【openDemocracy特約】ヒマラヤでの民主主義にとっては、まさに特別な時代だ。ネパールの大衆運動が事実上、ギャネンドラ国王から絶対権力を4月に奪った。東ヒマラヤの王国、ブータンではシグメ・シンゲ・ワンチュク国王が2005年12月、2008年までに退位し、議会制の政府を採用すると宣言した。
50歳の国王が退位し、息子のシグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクに王位を譲るという発表は多くの人にとって衝撃であった。近隣のネパールでの動向と相まって、両王国が民主化しつつあるような証拠に見える。が、ネパールでの草根の根の手法とブータン国王のトップダウンの権力委譲の間には重要な違いがある。
ブータンはイスラエルの倍以上の広さがあり、インドと中国に挟まれている。ブータンの政治は、いつも言われているようなものとは限らない。近年、民主的進歩という概念を王室が宣伝し、“エキゾチック”な新しい場所と話題をいつも求める国際的メディアが広めているが、ブータンの紆余曲折した歴史と排他的な政治は、そうしたものを寄せ付けない。
実際、閉鎖的で風光明媚なブータの保存と近代化の取り組みについて、メディアは肯定的な情報操作を行ってきた。近代に汚されていない文化。「雷龍の土地」、国民総生産(GNP)ではなく「国民総幸福量(GNH)」という国王の哲学を支持する仏教の桃源郷、喫煙を禁止する唯一の国、国土のほとんど3分の2が森に覆われた国。openDemocracyさえもこの魅力的な情報操作を免れることができなかった。(ブータン外相リョンポ・ジグメ・ティンレイの「グローバリゼーション:ブータンからの見方」2001年10月25日参照)
確かに、ブータンから本当に「肯定的な」ニュースが出てくることもある。経済指標は途上国の中では、比較的目覚しい。正式な成文憲法を採択するという提案と最初の総選挙の実施は、議会制民主主義への方向の動きである。ワンチュク国王の比較的進歩的なイメージは、ブルネイからサウジアラビア、スワジランドにいたる絶対王政と比べると、すがすがしいように見える。また、ビルマ(ミヤンマー)の軍事政権には、仏教は民主主義をもたらすと思い起こさせるかもしれない。しかしながら、微笑みの後ろに、もっと複雑な真実が横たわっている
▼青年期の王制
ブータンはヨルダンと同じように植民地時代に始まった王制である。1907年に英国によって立てられ王制は、世界で最も若い王制のひとつである。青年期の制度に付随した元気あふれる状態は人の心をとらえるが、抑制のない若さは、虚勢、自己愛それに不必要な争いを招くこともある。
伝統的にブータンにおける政治・社会的争いは、仏教宗派と封建軍閥の間のものであった。モンゴルとチベットの仏教宗派間の衝突は、1616年にチベット仏教カギュ派の高僧シャブドゥン・ガワン・ナムゲルが聖俗の二重支配制度を基礎に、近代ブータンを建国するまで、その政治形態を特徴付けていた。桃源郷のユートピア的な思想をかきたてた仏教神政政治は、1652年にガワン・ナムゲルが死亡するとともに終わった。
この後2世紀にわたり、宗派間の内戦が続いた。1907年、チベット仏教のドゥルクパ・カギュ派の地方豪族ウゲン・ワンチュク(現在の国王の曾おじいさん)が全土を掌握した。隣国インドの支配者であった英国は、忠誠の報酬として、ウゲンを国王に指名した。
しかし、ウゲン・ワンチュク(1907−1926)、その息子のジグメ・ワンチュク(1926−1952)、孫のドルジ・ワンチュク(1952−1972)も絶対的権力を享受することはなかった。事実、ドルジ・ワンチュクは1968年、分権的になり、ますます不安定になった精神秩序に譲歩し、国会が3分の2の多数が国王に対する不信任を決議した場合、長男に王位を譲ると布告した。国王はまた、秘密投票による国会議員の選挙を導入した
現在の国王シンゲ・ワンチュクは、1972年に王位についた。間もなく、退位制度を廃止し、国会議員を直接任命し、権力集中のプロセスを始めた。ブータンの歴史で初めて、支配者が複雑な王族をつくり、叙任権と縁故主義の制度をつくることができた。結びつきの強い大王族のメンバー(ワンチュク国王は4人の妻を持ち、妻たちはみな姉妹である)は政府と通商を支配している。
