【openDemocracy特約】英国のトニー・ブレアー首相の後継者とされるゴードン・ブラウン財務相が英国の核兵器の将来についての議論をたった5文字で意図的に再燃させた。6月21日に行った、世界市場、金融サービス、経済政策に焦点を当てた多岐にわたる講演で、21世紀の英国の安全保障について、「独自の核抑止力を維持すること」という言葉を入れたのだ。
ニュー・レイバー(訳注1)ではよくあるように、ブラウンの側近によって講演全体(訳注2)が“引き伸ばされた”のは、意味深い。彼らによると、この部分がブラウンが取り上げた話題の中で重要なところであったのだ。アンドリュー・ラウンスリーはこう述べている。
「それは労働党左派を怒らせた。それが目的であった。財務相をMiddle England(訳注3)で、もっと受けのいい人物にするために、あからさまに計画された。ブラウン氏の追従者はそれを隠そうともしない」(訳注4)
今後数週間から数ヶ月間に、英国の潜水艦搭載弾道核兵器、トライデントの代替計画についての議論があるかもしれない。労働党は適切な時期に決定するであろう。議会で議論があるであろうし、結果は明らかであるが、採決もあるかもしれない。“Middle England”は、英国が何千万人を殺す能力を持ち続けることによって、文明国で準大国の地位を保つことに、間違いなく安心するであろう。
しかし、もっと広い観点では、議論を「抑止力」という限定されたテーマに限定しようとする懸命な企てがある。実際、全体の議論は、極めて狭い前提で立てられている。英国の核兵器は、英国を全滅させると脅している敵に対して、最後の抑止の防御でしかないというものである。
45年間の冷戦時代には、その敵はソ連とみられていた。「悪の帝国」が消え去り、爆弾を所持する基本的な目的がなくなり、いま困難が生じている。たとえば、トライデントがどのようすれば2005年7月7日のロンドンの爆破事件を防止できたかは、明らかではない。若い爆弾犯の出身地リーズ、デューズベリーを核爆弾で報復することは、ニュー・レイバーにとっても、少し過剰であろう。
ところが、ジョージ・W・ブッシュは亡きソ連に代わって「悪の枢軸」を巧妙に作り上げた。これは、最も親密な同盟者トニー・ブレア(そして英国の首相としての後継者)に、トライデントの後継は、以下のような脅威を抑止するためのものだと主張する機会を与えている。テヘランのイスラム・ファシスト、ジェームス・ボンドを憎む世界征服を企む多数の北朝鮮のような国、パキスタン奪取した場合のタリバン、ニューデリーを陥落させた場合のナクサライト、そしてもちろん、歴史的な敵、フランスである。
しかし、この構図のどの部分も「抑止力」というドクトリンによっていまだに支えられている。Middle Englandは、われわれの核兵器は「良い」核兵器であり、最終策としてのみ使用されると知って、安心するであろう。多分、Middle Englandだけでなく、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドも死の灰に変わってしまった後であるが。
これについての問題は、それが核時代の最大の神話のひとつであるということである。広島と長崎に落とされた原爆が、数千回の空襲(東京大空襲のように)が要したのと同じ破壊をもたらして以来、核時代は、核兵器は戦争の武器として使用できるという考え方でいっぱいであった。これはワルシャワ条約機構(そして現在のロシア)ばかりでなく北大西洋条約機構(NATO)の核計画の中心であった。
NATOは同盟として、英国は国家として、大破壊的な全面核戦争には至らないレベルの核戦争を戦うことをずっと想定してきた。このことは、NATOも英国も核兵器の「先制使用」という政策を過去においても、現在も維持していることを意味する。
英国の核兵器の役割について、開かれた議論の時代が始まる前に、この隠された歴史をたどるのは有益であろう。これは、歴代の政府が公に議論することを避けてきた問題を明らかにする目的に適う。そして、より興味深い議論になるのを助けるであろう。
この議論は、ふたつの異なった問題を検討しなければならない。英国が重要な一員となっている同盟としてのNATO、それにNATO地域外において核の先制使用の政策を英国が長期にわたって追求して来たことである。
▼初期の英国の核戦力
英国は第2次世界大戦後間もなく、核兵器計画を始めた。1952年10月に原爆実験、1957年5月に水爆実験を行った。1950年代末までに、英国は中距離爆撃機V爆撃機(バリアント、ビクター、バルカン)に基づいた戦略核戦力を展開した。
