える、崇高なものに変える。破壊の力を建設する力にしていくことはできると思うんです。けれども、いつもそれができるわけではやはりないです。けれども、それをする価値が本当にあるものだと思っています。 
 私の両親の選択によって私たちは命を危険にさらしましたし、そして、私たちは両親の選択によって、たくさんの苦しみを味わいましたが、両親の選択は本当に模範と言えますし、私の人生に大きな多大な影響を与え、決定的なものでした。 
 
――宮澤弘幸さんの記憶が残っていたらお聞かせください。 
 宮澤弘幸さんのことですね。その当時、私はとても小さな少女でした。宮澤さんはいつも近くにいる存在でした。そして、私の目には彼は本当に忍耐強かった。私や妹はとにかく木に登ったり、騒いだりしていましたけれども、いつも微笑んでいました。同時に母に対して彼が持っていた愛情とか、父に対してのリスペクトもすごく感じました。 
 特に父とはスポーツを通しても、本当に良い友達でした。一緒に自転車で旅行したり、スキーに行ったり、高い山に登ったりしていました。このような友情は本当にありました。それは家族の一人としても認識していました。彼が検挙されたことを知った時は、私たちは京都にいたんですけれども、この理解不能な嫌疑をかけられる理由は全くありえないと思いましたし、とにかく、とても辛い思いを私は抱きました。 
 
――日本でも世界でも軍事強化の動きが強まり、右傾化が強まっています。どう思いますか? 
 今は危険な難しい状況であると私は思っています。世界全体が今、非常に危険な状態にあります。それは分離という問題です。特に文化の分離・衝突というものがあるように思います。それがひいては軍事紛争となると思っています。 
 文化の分離・衝突とは、民主主義を隔てるものです。民主主義は、主権を持つ政府の下に、警察、検察、医療制度、学校などがあります。このような主権それぞれが分離して存在し、共存しています。これが民主主義なのです。一方、民主主義は無意味だと考える人もいます。世の中や国は、強権主義の方がうまくいくと考える人です。すなわちひとりの強い力を持つ人が上から下へのヒエラルキーの下で統治していく方がうまくいくという考え方です。今の世の中では、この二つの立場は非常に激しく衝突を強めているような感があります。今起こっている問題は、地政学的、経済的な観点から分析されがち、捉えられがちですが、その根本には文化の違い、文化の衝突があると私は思っています。 
 当然、文化の衝突は、多くの人々に影響を与えます。例えば、社会生活や、あるいは、家庭生活というもの、日々の行動に影響を及ぼします。特に現在の技術革新、テクノロジーの変化が、私たちの生活を社会を大きく変えました。例えば、家庭もそうですし、人間の感情・性格、あるいは、肉体的な関係までも変えています。上下関係、ヒエラルキーや経済、あるいは、労使関係にも影響を及ぼしています。それが大きな一つの変化であり問題です。 
 もう一つは、移民・難民の問題です。日本ではこれは、あまり強く感じられていないと思いますが、今これは世界的には大きな問題です。飢えや乾燥、あるいは、独裁者から逃れるためにアフリカや、中東から多くの人々が欧州へと流れ込んできています。今、このような人たちをどこに住まわせるべきか、どのように扱うべきかということが大きな課題です。 
 このように世界は大きく変わりつつあります。では、このような変化を前にして二つの大きなその取り組みというか、態度があると言えましょう。それは右と左です。右と言われる考え、立場、態度というものは、変化を受け入れない、変化を止めようとする立場、考え方です。私はこれについての善悪に関しては発言、意見は申し上げません。そして、もう一方の左は、変化はまず検証し、それを受け入れることを考えていこうという立場です。 
 このように2つの違う態度が社会の中にはあり、それはそれぞれの中でも様々な変化があります。また気候変動も大きな変化の一つと言えるでしょう。例えば、気候変動に対して私たちはノーと言うんでしょうか。あるいは、どのように取り組んでいくのでしょうか? 国境を固く閉じて、小さな国にして、そして対応するのでしょうか? あるいは、共に国境を広げて国と国の橋をかけつつ、取り組んでいくんでしょうか? 国と国との共同は簡単なものではありません。しかし、私はこれが大事だと思っています。地域的な紛争・戦争は別として、大きな問題にどのように取り組んでいくかということを今、私たちは真摯に考えていく必要があると考えています。 
 もう一つ、私がぜひ付け加えたい問題というものがあります。それはこの変化への対応ということですけれども、伝統主義者の女性の社会進出に対しての反対的な態度です。特に女性がこれまでの男性の領域だとされてきた専門職への進出ということに、今大きな抵抗力というものがあります。これは特に政治的な、あるいは、旧体制の人々の中の政治家やあるいは旧体制の国の中に、このような頑なな態度が見られますが、このような不寛容というものは、非常に耐え難いものです。 
 