国王は、東部のシャチョップ、ネパール語を話す南部のロシャンパ、各地に散らばっているドヤとブロクパなどの少数民族を犠牲にして、西部の有力なガロンに対する優遇策を進めた。国王は1989年、「一国家、一民族」を推進する文化布告を発し、人種差別主義的な動機はより一層明らかになった。
この特異な布告は、民族や文化にかかわらず、全員に有力なドゥルクパ(訳注:ガロンを含む北部山岳部に住む仏教徒の総称)がするような食事の仕方、座り方、話し方、衣装の着方をするように強制した。チベット方言のひとつであるゾンカを国語とし、ネパール語を含むその他の言語を学校で教えることを禁じた。
ロシャンパがゴやキラ(ローブのような服装)を着るのを拒否し、差別的な動きに抗議すると、数百人が拷問され、投獄された。その中には、王室顧問で現在はブータンの民主化の最先端に立つ指導者、テク・ナス・リザルもいた。1990年、ブータンの人口約50万人(異論もある)の3分の1近い10万人以上のネパール語を話すブータン人が不法移民、反国民として国外追放された。
実際には、ネパール人はブータンに1624年以来、住んできた。19世紀と20世紀の前半、ブータン政府に誘われて、労働者や建設労働者として多数やってきた。
ワンチュク国王は追放を正当化する理由として、ブータンでネパール人が多数派になると、もうひとつのシッキムになってしまうことをあげた。シッキムはネパール人が多数派を占め、1975年、投票でインドに入ることを決めた。
1990年代初めの反乱は、2番目に多い少数民族で、ブータンに最初に住みついたシャチョップにも広がった。シャチョップはインド・ビルマ系で、ツァンラなどの非チベット系の言語を話す。多くのシャチョップが迫害を逃れるために、国外に逃げ出した。その中のロントン・クエンレイ・ドルジは、ドルック国民会議(DNC)の亡命指導者者になった。迫害はキリスト教徒とヒンズー教徒にも及んだ。
ネパールのキャンプに住む難民の帰還の問題を話し合うブータンとネパールの間の2カ国間の交渉は15回、開かれた。最後は2003年に開かれたが、ほとんど進展していない。
今日、ブータンに追放された難民(わたしのブータン人の親戚を含む)は、ネパール東部にある国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が運営するキャンプで苦しい生活をしている。これらの現在無国籍になった人々の「民族浄化」は、マイケル・ハット、マイケル・アリス、レオ・ローズなど学者のだけでなく、アムネスティ・インターナショナルやヒューマンライツ・ウォッチなどの人権団体によって広く証拠立てられている。
▼排他的政治
ワンチュク国王の排他的政治は、人気のあるシャブドゥン(初代国王)の遺産の抑圧とシャブドゥンの生まれ変わりへの迫害でもはっきりしている。現国王の以前の側近であったDNCのドルジによると、ワンチュク国王が彼に、シャブドゥンの輪廻転生の歴史を人々に説明しないように求めたことがあるという。最後の生まれ変わりであるシャブドゥン・ジグメ・ガワン・ナムゲル・リンポチェは、チベットのダライラマの系統に相当し、ブータン人に大変敬われていたが、専制的な国王の厳しい批判者であった。彼は2003年4月5日、亡命先のインドで不審な死をとげた。
ワンチュク国王の近代化プロジェクトは、国家建設という独立後の指導原理に基づいており、弾みがついた。過去数十年の良質な観光と近代インフラへの投資は、世界における知名度を高め、物質的な進歩をもたらした。国連の人間開発報告は、ブータンを後発途上国の中では高い評価をしている。しかし、国王の文化とアイデンティティの自己陶酔的な見方と国王の封建的な物の見方は、地域の平和、正義、人権と民主主義に大きな害を及ぼしている。
今日、権力闘争は不可避の地点に達した。それは王制と国民の間の直接的なものである。それは伝統的特権階級を越えて広がっている。既に、ネパールとインドには多くの亡命野党が存在する。ブータン人のディアスポラ(国外離散者)は民主主義の話でざわめき立っている。