1960年代中ごろから、英国は米ポラリス潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)配備可能な弾道ミサイル潜水艦隊を開発し始めた。そうした潜水艦の最初、レゾリュ−ションは1968年6月に巡航を始め、英国の戦略核戦力の管理は1969年7月、英海軍に移った。
英国は1950年代後半から、一連の戦術核兵器も開発した。主に爆弾で、多くの地上発進機と艦載機に配備された。それらにはシミター、バカニーア、ジャガーとシーハリア、それにリンクスとシーキングのヘリコプターがある。米国製の核対潜水艦爆雷は、海上警備機ニムロデと米国製のランス・ミサイルに搭載された。加えて、核弾頭と核砲弾が英陸軍に配備された。
1980年代初期のピークには、英国は、米国の数十の核兵器とともに、約400の独自の核兵器を配備していた。冷戦の終結とともに、ほとんどのタイプの核兵器はかなり急速に減ったが、英国のふたつの主要な核兵器は1990年代後半まで配備が続いた。ポラリス潜水艦発射弾道ミサイルとWE−177戦術核爆弾である。
1990年代にそれらは潜水艦発射ミサイル、トライデントに代わった。これはふたつの核弾頭を装備して配備されている。ひとつは広島型より何倍も破壊力がある強力な戦略弾頭、それに広島型の半分の破壊力を持つ「準戦略」ないし戦術・弾頭である。(訳注5)
1950年代以来、英国は核戦力をNATOに委ねるとともに、独自配備と使用可能性のために自由に使える核を持つという二本立ての政策でやってきた。
▼NATOの核計画
1940年代と1950年代初頭の初期の核兵器は、基本的に戦略的(敵国の中核資産に対して使用を意図したもの)であったが、特定の戦場内の戦術使用のための核兵器の開発は、東西核対決の初期の特徴であった。1950年代後半までに、米国とソ連は初期型の核搭載可能大砲だけでなく、比較的小型の投下爆弾を開発していた。次の25年間に、ほとんどあらゆるタイプの軍事態勢をカバーする、著しい数の戦術核兵器が開発され、配備された。
投下爆弾と同時に、短距離戦場ミサイルが核搭載対空ミサイル、各種の核大砲・迫撃砲とともに配備された。大きな橋やトンネルを破壊したり、山岳路を封鎖するために敷設する原子爆破兵器として知られる核地雷が開発された。海上においては、潜水艦は核搭載の魚雷が配備され、戦艦はミサイルやヘリコプターで放出される対潜水艦核爆雷を積載し、空母は数種類の核爆弾を搭載した攻撃機を発進させることができた。核装備した米国のジニーのような空対空ミサイルもあった。
1980年代までに、米国とソ連に配備された戦術核兵器は約2万あった。15カ国以上に配備され、世界中の戦艦や潜水艦に搭載された。大部分は、そのような兵器が使用されても、必ずしも全面的な核戦争に拡大しないという推定に立っていた。言い換えると、核戦争はコントロールできるというものである。冷戦の核対決が最も厳しかったと思われる地域の欧州では、両同盟とも通常兵器攻撃に対し、核兵器の先制使用の方針を持っていた。
ソ連が大規模な核兵器を開発する以前の1950年代のNATOでは、その態勢は、軍事文書MC14/2に体系化されていた。口語表現では「仕掛け線」(tripwire)態勢と言われていた。NATOに対するソ連の攻撃は、米国の戦略核戦力の使用を含む大量核報復を受ける。これは米国自身が耐えがたい損害を被ることなしに、ソ連の核戦力とその広範な戦力を破壊することを想定していた。
1960年代初頭までに、ソ連は多くの戦術・戦略核兵器を開発し、米国の攻撃に脆弱にならないようにした。そうした状況の中で、MC14/2は西側の軍事立案者に受け入れられないものになり、NATOにとってより柔軟な核態勢を展開しようとした。これが「柔軟反応」として知られるものになった。それはソ連の軍事行動に、幅広い軍事力で対応するばかりでなく、ソ連の侵略をやめさせ、撤退させるような形なら核兵器を先制使用できるといしていた。再び、核戦争は戦うことができ、勝利することができるという考えを体現していた。
新しい柔軟反応ドクトリンは1967年と1968年、NATO加盟国により、次第に受け入れられていった。それは「NATO地域の防衛のための総合戦略概念」(MC14/3)と題する文書に体系化された。それは米国にとって自国に対して核兵器が使われないという特別の利点のある態勢であった。
米陸軍大佐は当時、これを率直に表明し、その戦略をこう書いている。
「全面核戦争には至っていない状況に対処する能力の必要性を認識し、そのような状況を米国からできるだけ遠くにとどめる前方態勢を維持する」(Walter Beinke, "Flexible Response in Perspective", Military Review, November 1968).
