2025年01月13日22時52分掲載  無料記事
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文化

野添憲治の<秋田県の朝鮮人強制連行の記録>20回 産銅日本一の阿仁鉱山 北秋田市阿仁

阿仁鉱山は鉱脈の数が多く、戦時下、軍需省から産銅量の拡大要請が相次いだ。深刻な労働力不足に陥り、1940年ごろから徴用された朝鮮人が増えていった。鉱山側の扱いは苛烈で病死や逃亡も多く、食わせないで働かせ、棒でたたかれることもあったという証言がある。(大野和興) 
 
◆食わせないで働かせることも 
 
阿仁川中流域にある阿仁鉱山は、鉱脈の数が多いことで知られている。天正年間(1573~91)に発見され、金山として栄えたが、1670(寛文10)年に銅山となり、大阪の北国屋の経営になってから発展して11山になった。その後諸山の盛衰は烈しかったが、1698(元禄11)年に秋田藩の直営となって急速に生産が伸び、1716(享保元)年には産銅量が全国一になり、当時の人口は約2万人と伝わる。 
 
明治以降は工部省の経営を経て古河市兵衛に払い下げられ、その後に古河鉱業に引き継がれた。「昭和産金奨励時代に乗じて発展し、大戦中は更に銅山として継続された」という。 
 
だが、軍需省からの産銅量の要求は大きく、生産用資材と労働力不足が深刻になり、朝鮮人の確保に踏み切った。「1940年から飯場が入って朝鮮人が就労、(略)直傭制に変わる直前には70~80人になっていた。1943年12月に忠清南道扶余郡から136名徴用した。徴用はその後二回あった。最終的には朝鮮人は300人くらい」というが、朝鮮總聯秋田県本部では約800人と見ているので、500人の差がある。ので、500人の差がある。 
 
朝鮮人の飯場は阿仁合の町並の東側、山と山に囲まれた三両川の岸に建っていた。飯場には病人用の部屋があり、「いつも7~8人の病人がいた。脚気の人が多く、病死した人もいて、専念寺で通夜したことがある。逃亡も二~三回あった」という。「集団で来た人(3)たちは苛められた。食わせないで働かせ、仕事中に腰をのばすと棒で叩かれていた」と自由で来た林鍾新は証言している。日本の敗戦で10月末に帰国する時に、苛められた礼に鉱山事務所を焼く相談をした。その時に独立運動で投獄された経験のある人が、「祖国は解放された。大きな気持でおとなしく帰ろう」と訴えるのを聞き入れ、全員は戦時中に受けた過酷な待遇を胸に抱いたまま汽車に乗って帰国した。 
 
参考文献26 
・『秋田県鉱山誌』1968年 
・『東北地方朝鮮人強制連行真相調査団メモ』1975年7月28日~8月1日 
・『歴史の空白』(朝日新聞·秋田版)1975年8月8日~12日 


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