【openDemocracy特約】フランスのエリートの大きな問題は、彼らが年老いているということである。年齢においても精神においても老いている。ジャック・シラクの大統領職の物悲しい末期は、最も深刻な例である。シラクは1960年代半ばから政界において積極的で、かつては活気あふれた人物であったが、いまや73歳、道程も終わりに近づいている。しかし、その問題はドイツで行われているワールドカップでのフランス代表チームの(これまでの)凡庸な成績にも反映されている。スイスと韓国という小ぶりの相手に対し、精彩のない引き分けをしたということは、優勝する望みがほとんどないことを示している。
レ・ブルー(訳注:フランス代表の愛称)にはまだスター選手がいるかもしれない。ティエリ・アンリ、パトリック・ビエラ、ファビアン・バルテス、ジネディーヌ・ジダン。しかし、ここでまた問題が明らかになる。彼らはピークを過ぎたベテランであり、まさに、平均年齢が30歳以上と競合チームの中で最も高いチームの象徴なのである。
サッカーにおいて、政治や社会と同じように、フランスはブルー(憂うつ)を抱えている。共通する特徴は、フランスの若者が再生に貢献できる、正当で、受け入れられる場所を見つけ出すための突破方法が見出せないということである。
サッカーファンで、ドゴール派の元閣僚であり、現在はフランスの国家財政を監督する会計院の院長であるフィリップ・スギャンはルモンド紙上で、サッカーと政治との間の意表をつくような比較をした。「フランスの現在の沈滞は、しばしばがくぜんとするような現実と、自分たちにとっての野心と確信との間のギャップからきている」
「それがどんなに輝かしいものであったにせよ、あたかも現在の成功を保証するものであるかのように、われわれは過去にしがみついてきた。われわれは、すべての世代を脇に追いやって、このチームのチャンスを駄目にしてきた。われわれ自身を問題にすることなしに、前に進むことはできない。われわれは、それを理解することを拒否してきた。結果は明白である。サッカーははっきりした指標でもあろう。このチームは多分、われわれの眼にわれわれ自身の姿を映している」
確かに、スポーツには決定論に逆らう偶然性がある。韓国戦でパトリック・ビエラの2回目の「ゴール」を審判が無効にしなければ、事態は変わっていたかもしれない。予選の第3戦でフランスがトーゴに勝てば、目論みは変わってくるかもしれない。同様に、そのような幸運は、末期症状のチームの苦痛を長引かせるだけになるかもしれない。より重要な点は、政治や人生と同じようにスポーツでは、事態が悪くなり始めると、より大きな組織的な欠陥が往々にして明らかになり、さらに問題を引き起こすことになるということである。
シラク大統領とドビルパン首相は、ワールドカップ(その後にはフランスの国民生活に行きわたった1か月間の夏休みが続く)が政治に小休止を与え、人気下落に歯止めをかけ、いかにして国会議員の不満を抑え、消えつつある忠誠を取り戻すかを考える余裕を与えることを望んでいた。最新の世論調査によれば、フランスの大統領と首相としては最悪であり、この望みがはかないものであることは明らかである。
フランスがワールトカップを主催し、レ・ブルーが黒人、白人、アラブ人ばかりでなく、アルメニア、バスク、ポーランド出身の選手も含んだ多彩なチームで優勝した1998年ははるか遠い。そのチームはフランスの多様性のある社会の代表であった。その時の国民的熱狂は、アラブやアフリカ世界からの新しい移民の波を統合する素晴らしい機会を提供した。2005年にバンリューで起きた騒動は、この貴重な機会が空費されたことを示している。
救世主はもういない
フランスにおける年齢の問題は、その他多くの構造的欠陥を悪化させ始めた。何十年もわたって、フランスの世論は危機に際して、古参の政治家、守ってくれる父親のような人物、救世主にさえ救いを求めた。1940年のペタン元帥、1944−1945年のシャルル・ドゴール、1981年のフランシス・ミッテラン。
こうした嗜好の究極の論理が、2002年の大統領選挙戦で見られた。フランスの有権者は3人の主な候補者(シラク、ジャンマリール・ルペン、ライオネル・ジョスピン)の中から選ぶように求められた。3人とも「ふつうの」の職業世界では、年金生活者であったであろう。
若い世代の政治家が突破口を開こうとしていることは、フランスにおける進歩の小さな兆しなのか。最も頭脳明晰なふたり、社会党のセゴレーヌ・ロワイヤルと右派のニコラ・サルコジはシラクより1世代若く、新しい政治言語を話す(古い価値を新しい包装で包んでいるに過ぎないように見えるとしても)。セゴレーヌの場合には、その現象はフランスのエリート政治界における男性優位に挑戦する健全な変化をもたらす。
ふたりとも国民に直接語りかけ、日常生活で市民が直面する問題をとりあげる。“サルコ”は厳しい法と秩序、反移民の方針を打ち出した。それは極右に受けるとともに、自動車の焼き討ちや軽犯罪にうんざりしている郊外の住民に向けられている。タフで上品な“セゴレーヌ”(または“セゴ”)は、左派の聴衆に向かって治安、教育、家族の価値について語ることを恐れていない。聴衆は、1968年5月以前の過去のものとして、長い間避けてきた問題を考え直さざるを得なくなっている。
ふたりは目立ち、はっきりした個性を持ち、集会にはいつもとは違って、たくさんの群衆が集まる。それは、伝統的な支持者よりはもっと幅広い聴衆からなっている。そこでは、彼らは演説を行い、メッセージを届ける。それらは最新の宣伝マシーンによって素早く伝えられる。
うまく働いているのは政治的コミュニケーション能力だけではない。離婚率が50%近いいま、サルコジもロワイヤルも前の世代より、新しい社会により近い「公的」な個人生活をしている。サルコジと妻セシリアは2回別れ、2回復縁した。一方、ロワイヤルは長年のパートナーである社会党第1書記フランソワ・オランドと結婚はしていない(4人の子供がいる)。そうしたことは、つい最近までフランスのような保守的な社会では、スキャンダルになっていたであろう。
過去の栄光を取り戻すために、フランスはこのワールドカップのために最後にもう一度だけ、伝説的なジダンに救いを求めたのかもしれない。2007年の選挙が近づき、フランス社会党とフランス政治の“ゾウ”(訳注:保守派のこと)はフィールドに出て、次世代をものともせずに、生き残りをかけて戦うであろう。作戦計画はどちらもどのような結果になるであろう。間もなく分かる。
*パトリス・デビア ルモンド紙のロンドン、ワシントンの元特派員
本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netに発表された。 原文
http://www.opendemocracy.net/globalization-institutions_government/politics_soccer_3660.jsp
(翻訳 鳥居英晴)
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