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特集ブラジル農業にかけた一日本人の戦い<最終回>ブラジルを農場大国に押し上げた日本人移民の力 和田秀子(フリーライター) 終章では、横田さんはじめ多くの日本人が、巨額の資金と技術力を費やした“セラード開発”によって、ブラジルの農業がどれほど飛躍したのかを、具体的に数字を見ながら検証していきたい。第5章「セラード、新たな使命との出会い」でも述べたように、不毛の大地 “セラード”の開発にいち早く取り組み、土地の改良を重ねることで、土台を築き上げていったのは、コチア青年たちであった。日本政府が、1979年〜2001年までの約21年にわたっておこなった「日伯セラード農業開発協力事業」に踏み切ったのも、当時、首相であった田中角栄が1974年に訪伯し、コチア青年らが開拓していたセラード地帯を視察したことが大きなキッカケとなっている。(2008/08/20) <13>食糧の安全とアマゾンの森林を守る 新しい夢への挑戦が始まった 和田秀子(フリーライター) 今年の5月下旬、筆者は、横田さんとともに「株式会社コチア青年セラード開発」を興した中沢宏一さん(64歳)、蛸井喜作さん(72歳)に会うためサンパウロを訪れた。彼らのオフィスは、サンパウロ市内の中心部に位置する “リベルダージ”(日本人街)にあるマンションの一室だ。かつてこの地区には、日本人移民が多く住んでいたが、現在は日系人をはるかに上回る数の中国人や韓国人が居住するようになったため、“日本人街”改め“東洋人街”と呼ばれるようになっているという。(2008/08/07) <12>米企業の遺伝子組み換え汚染から「食の安全」を守りたい 和田秀子(フリーライター) 資金難のため、バイア州の「戦後移住者開拓団地」の開発をあきらめた横田さんは、2004年、2,300ヘクタールの土地をバイア州に残したまま、日本に向けて飛び立った。「もう一度、なんとしても日本人の威信と信用を取り戻したい」そんな気持ちで、横田さんはブラジルを後にしたという。日本人が、初めてブラジルに渡ってから100年間、その勤勉で優秀な働きぶりは、“ジャポネス・ガランチード(信頼のおける日本人)”といわれるほど、ブラジルで高く評価されてきた。(2008/08/04)
<11>世界的な農業転換の波に飲まれて 和田秀子(フリーライター) 前回は、1990年代初頭のブラジルにおいて、米資本である穀物メジャーが力を増していったことを述べた。横田さんらが所属していた「コチア産業組合」の崩壊を待ちわびていたかのように、穀物メジャーは勢力を拡大し、ブラジル国内の穀物をすべて牛耳っていったのだ。しかし、アメリカの国家戦略はここからが本番だった。横田さんは、周到に仕組まれたアメリカの長期戦略を、こう推測する。アメリカは当時、自国内での穀物の生産性低下に頭を悩ませていたため、あらたな食糧基地として広大なブラジルの土地を確保し、穀物の生産から販売まで、すべてを支配しようと考えていたのだ。(2008/07/30) <10>真綿で首を絞めるような米国の食糧戦略 和田秀子(フリーライター) 横田さんが、融資先を求めて日本で奔走していた約40日の間に、整地されていたバヘイラスの「戦後移住者開拓団地」には雑草が生え、無残な姿に変わりつつあった。5,000万円の資金を携えてブラジルに戻った横田さんは、さっそくコチア産業組合の上層部たちと交渉し、「戦後移住者開拓団地」の買い戻しを進めていった。その結果、「組合側から借り受けている一切の資材や耕具を返却すれば、借金を帳消しにし、土地の売却に応ずる」という契約を取り付けたのだ。1992年の夏のことだった。(2008/07/19) <9>窮状訴え日本への陳情の旅 和田秀子(フリーライター) コチア産業組合の手により、今まさに売却されようとしているバヘイラスの「戦後移住者団地」。その土地を自らの手で買い戻すべく、横田さんは入植者を代表し、1991年に自費で日本に向かった。「戦後移住者団地」を買い戻すために必要な額は、土地代や農業機材をひっくるめて約240万ドル。日本円にしておよそ2億5千万という大金だ。まずは、農林水産大臣をはじめ、当時、ブラジルとつながりの深かった国会議員たちを訪れては、窮状を訴えた。(2008/07/16) <8>お金より家族より、夢と仲間を選んだ 和田秀子(フリーライター) コチア青年たちの“夢の集大成”として、1986年に開発がはじまったバイヤ州バヘイラスの「戦後移住者団地」。ここでは、ファゼンデーロ(大農場主)を夢見て集まった37名が、電気もガスも水道もない陸の孤島のなかで、来る日も来る日も開拓し続けていたことは、すでに第7章で述べた通りである。しかし“開拓”と一口に言っても、農業に従事したことのない私たちにとって、その労力は想像し難いものだ。