ビルマ(ミャンマー)の民主化運動指導者でノーベル平和賞受賞者のアウンサンスーチーさんが60歳の誕生日を迎える今月19日、日本や米国など世界各地で記念の催しが行われる。いまだに自宅軟禁中の彼女の不屈の闘いを励まし、ビルマが一日も早く軍事独裁から民主主義の国へと生まれ変わることを願うとともに、闘いを支える非暴力と対話という基本姿勢の意味を現代世界のなかで再考してみたい、という主催者の呼びかけに対して日本でも各界の著名人や市民から80通近いメッセージが寄せられている。(ベリタ通信=永井浩)
▼日本人とビルマ人共催で東京で記念イベント
東京では千代田区の在日韓国YMCAアジア青少年センターで、ビルマ市民フォーラムやアムネスティ・インターナショナル日本、在日ビルマ人民主化活動家らが中心となって、「アウンサンスーチーを忘れない!!」と題する誕生日祝賀イベントが開かれる。
ビルマ人による民族舞踊と歌、シンガーソングライター“SAKURA”のスーチーさんに捧げる歌、軍政下のビルマの実情を伝えるビデオ上映、スーチーさんのいとこで米国を拠点に民主化を求める活動をしているセインウイン博士と日本の研究者らによるシンポジウムなど、盛りだくさんなプログラムが組まれた。
実行委員会にとって予想外の喜びとなったのは、さまざまな人たちから寄せられたスーチーさんへのメッセージだった。イベントに「忘れない!!」という表現を入れたのは、長引く軍政のなかで彼女たちが率いる民主化運動が日本でしだいに忘れられようとしているのではないかという危惧があったからだが、けっしてそうではないことが分かった。
メッセージは、衆参両院議員、作家、俳優、歌手、ミュージシャン、弁護士、大学教員、ジャーナリスト、軍事アナリスト、会社員、自営業など幅広い分野の人たちから寄せられているが、そのなかからいくつかを紹介すると――
心正しく真の勇気のある方が、まっとうに受け入れられない社会があってはならないのです。あなた様の存在は世界中の心正しい人びとにとって静かでそして力強い光です。光が消えることなく更に輝き続けますように。(磯田ひさ子・歌人)
ビルマの華、おめでとう!(唐十郎・演出家)
軍事政権による理不尽で過酷な政治を余儀なくされている貴国ビルマに民主制をもたらそうとする貴方様のこれまでの長い試みと努力、日々のご辛苦は21世紀の今、国際社会、とりわけ平和憲法を国是とする私共日本の国民が大きな関心のもと、見守らせて頂いております。くれぐれもお体御大切に。ビルマのため平和の闘いを完遂されますように。(紀平悌子・日本婦人有権者同盟代表)
わたしたちは、あなたのことを忘れていないし、これからも忘れることはないでしょう。過酷な闘いにめげぬ、あなたの爽やかな面影は、人間の希望です。(寺島アキ子・脚本家)
(メッセージの全文と催しの詳細はhttp://www1.jca.apc.org/pfb/index.htm )
▼スーチーさんは3度目の自宅軟禁下に
アウンサンスーチーが、ビルマの民主化運動のシンボルとして彗星のように登場したのは1899年だった。彼女はビルマ独立の父アウンサン将軍の娘だが、父の暗殺後は長いことインドや英国で高等教育を受け、政治の世界とは無縁の生活を送っていた。英国人と結婚し、二人の子どもを育てる専業主婦だった。
だがこの年、たまたま母親の看病のため英国から帰国したところ、軍政打倒をめざす国民的な民主化運動に遭遇する。彼女は「父が独立のために闘ったのは、現在のようなビルマをつくるためではなかった」と述べ、民主化運動に参加していく。
独立の父の娘、気品あふれる美しさ、さわやかな弁舌を兼ね備えたアウンサンスーチーはたちまち国民を魅了し、彼女らの政党・国民民主連盟(NLD)への期待が高まった。これを恐れる軍政は、彼女を自宅軟禁にし、NLDのその他の指導者らを投獄した。1990年、民主化運動の成果として約30年ぶりに行われた複数政党制による総選挙で、NLDは議席の8割を獲得する圧勝をおさめたが、軍政は政権移譲を拒みいまだに権力の座に居座りつづけている。
彼女は、95年に6年にわたる自宅軟禁を解かれ政治活動を再開するが、軍政は98年にふたたび自宅軟禁下に置いた。2002年に2度目の軟禁を解除されたのもつかのま、03年5月に地方遊説中に軍政配下の暴漢グループに襲撃され、その直後から3度目の自宅軟禁となり現在にいたっている。
国際社会は軍事政権による民主化・人権の弾圧を非難しつづけ、欧米諸国はビルマへの経済制裁を強化してきた。国際社会から軍政への対応が甘いと批判されてきた日本政府も、彼女の3度目の自宅軟禁後にはついに新規ODA(政府開発援助)を凍結した。しかし、軍政は民主化を拒否しつづけている。その間に経済は悪化の一途をたどり、今年5月には首都ヤンゴンで、190人以上の市民が死傷する連続爆破事件も起きている。
▼ビルマの民主化運動が問いかけるもの
今回の誕生記念イベントで主催者がとくに強調しているのは、スーチーさんらの闘いが仏教の基本的な教えである徹底した非暴力と対話の哲学によって進められている点である。1991年のノーベル平和賞受賞も、その点が高く評価されたのである。「武力と財力によって自分の意思を押し通そうという非寛容な空気に覆われている現在の世界にあって、彼女たちの勝利はビルマだけではなく、世界中の平和をのぞむ人びとを勇気づけるものとなるにちがいない」といのうのが、誕生日イベントでのメッセージとされている。
記念イベントへの参加を呼びかけるチラシには、スーチーさんのつぎのような言葉が引用されている。 「ビルマの人権と民主主義をめざす戦いは、よりよい世界をめざす人類の、より広範な戦いから切り離すことはできません」(『希望の声』邦訳:岩波書店)
これは、日本国憲法の前文の一節と共鳴しないだろうか。 「われらは、平和を維持し、専制と隷属、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」
わたしたちが、ビルマの人びとが置かれている「専制と隷属、恐怖と欠乏」の除去に協力することは、アウンサンスーチーらの呼びかけに応えて、国際社会でわたしたちが名誉ある地位を獲得することにつながるはずである。
▼スーチーさんとの約束
わたしがスーチーさんに最後に会ったのは、1996年だった。当時、わたしは毎日新聞に連載中のスーチーさんのエッセイ「ビルマからの手紙」を担当しており、その打ち合わせのためにヤンゴンに滞在していた。ところが、彼女との面会の日、スーチー邸への道が軍によって封鎖されてしまった。やむなくNLD副議長のウ・ティンウを介して彼女と連絡をとってもらったところ、パソコンのインクカートリッジがなくなりそうなのでどこかで購入してもらえないだろうかという、彼女の伝言が届いた。
数日後、道路封鎖が解け、スーチーさんの自宅をおとずれると、彼女はカートリッジの代金を払いたいと言う。わたしは領収証を見せながら「代金はあなたがたの闘いが勝利したときでけっこうです」と答えた。彼女はやさしい笑顔でそれを受け入れてくれた。
彼女が自由の身で誕生日を祝え、わたしとの約束を果たしてくれる日がおとずれのは、それほど遠くないこととわたしは確信している。
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