2025年04月28日15時11分掲載  無料記事
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文化

野添憲治の「秋田県における朝鮮人強制連行の記録」23回 道路づくりをした 能代市二ツ井町外面

 
奥羽本線の線路にそって人ひとりがやっと通れる道があった。危険なので地元は道の拡幅を望んでいた。アジア太平洋戦争の末期、そこて道路工事が始まった。記録は朝鮮人と地元の子どもたちの交流を、当時国民学校に通っていた地元の人たちから聞き取って紹介している❓(大) 
 
 
子どもたちにはよく声をかけた 
 
JR奥羽本線二ツ井駅から富根駅に向かって約Sキロほど行くと、あさひの森の堀り割りに着く。堀り割りを過ぎると県道義代二ツ井線に出るので外面の踏切りがあり、すぐ米代川なので鉄橋になっている。 
あさひの森の線路を二ツ井駅に向かって左側に、線路と平行して普通車が一台通れる幅の道路がある。アジア·太平洋戦争前にも狭い道はあったが、ようやく人が歩ける位の一 
本道であた。工事費を節約するためにそうしたのかわからないが、狭い道tを人が歩いている時に汽車が通ると、風圧で人が汽車に引き込まれそうになった。 
 
だが、そこを歩かないであさひの森が終わった所まで歩くと遠いので、外面の人たちはよくそこを歩いて二ツ井町に行った。線路を歩いて危なく人が轢かれそうになったことが何度もあったという。そのため、左側の道幅をもっと広くして欲しいという要望が地元からでていたが、取り上げられずにいた。 
 
ところが地元の人たちの話では、1943(昭和18)年ごろに5人ほどの朝鮮人が来ると、狭い道を広くする工事を始めた。外面の人たちが二ツ井町へ買い物に行く時や、子どもたちが学校に通う時に外面の踏切を通るので、朝鮮人が働いているのを見ている。当時、国民学校に通学した外面の人を訪ねて朝鮮人のことを聞いたが、5〜6人が働いていたという。 
 
朝鮮人たちはニツ井駅の近くにあった丸山の練炭工場のそばにあった祖末な飯場に寝泊まりしていた。ハッパをかけるのを何度も見た人がいた。子どもが踏切を通る時は、朝鮮人たちはよく声をかけてきた。なかには一緒に遊んだという人もいた。 
 
工事の期間はどれくらいだったかはわからない。工事が終わると朝鮮人はいなくなったが、道路の左側の岩にはノミの跡がいまも残っている。 
参考文献(1)『秋田県朝鮮人強制連行真相調査団会報』第24号 2001年 


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