2024年08月13日20時32分掲載  無料記事
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文化

野添憲治の《秋田県における朝鮮人強制連行12》相内鉱山の鉱石を運ぶ 鹿角郡小坂町相内

叺(かます)に鉱石入れて背負ったりした 
 
 地元の働き手が兵役にとられた後の労働力は朝鮮人が担った。掘った鉱石をかついで運ぶ仕事で、叺に入れて背負ったりした。270人の朝鮮人が働いていたといわれるが、敗戦後の行方は分からない。(大野和興) 
 
 戦前は日本最大の銅山といわれた小坂鉱山から約9キロ離れた所で、地元の人が1861(文久元)年に相内鉱山を発見したが、板状の鉱脈なので鉱主が次々と代わり、採鉱が中止になったりもした。 
 1943(昭和18)年に露天掘りで銅鉱となり、軍需物資として注目をあびた。軍需鉱石として生産が急がれたが、資材とともに労働力が不足したものの、軍需省からは連日のように増産の要請が届いた。 
 
 地元の働き手も兵役や徴用にとられて労働が不足したので、相内鉱山では約270人の朝鮮人を使った。朝鮮人たちの飯場は、「鉱山があったところと向かい合い、川をはさんで寮跡地が確認されたが、わずかに台地として残り、林になっていた」と1997(平成9)年に調査した人は証言している。 
 
 相内川の川岸に飯場が建てられたが、少しの増水でも、飯場の中は水びたしになったといわれているが、夏はいいとしても、冬の飯場生活は大変だったろうと想像される。 
 
 朝鮮人たちの作業は、相内鉱山で掘鉱して手選別した鉱石を、売却先の小坂鉱山まで運ぶ仕事だった。露天掘りが始まった時はトラックで運搬していたが、やがてガソリンも届かなくなり、運転手も次々と招集になったので、その後の運搬は朝鮮人連行者たちの仕事になった。 
 夏は荷車で運んだり、叺に入れて背負ったりした。冬はソリで運んでいたが、「小坂鉱山よりも相内鉱山は山奥なので冬は雪が深く、ケラも傘も身につけていない朝鮮人が、雪をこぐようにして鉱石を運んでいた」という。 
 
 朝鮮人はどこから来たのかも不明で、敗戦後に閉山になると、どこへともなく行ってしまい、270人の中に怪我人や死者があったのかもわかっていない。 
 
参考文献 
(1)『秋田県朝鮮人強制連行真相調査団会報』第5号 1997年 
(2)野添憲治編『秋田県における朝鮮人強制連行』(社会評論社)2005年 


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