国王は、民主主義は漸進的なプロセスで、臣下には民主主義を少しずつ与えると主張する。しかしまた国王は、地位の変化の勢いは「状況的なもの」で、「必然的なもの」ではないとした。マオイストのゲリラが政権に近づいているネパールでの動きに触れて、国王は「なぜ革命を待たなくてはならないか」と問うた。
長い内戦を持つブータン自身の歴史が、それを正当な恐れにしている
事実、民主的機構と人権を備えた憲法を起草することは、時代遅れの布告で長い間統治されてきたブータンの政治形態からすれば、極めて重要な転換である。しかしながら、国王の誠意には疑問もある。批判者は、1960年から1990年のネパールでの国王親政体制(パンチャヤート制)の間のように、国王は、爆発寸前の大変動を避け、真の代表制民主主義を遅らせるために憲法を使おうとしている、と主張する。
憲法は反体制グループからの代表が加わらずに起草され、国王の特権についてはあいまいなままである。憲法はまた、独立した司法の条項がなく、宗教、言語、文化的自由をはっきりと認めていない。ドゥルクパ版の均質国家に基づいた2党寡頭政治を想定しているだけである。
ブータンでの最初の選挙は、憲法草案が国民投票を通った後に行われる。この引き伸ばし戦術は、王室の占星術師の勧告に基づいて、選挙が2008年まで延期された事実に既に明らかである。占星術師のお告げによると、現時点では民主主義にとってよくないという。
立憲政治と人権という民主主義の基本は、民衆による政治の文化的な微妙な差異の中においてさえ、どのような形の民主主義でも不可欠である。ブータンはこのふたつの点を満たしていない。首都ティンプーで2日刊の民間新聞2紙が発刊されたことは、言論の自由の最初の前進の兆候である。
しかし、ブータン政府は野党(現在はほとんどが亡命中)と権力を分かち合う気はない。また、国民のかなりの部分、特にネパールとインドの難民キャンプに住む人々への基本的権利を否定し続けている。全国民の3分と1以上が家を追われ、選挙権が奪われている時に、真の民主主義はありえない。
この評価が意味することは、国際社会がもっと関与し、難民問題が解決されない限り、ブータンでの真の民主主義はまだ遠い先にあるということである。
▼国際的な責任
1949年の条約の規定で、インドはブータンの防衛と外交を管理し、ブータンの最大の援助国でもある。しかし、インドは、UNHCRと欧州連合が問題の仲介で積極的に関与するよう呼びかけているのにかかわらず、難民問題を「二国間」問題として退けている。
インドは、インドの勢力範囲を維持していることへのブータンへの見返りとして、ブータン政権を懐柔し続けている。ブータンは、ブータン南部を基地として活動しているインドの分離主義のグループを追い出すことで、見返りを与えられている。ブータンは22カ国と外交関係を結んでおり、教育を受けたエリートはますます1949年の条約が差別であると気付いているかもしれない。
しかし、ブータンはインドの影から抜け出すことができず、独自に行動することができないでいる。ブータンは国連での投票で、ごくまれにしかインドに逆らうことはなかったし、ブータンはインドの影響力のおかげで、1971年に国連に加入した。もう一つの地域大国でインドと競り合う中国とは外交関係がない。
2000年初め、ネパールの市民社会と政府は、ブータンから追放された難民の問題に国際的な注目を集めさせることができた。アムネスティ・インターナショナルとヒューマンライツ・ウォッチは、包括的で透明性のある難民認定プロセス、国際監視、UNHCRと難民の代表など第三者の関与をたびたび求めてきた。
欧州連合は2003年7月18日、両者(訳注:ネパールとブータン)が問題解決を積極的に支持することを求めた決議を採択した。民主革命後の今年6月、欧州連合のネパールへの援助が再開されたことは歓迎される。250万ドルの食糧援助はブータン難民に対するものである。
一方、米国はブータンと外交関係を持っていないが、外交的な義務を持っている。自由を拡大し、経済的な繁栄と平和を促進するという南アジアへの米国の政策は、一層の進歩的アプローチへ論拠となる。米国は問題に気付いているが、もっとできるはずである。
2000年、ビル・クリントン政権の終わり近くに、米国は2200万ドルのバルカンへの援助の一部を、ネパールに住むブータン難民のために使うことを認めた。当時、米国政府は「人道問題の解決のために両国と作業をしたい」としていた。
