2024年10月03日22時24分掲載  無料記事
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核・原子力

【たんぽぽ舎発】JCO臨界被曝事故から25年  「事故の教訓」は生かされていない   山崎久隆

 1999年9月30日午前10時35分頃、東海村にあった核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」の「転換試験棟」内で、作業員3人が硝酸ウラニル溶液の混合均質化処理中に「臨界事故」が発生した。 臨界は約20時間続いた。 
 
◆周辺住民、全員退避667人が被曝 
 
 18.8%のウラン235を含むウランの粉末を、硝酸溶液を使ってバケツで溶解して製造した溶液を「沈殿槽」と呼ばれるタンク状の容器に入れていたところ、7回目を投入している途中で、核分裂の連鎖反応が継続し中性子線やガンマ線が連続して放出される「臨界状態」になった。 
 
 この作業手順は、規則に反するもので臨界管理上重大なミスを引き起こしたが、作業工程は発注元である「旧動撚」(当時は「核燃料サイクル開発機構」で現在は「原子力研究開発機構」)にも安全性に問題はないかと問い合わせをおこなって実施されており、正規の手順を守らない工程は「旧動燃」も知っていた。 
 
 この事故で2人が1999年12月21日と2000年4月27日にそれぞれ死亡、1名が重傷を負った。 
 
 この事故の最も大きな特徴は、日本で初めて「原子力防災」が発動され、周辺350m圏内全員退避、10キロ圏内に屋内退避が発令されたことである。 
 その後の調査では、近隣住民667人が被曝したことも明らかになっている。 
 
 2003年3月の水戸地裁判決では元所長ら6人が業務上過失致死罪などで有罪、他に会社に対しても罰金100万円の有罪とした。 
 しかし発注元の「核燃料サイクル機構」は訴追されず、法的責任も追求されなかった。 
 
◆真の事故原因 
 
 この事故は一般の原発で使う「低濃縮ウラン」の燃料製造で起きたのではなく、「核燃料サイクル開発機構(旧動撚)」が所有する高速増殖炉「常陽」のための燃料製造の工程で発生した。 
 一般の燃料と異なり高速炉用の燃料は「中濃縮ウラン」ともいうべき濃度で製造される。それが「18.8%ウラン」の意味である。 
 一般の燃料は「3〜4%」なので、18.8%もの濃度の燃料は臨界管理は極めて難しい。 
 
 通常のウラン燃料を扱う設備では、未臨界を維持する運用が出来ないので、バケツをたくさん並べて少量ずつ硝酸溶液にしておき、これを少しずつすくい取って混合する「クロスブレンディング法」という方式で均質化を行うはずだった。 
 これにはかなりの時間がかるため、大きな沈殿槽というタンク状の容器に入れて均質化することを考え、実行した。 
 
 原子力安全委員会の報告書や裁判では、作業自体が違法なものであり、作業員に原因があると結論づけているが、こうした危険性について旧動燃も認識せず、教育も不十分な状況でこうした作業を発注した責任について不問にしたまま幕引きをしてしまった。 
 
 これが後々の原子力産業全体で繰り返される事件事故につながっている。 
 高速炉「常陽」は「もんじゅ」の1つ前の段階の実験炉だ。燃料は本来プルトニウムを使うが核兵器材料であるため核物質防護上、ウランと混ぜて燃料製造を行う「ウラン・プルトニウム混合法」が定められている。なお、プルトニウムと混ぜる硝酸ウラニルの溶液は均質濃度でなければならない。 
 
 この均質化作業をJCOに発注した。それを臨界管理ができない沈殿槽で行われた。 
 特殊な燃料の作業なのに過去の経験も少ない従業員に任せる構造が、JCOにあり、そのような実態であることを知っていた「旧動撚」が容認した。 
 核燃料サイクル政策を担う先端に位置するはずの事業者で、この実態である。 
 
 既に「もんじゅ」が廃炉になり、目的を失った「常陽」を再稼働させる計画が進行中だ。すでに新規制基準適合性審査を通過しており、2026年中ばの再稼働に向けて安全対策工事中だ。 
 2007年に装置をぶつけるなどして炉心部に部品を落下させる事故を起こしてから停止中で、その部品も発見できていない。 
 新たな「危険因子」がまた1つ動きだそうとしている。 
 
◆JCO事故と原子力災害 
 
 原子力災害は、本来対策をしておかなければならないことができていない場合、想定を遙かに超える災害になる。 
 JCOの場合は「臨界」というものを軽視した結果、引き起こされた。高速炉燃料の均質化を発注していた「旧動燃」の担当者も臨界管理の基本を理解していなかった。 
 原子力に従事する人々の非常識極まりない無知と功利主義は、数々の災害を招いてきたが、その頂点に位置するのが東電福島第一原発事故だ。 
 
 1999年の事故を教訓化できなかった原子力事業者は、その後も災害を繰り返す。 
 2004年の関西電力美浜原発3号機の2次系配管破断事故で死者5名、重軽傷者6名を出した。 
 臨界事故では、JCO事故よりも前に発生していた北陸電力の1999年6月18日の志賀原発1号機での制御棒脱落による臨界事故。これを約8年間隠蔽した。JCOの事故があっても公表しなかった。当時は「公表すると2号機の工程が遅れる」「作業員は被曝していない」と、日誌を改ざんしてまで事実を隠蔽している。 
 
◆地震に伴う災害も 
 
 中越沖地震により甚大な被害を受けた東京電力が、東日本太平洋沖地震で地震と津波による災害を防止する対策を怠った結果、福島第一原発事故を招いた。 
 
◆今も実態は変わらない 
 
 JCO事故を、原子力産業は教訓化しているのか。1999年以後の歴史は、それを否定しているのではないか。 
 しかし政府はGX脱炭素電源法を成立させ、原発の再稼働、新増設、核燃料サイクル政策の推進へと大きく動きだそうとしている。 
 
 現実は、六ヶ所再処理工場も完工見通しは立たず、老朽原発の再稼働はリスクを高めるだけ。新増設のために経済産業省が、建設費を電気料金に上乗せする制度の導入を検討していることが報じられている。 
 資金調達ができない産業を無理に延命させることは、危険である。原子力産業は資金に問題があるのではなく、「人」に問題があるのだ。 
 
 原子力を支える人材は、2011年以降激減している。東電の柏崎刈羽原発でも運転経験のある人が半分しかいない。 
 再処理工場の審査では申請書に大量の誤植や乱丁があった。作成者が書類の内容を理解していない証拠であり、そんな人々が実際に再処理工場の運転に携わるとしたら恐怖でしかない。 
 
 日本は諸外国と異なり、原子力施設が原発以外に多種多様だ。原発だけが原子力施設ではないことが問題を更に複雑にしている。 
 JCO臨界被曝事故が起きた際も、JCOという施設が何をしているところか知っている人がほとんどいなかった。 
 今の日本は、当時に比べても更に人材がいない。 
 原子力災害が何処で、何時起きるか、恐ろしい状況を変えるためにも原子力からの安全な撤退を早急に進めていく必要がある。 
 
 当時、東海村村長で、独断で住民避難を決行した村上達也さんは、「明治以来、欧米の科学文明に驚いて殖産興業を進めてきたが、いまでもブレーキのない社会のままだ」(時事通信9月30日)と語っている。 
 同感である。 
 
(たんぽぽ舎共同代表) 


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