――「戦時中の日本」について、今考えて最も印象的であることは、なにでしようか? 
 私の心に残っているのは、人々の中に2種の人々がいたということです。一方では軍隊主義の人々、そして、一方では農民の非常に愛情に溢れた人々がいたということです。例えば、私はその当時、名古屋、そして廣済寺に収容されていました。廣済寺では、時には外に抜け出て農民たちの蚕作業を手伝いました。終わると農民たちは大根やお芋をくれました。とても親切でした。私はそれを持って帰っていたのですけれども、本当ならばこの農民たちは、私を突き出すことも訴えることもできたはずです。しかし、農民たちは、皆、非常に親切でした。私は戦争というものは、決して人々全てを変えてしまうものではないというふうに感じるようになりました。 
もう一方の一つの例として、これは私にとっては非常に大事な大きな経験です。収容所に粕谷という官憲がいましたが、彼は非常にサディスティックな人でした。例えば、彼らはバルコニーで食事をしていて、魚の頭や骨、あるいは、腐ったみかんというものを、バルコニーの下に放り投げました。そうすると、私たち子供たちは飢えていましたから、それさえにも飛びついていったんです。これは非常にサディスティックな行為でした。 
 もう一つ別の例は、私たちはその当時、衰弱していました。歩くのも大変でしたし、髪の毛が落ちて、そして、歯茎から血が出ていました。そして、収容所にはベンチがあったんですけれども、私たちに対しては壁にもたれて座ることが禁じられていました。もし壁に持たれているのも見つかったら、もう杖のようなもので、棒で打たれていました。ですので、私たちはそのベンチに座るさえも互いに持たせ合いながら座っていました。 
 もう一つの残酷な例ですけれども、イタリアから母への手紙が父に対して送られてきたのですけれども、当時もう母は非常に衰弱しました。母への手紙というものが届いてきた時に、官憲は「手紙が届いたよ。1週間待ちなさい」と言いました。私たちはその1週間心待ちにしていましたが、1週間後、ではと言って取りに行くと、官憲は目の前で手紙をピリピリと破いてしまったんです。これには私たちも、もう非常に痛烈な心の穴を感じました。しかし、彼らは人の心を傷つけるということに喜びを感じていたのです。 
 収容所というのは、収容された人々に対して、最悪の一番最も悲惨な心理状況を生み出すようになります。ですから強制収容所をなくすことは、非常に重要なことです。なぜならば、収容所はこの絶対の力というものを生み出す巣窟であるからです。 
 もう一つそのエピソードを付け加えます。この官憲に対しては、私たちいかなるどんな抗議を試みもうまくいかなかったんですけど、唯一うまくいった抗議があります。それは父の取った侍(サムライ)的な行為で、指切りです。私たち小さな娘たちは、栄養が足りなくて、もう死にそうになっていました。それに憤激した父が斧を持ってきて、この粕谷という官憲の前で小指を切って、彼に投げつけたんです。もう血まみれの状況でした。しかしながら、これはうまくいったんです。日本の文化を知っている人類学者だった父の知恵というものがここで機能しました。この指切りの1週間後、この官憲たちがヤギを一匹、私どものとこに連れてきました。ヤギがミルクを出しました。一日、20gのミルクでしたけれども、非常に栄養のあるタンパク質を含むものでしたので、私たち娘たちの命を救ってくれました。 
 その後のある朝、官憲たちが消えてしまった。私たちは何もわからず、そこにまあ取り残されたわけですけれども、そこで、周囲の農民に聞きに行ったんです。そしたら、戦争が終わったと私たちに言いました。もうカンガルーのようにもう飛び上がって喜びました。 
 その後、農民たちが私たちのところにやってきました。私たちは、なんで彼らがやってきたんだろうと、最初はちょっと恐怖を覚えたんですけれども、彼らは、天皇陛下が終戦と言ったことは分かったが、古めかしい古典の日本語で話したので、農民たちは理解できないというんですね。そこで、日本の文化を知っているイタリア人の文化人たちが、玉音放送の意味を農民たちに翻訳して教えたわけです。そして、みんなでも抱き合って喜んだわけなんです。これは素晴らしいことだったと私は思っています。すなわち、日本の文化や古典を知るイタリア人がこのようにして、日本の人たちと交流し抱き合ったという一つの事実なんですから。 
 