それはたいしたことではないかもしれないが、米国の懸念により両国間で一連の交渉が始まり、難民認定のプロセスが開始されることになった。(政治情勢の悪化で後に中断された) 2005年5月、ネパール駐在ジェームズ・モリアティ米大使は難民キャンプを訪れ、難民たちにネパール、インド、「できれば」ブータンと交渉し、解決を見出す努力をすると約束した。
ネパールでの内戦では1996年以来、1万3000人が死亡し、かつて目立った難民問題は二の次にされた。こう着状態により、難民の間に絶望と挫折が生まれている。国際的な圧力で10年間の投獄から解放され、現在はネパールに亡命中のテク・ナス・リザルが最近、わたしに語ったところによると、キャンプに住む若い難民は不安定な生活にうんざりしているという。座り込み、ブータンへの平和的な行進(インドの警察は旅行に出かける難民をいつも逮捕する)、ハンガーストライキは難民のおきまりの抗議の仕方になっている。
経済的自由の欠如、二国間の交渉に前進が見られないことで、難民の中にネパールのマオイストと共通の大義をなそうとするものが出てこないとはいえない。既に、ブータンのマオイスト組織が活発になっている。リザルは国際社会の無策を非難する。「彼らはわれわれを見放した」と彼は言う。「国際法に従わないブータンが国連の一員でどうしていられるのか」
国際社会が無策であると、パレスチナ、コソボ、ダルフールの二の舞になる可能性がある。南アジアは不安定であり、ネパールの危機は和らいだが、インドのマオイスト(ナクサライト)は広い地域を支配しており、バングラデシュの情勢は極めて不安定のままである。すべての関係者、インド、ネパール、ブータン、UNHCR、援助機関、難民の代表は、実行可能で永続的な解決策を討議するために、一同に会するべきである。
難民問題は現在のブータンの問題の中心的なものかもしれないが、民主化という難問の一部でしかない。ブータンの国民総幸福量(GNH)は、ワンチュク国王の対立的政治にあるのではない。それは、究極的には、王室政権が多様性を尊重し、野党指導者、党、国際社会に耳を傾けるような、公正で包括的な政治形態を必要としている。国王の退位宣言は魅力的かもしれないが、テク・ナス・リザルが述べたように、国王が隠遁生活を始めるということを意味しない。実際には、国王自身が、正規の権力を放棄した後は顧問としての役割を積極的に続けていくと言っている。
結局、ブータンの将来のカギはインドにある。しかし、他の3者、欧州連合、米国、国連は、ブータンで真の民主化プロセスが始まるようにインドに圧力を掛けるべきである。西側民主主義国は、ブータンで自由と尊厳の側に立ち、不正と抑圧の側に立たないよう、世界最大の民主主義国であるインドを説得できるはずである。
*ダルマ・アディカリ 米国ジョージ・サザン大学でジャーナリズムと国際メディアを教える。www.Newslook.org.の創設者で編集長。母国はネパール。インドとネパールで育ち、ネパールのトリブバン大学卒。米国ミズーリ大学ジャーナリズム学部のフルブライト奨学生となる。ホームページはhttp://www.georgiasouthern.edu/~dadhikar/
本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netに発表された。
原文
http://www.opendemocracy.net/democracy-protest/bhutan_puzzle_3697.jsp
関係日本語サイト ネパールのブータン難民
http://www.ne.jp/asahi/jun/icons/bhutan/ ドゥック・ユル
http://www.mskj.or.jp/getsurei/ogushi9908.html
http://www.mskj.or.jp/getsurei/ogushi9909.html GNH研究所
http://www.gnh-study.com/index.php
(翻訳 鳥居英晴)
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