柔軟反応は1980年代初頭の非常に緊張していた時期を含めた冷戦の最後の四半世紀のほとんどで有効であるはずであった。核使用の作戦計画は、ベルギーのモンス近くにある欧州連合軍最高司令部(Shape)の核活動支部によって作成され、単一統合作戦計画(SIOP)戦略核態勢に関与している米統合戦略目標計画スタッフと共同してネブラスカ州のオマハの基地から、運用された。
1970年代初頭までに、柔軟反応はNATOの核作戦計画のもとで確立された。それにはソ連軍に対する戦術核兵器の使用について、ふたつのレベルがあった。選択的オプションは各種の計画があり、その多くはワルシャワ条約の通常兵器軍に対する核兵器の先制使用を想定していた。最小レベルでは、NATOの意図を示すために威嚇発砲として、5つまでの小型空中核爆発も含まれていた。
高レベルの使用は、いわゆるプリパケッジ・オプションの核兵器は最高100個であった。当時の米陸軍の野戦マニュアルはそのようなパケッジを次のように規定している。
「特定の戦術目標を支援するために特定の地域で、限定された時間内で、使用するための特定の核出力の核兵器グループ。それぞれのパケッジは、戦術状況を決定的に変え、任務を達成するために十分な核兵器を含んでいなければならない」(Operations: FM 100-5, US Department of the Army, 1982).
選択的使用のこれらの異なるレベルは、核戦争に勝利する可能な方法と思われたが、これが失敗し、より全面的な核の交戦になる可能性が残っていた。これが戦術核兵器の使用の第二レベルであった。これは全面核反応と名づけられ、欧州のNATO核戦力は米国の核戦力とともに大規模に使われることになっていた。
このように1970年代末までに、NATOは柔軟反応戦略を展開し、限定的核戦争は勝利しえるという考えで、核兵器の選択的先制使用のために詳細な計画を立てた。1980年代初頭までに、米国によって配備されつつあったパーシング2のような高度に精密な弾道ミサイルで、NATOは核兵器の早期の先制使用の政策に動いていた兆候があった。
このひとつの兆候が、NATOのバーナード・ロジャーズ最高司令官の極めて率直なインタビューで現れている。彼は、彼の命令はこうであるといっている。
「同盟の結束を失う前に、すなわち、かなり大規模な(通常兵器のソ連軍の)侵入を受けやすくなる前に、核兵器の使用を要請する」(International Defense Review, February 1986).
NATOの核兵器の先制使用という長期の政策は、広く公に宣伝されることはなかった。強調されたのは究極の抑止力としての核兵器であった。そうであっても、その政策は比較的まれな機会に明らかにされた。そのひとつの例が、1988年、英国の国防省から国会の特別委員会に出された証拠である。
「戦域兵器の選択的準戦略的のための能力を維持する基本的な目的は、政治的なものである。NATOが核兵器を使用する能力と意思があることを事前にはっきり示すことである。周到に、政治的に管理されたやり方で行う。抑止力を回復するのが目的で、侵略者に侵略をやめさせ、撤退させる」
1989年から1991年の冷戦の終結とソ連の崩壊で、NATOの核政策が緩んだ。ソ連が東中欧の衛星国から引き揚げたため、NATOの核兵器のかなりの部分が西欧から撤収された。先制使用の可能性はますます、ありそうにないように思われたが、NATOの政策の一面として放棄されなかった。
ソ連はなくなったが、NATOの核計画はまだ先制使用の政策を取っている。英国の核兵器はNATOに依然、委ねられており、米国はまだ、戦術核爆弾を英国の基地のひとつ、イングランド東部、サフォーク州フォークにあるレイカンヒースに保有している。
▼英国の独自の標的
1950年代以降、英国は核兵器を欧州の西部と南部、北大西洋のNATO地域のすぐそばにときどき、配備した。1960年代と1970年代、キプロスに英空軍の核搭載可能な攻撃機を配備。1960年代中ごろには、シンガポールの英空軍基地テンガにV爆撃機の正規分遣隊を配備、1962年から1978年にかけてシミター、バカニーア核搭載可能攻撃機を英海軍航空母艦へ配備した。核兵器は1982年のフォークランド(マルビナス)戦争の際に、4隻の機動部隊艦にも積まれた。
英国の核兵器の「地域外」配備は長い歴史を持ち、限定紛争でそれを使用する意思を示した多くの兆候があった。英国の戦術核標的についての数少ない公表された研究のひとつの中で、ミラン・ライは1994年の論文「戦術トライデント」でこう書いている。