(2008/07/07) <7>コチア青年が夢見た“ファゼンデーロ”への道 和田秀子(フリーライター) 「日伯セラード農業開発協力事業」の決定により、日本から多額の開発資金が投入されることになったブラジルでは、1970年代後半から80年代中半にかけて、空前の“セラード開発ブーム”が沸き起こった。1973年に、ミナスジェライス州のサンゴタルド(*1)からはじまったセラード開発は、どんどん広がりを見せ、77年にはミナスジェライス州のパラカツ(*2)、86年にはバイヤ州バレイラス(*3)へと進んでいく。(2008/06/30) <6>セラード開発に日本政府が巨費を投じたわけ 和田秀子(フリーライター) この稿では、少し「日伯セラード農業開発協力事業」について補足しておきたい。この事業は、セラード開発のために、日本とブラジルが共同でおこなった国家プロジェクトで、1979年9月から2001年3月まで、3期に分けて実施された。日本からも、国際協力事業団(現・国際協力機構 JICA)を通じて多数の農業専門家が送り込まれ、600以上の農家が入植したといわれている。日本政府は、このプロジェクトが終了するまでの21年間に、なんと約600億円にもおよぶ資金を投入しているのだ。(2008/06/23) <5>セラード、新たな使命との出会い 和田秀子(フリーライター) 億万長者になり、目的を見失っていた横田さんに、大きな転機が訪れた。不毛の地“セラード”との出会いである。“セラード”とは、ブラジルの南西部、南北マトグロッソ州、ゴイアス州に広がるサバンナ地帯のことだ。その面積は、約2億ヘクタールにもおよび、日本の国土面積の約5倍に匹敵する莫大な広さである。しかしセラードは、いわゆるアフリカのサバンナのような痩せこけた土地で、農業には適さないとして、長年放置されていた。(2008/06/19) <4>10年目のリベンジ、“バタタ成金”になるが… 和田秀子(フリーライター) 横田さんは、移住6年目で独立を果たす。こつこつ貯めた資金で、30ヘクタールの土地を購入し、晴れて農場主となったのだ。と、同時に、日系二世の女性と結婚して家庭を築き、順調に歩みを進めていった。「先生、10年間だけ元気で生きとってください。10年たったら、必ず成功して帰ってきますから」。そういってブラジルに渡った横田さんは、約束どおり、移住から10年目の春、故郷に錦を飾る。(2008/06/14)
<3>移住4年目で、馬鈴薯づくりのエキスパートに 和田秀子(フリーライター) コチア産業組合は、当時、馬鈴薯の栽培で大きな成功を収めていたため、ブラジルに到着したコチア青年たちの多くは、日系人が営む馬鈴薯農家へと配耕されることになった。横田さんも自身も、ブラジルに到着して間もなく、サンパウロ州にある日系2世の馬鈴薯農家へと送り込まれた。農場で働く現地の男たちは、みな真っ黒に日焼けして、屈強な体つきをしている。しかし、そんな彼らと対照的だったのが、横田さんの体格であった。(2008/06/12) <2>キッカケは、英語教師に叱られたこと 和田秀子(フリーライター) 横田さんの人生は波乱に富んでいる。そもそも、今から48年前、18歳だった横田さんを、単身ブラジルに向かわせたものは何だったのか―。横田さんに素朴な疑問をぶつけてみると、よく日焼けした顔を笑顔でくしゃくしゃにして答えてくれた。「<横田!おまえは英語ができんくせに、勉強もせんで、どうしようもないやつだな!>と、いつも私は、英語の先生に叱られとったんですよ」(2008/06/09) <1>海を渡ったコチア青年 和田秀子(フリーライター) 筆者が横田尚武さんに出会ったのは、2007年夏のことだった。取材のため、起業家や知識人たちが集まる会合を訪れたところ、その席で、ブラジルにおける日系農業の窮状を訴える、横田さんに出会ったのだ。南国の人を思わせるような、ぱっちりとした二重の目に、日焼けした肌―。その風貌は、どこか日本人ばなれしており、初対面では“日系二世”かと思ったほどだった。しかし、横田さんは長野県飯田市出身。純粋な日本人である。(2008/06/07) <序章>ブラジルを農場大国に押し上げた、日本人移民の力 和田秀子(フリーライター) ご承知の通りブラジルは、ロシア、インド、中国とならんで“BRICs”と称されるほど、その目覚ましい発展ぶりが注目されている。このようなブラジル経済の動向や、現在、ブラジルが積極的に推進している“バイオエタノール”関連のニュースは、メディアでもよく耳にするようになった。しかし、こうしたブラジル経済発展の影に、少なからず日本人移民たちの貢献があったことは、あまり伝えられていない。 そこで、この連載では、約40年以上にわたり、ブラジル農業に力を注いできた戦後ブラジル移民のひとり、横田尚武さん(67歳)の歩みにスポットを当てることで、ブラジル農業において「日本人の果たした役割」をふり返ってみたいと思う。(2008/05/22) |
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