――近くの廣沢寺のオランダ人抑留者と交流はありましたか? 
 その収容所はあるということは知りませんでした。それほど遠くないところに外交官の人たちが収容されていたところがあったそうなんですけれども。私たちは本当に完全に閉じ込められた状態で何のニュースも得ることができませんでした。 
 例えば、戦況がどうなっているか、負けているのか、勝っているのか、終わりに近づいているのか、そういったことも、全く知りませんでした。そして、よくこの特高の看守たちが、「戦争で我々が勝ったら、きさまらの喉を掻き切ってやる」。そのようなことをいつも言われて脅されていたんです。このようなことを続けて言われる言葉の恐怖心というものを皆さんの想像できないかもしれません。とにかく何もわからない。 
 収容所生活で絶望的な空腹の中で、唯一素晴らしかったといえるのは、父と母は私たちの学校になってくれたことです。本も何ももちろんありませんでしたけれども、イタリア語や歴史・地理・哲学。そういったことを収容所の中庭にあった桜の木の下で教えてくれました。絶望的な飢えの中で体験したすばらしい思い出です。飢えというもの皆さん、本当に想像できないと思うんですけれども、体をむしばみます。寄生虫やシラミ、ノミ、そういったものを体の外側からも内側からも私たちをむしばむ。そういった状況でした。 
 
――父フォスコさんが研究したアイヌ民族について差別やヘイトが今まだ根強く残っています。どうあらがうべきですか。 
 イタリアといえば、私は一歳半で離れた国でしたので、自分にとってはエキゾチックな存在でしたね。そのイタリアについていろいろ父母が教えてくれたわけですけれども、例えば、今イタリアにいる人にとっては、日本はエキゾチックな国、場所ですね。子供の時にこのようにして習ったのは、世界への見方、視点というのは、自分がどこにいるかによって、本当に違うんだということです。そして、いろいろな文化との関係を結ぶことがどれだけ大切か。相手の立場に立つことの大切さも父母から教わったと思います。 
 
――最後に宮澤弘幸さんへ1言。 
 宮澤弘幸さんは本当に理不尽な不当な理由で拷問を受けて検挙され、収容されて、最後には病で亡くなりました。彼は犠牲者ですけれども、世界中でやはり起こっていることです。こうしたことが起こるのは、人に対するリスペクト(尊敬)が、サスペクト(疑う、猜疑心を起こす)に変わる時です。つまり、戦争の一歩手前では、相手を敬う気持ちが疑いにとって変わる空気が起こります。これは本当に避けるべきです。多くの人たちがこの疑いによって犠牲に至るのです。これは悪魔的なものです。これを何としてでも避けるべきだというふうに強く訴えたいと思います。 


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