「1950年代の英空軍のジョン・マーシャル卿は、当時、最も影響力のある軍事理論家であったが、次のように考えていた。『限定戦争の戦域のほとんどで、戦術核兵器に頼らずに、それらの地域のひとつで大規模な共産勢力の攻勢と対戦することは、ありえないということを認めなければならない』」
これは政治家というより、軍幹部の言葉であったが、同じような言葉が政府筋からでてきた。1955年、当時の国防相で後に首相になったハロルド・マクミランは下院でこう述べた。
「侵入部隊に対する核兵器による阻止力は、中東でも極東でも戦略に新しい側面を与える。制空権をめぐる戦いの間、それらの地域に普通駐留しているよりも大きな通常戦力が集結するために、余裕と短いが不可欠な機会を与える」
そのような小規模核戦争という考えは、1957年のマクミランの後継者、国防相ダンカン・サンディスがさらに表明している。
「大国間の衝突である大規模な世界戦争と、大国が直接衝突しない局地的で小規模紛争は区別されなければならない。限定的で局地的な侵略行為、たとえば、共産衛星国によるものは、通常兵器、最悪でも戦闘地域に限定される戦術核兵器の使用で、間違いなく反撃できる」
この歴史的文脈から、より小規模の準戦略的トライデントの弾頭、あるいは、より強力な戦略的弾頭がNATOから独立して使われるかどうかについて疑問がでてくる。英国はこの権利を留保している。準戦略的トライデント弾頭のための選択の幅についてのより詳細な評価が1994年の権威ある軍事雑誌インターナショナル・ディフェンス・レビューでされている。
「使用帯域の上端とでも言える、1990−91年の湾岸戦争のような英陸軍、空軍を含む大規模軍がからんだ紛争では、敵の核攻撃に対して核兵器は使える。第二に、似たような状況で、敵の生物・化学兵器兵器のような大量破壊兵器の使用に対して、英国が同等の報復能力を保有していない場合、核兵器を使用できる。第三に、威嚇的役割として使用できる。すなわち、重要でなく、人が住んでいない地域に向け、当事国が現在の行動を続けるなら、核兵器は最優先の目標に向けられる。最後に、懲罰的役割がある。そのようなことは核攻撃を招くというはっきりした警告にもかかわらず、ある国がことを起こした場合」(David Miller, "Britain Ponders Single Warhead Option", International Defence Review, September 1994)
想定された4つの状況のうち3つが。英国による核兵器の先制使用を伴っていることに注目すべきである。
そのような問題は公の場ではめったに浮上しないが、しかし議会では、政府が冷戦後の状況で英国の核兵器が使われる状況について十分明らかにしてこなかったという懸念が表明されている。たとえば、下院国防特別委員会は1998年、次のように述べている。
「1993年に当時の国防相が演説して以来、核政策についての説明がないことを遺憾に思う。戦略防衛見直し(SDR)は、現在の戦略状況での政府の核抑止力態勢について新しい説明を示していない。トライデントの準戦略的役割を明確にすることができるはずである。英国の戦略政策、準戦略政策の明確化を勧告する」
これは、当時のジョージ・ロバートソン国防相が委員会に述べた説明に対するものであった。彼は委員会に対し、準戦略オプションは「全面核交戦に至らないオプションである」と述べた。彼は次ぎのようなことを想定している。もし敵の攻撃が続くなら、核武装をしたある国は、全面戦略攻撃になるということを示すために、準戦略的なものであることをはっきりさせながら、準戦略兵器を使用しようとする。これが「はしごの下段で拡大を阻止する」機会を与えることになる。
この説明は、英国のような「ある国」が全面核戦争を始めることなしに、核兵器を使うことを検討できることを示し、政府はよって、限定核戦争は戦えるし、勝利することができるという考え方を受け入れていたように見える。これは委員会が求めていた明確な説明ではなかった。そのような兵器が使用される状況を示していない。特にそれは、英国、英軍がすでに核兵器で攻撃されているのか、その他の状況に対し、核兵器が先制使用されるのかどうかに関連しているように見えない。
▼イラク戦争
同時に、英国が核兵器の先制使用の可能性を含めた冷戦時代の核態勢を変えたことを示す証拠はなかった。事実、冷戦が緩んでいた時の1991年初頭の第1次イラク戦争は、英国の核兵器の使用が検討された時であった。1990年9月、英軍が湾岸に向け出発した時、オブザーバー紙は、イラクの化学兵器攻撃に対しては、英国は核兵器で報復する用意があると報じた。
「湾岸に向け昨日、出発を始めた英国の第7機甲旅団に属する将校は、もし英軍がイラク部隊によって化学ガスで攻撃された場合、戦域核兵器で報復する、と述べた。国防省は昨夜、これを確認することを拒否したが、これは英国部隊が攻撃されたら、防衛のために核兵器を使うことが認められるかもしれない初めての非公式な意思表示である」(1990年9月30日オブザーバー紙),
