2024年08月23日21時15分掲載  無料記事
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文化

野添憲治の《秋田県における朝鮮人強制連行14》田村鉄工でも働く 大館市岩瀬字大柳

 鍛冶屋兼金物屋として出発した田村鉄工はアジア太平洋戦争のはじまりとともに海軍省指定の軍需工場となり、魚雷の弾頭や機関砲の銃身などをつくった。中学生や女学生まで動員しながら製造を続けたが、労働力不足が深刻となり、花岡鉱山に連行されていた朝鮮人労働者を受け入れた。会社は2001年に解散した。(大野和興) 
 
◆花岡鉱山から岩瀬まで往復 
 
 会社が解散してから15年になり、建物の門や正面玄関、高い煙突などは古びたまま残っているものの、約120年の歴史を刻んだ敷地は荒れたままになっている。敷地の一部には新しい住宅が建っているので、土地を売りにだしているのだろうか。 
 
 この土地に田村鉄工が創業したのは1881(明治14)年で、最初は家庭用の金物を商う鍛冶屋兼金物屋であった。のちに鉄工所となり、藤田組の小坂鉱山、三菱の尾去沢鉱山向けに台車の車輪などの製造を始めてから発展した。 
 
 田村鉄工の経営基盤を確立したスチールボールは1925(大正14)年から始まり、「名前の示すとおりの『鋼球』である。あえて訳せば『粉砕用鍛造ボール』で、主に鉱山で製錬の前段階に用いた。ボールミール(破砕機)の中に粗鉱石とともに入れ、攪拌作用により鉱石を粉砕」するもので、近年では砕石場でも使われた。 
 
 アジア太平洋戦争が始まると海軍省指定の軍需工場となり、主に50キロ魚雷の弾頭を製造した。他に機関砲の銃身の一次加工もしたので、民需をいっさい中止して製造を急いだが、深刻な労働力不足になった。小林組という下請けを入れても足りず、大館中学から勤労動員隊、鷹巣実科女学校から挺身隊も来たが軍需の要求をこなせず花岡鉱山に連行されていた朝鮮人たちを使った。 
 毎朝のように通訳に連れられて20〜30人が来ると、夕方には花岡鉱山に帰った。乗り物はなく、往復とも歩きだったという。会社の従業員は大食堂で昼食をとったが、朝鮮人たちは小さい部屋で食べさせられた。食事の内容が同じだったかどうかはわからない。 
 
 敗戦後の田村鉄工は労働争議が多発したが、2001(平成13)年に解散した。 
 
参考文献 
(1)『田代町史』2002年 


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