それから10年以上後で2003年の第2次イラク戦争の開始に先立って、当時のゲッフ・フーン国防相は特別委員会の委員に問われて、英国はこの方針を維持していることを示唆した。イラクのような国に関連して、彼は「適切な条件のもとで、われわれは核兵器を使用するであろう」と述べた。
このやり取りは、これがイラクのような国が核攻撃をしたことに対するものなのかどうかはっきりしなかった。この点についてフーンは2002年3月24日、ITVのジョナサン・ディンブレビーの番組で、化学・生物兵器のような核でない兵器に対して、核兵器が使われるかどうか聞かれて、彼はこう答えた。
「英国政府の長年の政策を明確にしたい。もしわれわれの軍隊や国民が大量破壊兵器で脅かされた場合、われわれは適切で相応の対応を取る権利を留保する。それには、極端な状況では、核兵器の使用を含むこともありえる」
その後のやり取りで、フーンは化学・生物兵器に対して、英国の核兵器が使われる状況を想定できることを明らかにした。ディンブレビーに、「しかし、サダム・フセインの大量破壊兵器を使った攻撃に対してのみ、英国の大量破壊兵器を使うということか」と聞かれて、こう答えた。
「はっきりと、差し迫った攻撃の確かな証拠があり、攻撃が起きようとしているなら、それに対し防御するためにわれわれの兵器を使うだろう」
これが意味することは明白である。化学・生物兵器による非核攻撃に対して、英国は核兵器の使用を考えるとともに、そのような攻撃に先制するために核兵器を使用することさえ考える状況があるということである。
▼核兵器政策を公にすべき
英国は核戦力をほとんど50年間、配備してきた。その時期のほとんどは、核戦力は主にNATOに委ねられていた。NATOは核兵器の先制使用を含む核標的態勢を維持してきた。英国は核兵器を独自に使う能力も維持している。
公に認めた「宣言」政策(訳注:建前として公表された理念)は依然、核兵器の使用は「最後の手段」というものであるが、「配備」政策は、英国に対する核攻撃への報復ではない核戦争の考え方をしている。これは長期にわたる現実である。英国の核兵器政策のこの永続的な特徴が本当に完全に公にされるなら、トライデントの後継についての議論を間違いなく活気づかせるであろう。
*ポール・ロジャーズ 英ブラッドフォード大学平和学部教授。openDemocracy国際安全保障担当編集長、オックスフォード・リサーチ・グループのコンサルタント。著書「暴走するアメリカの世紀―平和学は提言する」(法律文化社)
本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netに発表された。
原文
http://www.opendemocracy.net/conflict/britain_nuclear_3693.jsp
訳注1 ブレアー党首率いる労働党。 訳注2 講演原文
http://www.hm-treasury.gov.uk/newsroom_and_speeches/press/2006/press_44_06.cfm 訳注3 “Middle England” ニュー・レイバーが従来保守党支持であった中間層の有権者を獲得することによって、政権を獲得した。地理的な意味も含まれると思われる。 訳注4 オブザーバー紙原文
http://observer.guardian.co.uk/politics/story/0,,1805634,00.html 訳注5 今日、英国の核政策には2つの分野がある。それは戦略的核抑止と準戦略的核抑止である。2つの大きな違いは、前者は総合的核攻撃に関するもので、後者は小規模な核攻撃に関するものである。「戦略的」分野では、全ての弾頭を含む、トライデントミサイル16基全てのミサイルを発射することを意味し、「準戦略」分野では、1つの弾頭を搭載した1つのトライデントミサイルのことを意味する。(トライデント・プラウシェアズ ハンド
http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/peace/tp2000/handbook/tdihb0.html より)
参考サイト CDN
http://www.cnduk.org/ Trident Ploughshares
http://www.tridentploughshares.org/index.php3
(翻訳 鳥居英晴)
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