【openDemocracy特約】中東のシーア派が台頭しているといわれている。非アラブのイランと密接な関係を持った宗教指導者に指導された、この歴史的に非主流の宗派は、1979年のイラン革命で権力を握って以来、スンニ派のアラブ指導者から疑惑の目で見られてきた。
しかし、アラブの政治層には幸いなことに、イラン革命の勢いは長くは続かなかった。いま、台頭しつつあるイランは、エネルギー価格の高騰と隣国イラクでシーア派が占める政府がサダム・フセインにとって代わったことで勇気付けられ、シーア派問題に注意を引き戻している。
レバント(地中海東沿国)から湾岸まで、シーア派社会はイランの波に乗っているようだ。レバノンのシーア派民兵、ヒズボラはイランが支給している少なからぬ武器のおかげで、イスラエルとの現在の紛争で驚くべき水準の軍事能力を示した。イラクにおける最も影響力のある人物は、イラン生まれの宗教指導者、アリ・シスタニ師である。
1982年、テヘランで亡命者によって結成されたイラクのシーア派の党、イラク・イスラム革命最高評議会はイラクの内務省の支配を握り、スンニ派に対する防衛的宗派戦争でそれを利用しているようにみえる。一方、イラクのシーア派が政治的権限を拡大していることは、長くその声が反映されてこなかった、バーレーンなどの近隣のシーア派のアラブ湾岸諸国の共感を得た。バーレーンでシーア派は、人口の70%近くを占める。
政治的シーア派主義についての米国の有力な専門家、バリ・ナスルなどの世論形成者は「地域における新たなパラダイム」について語っている。ヨルダンのアブドラ国王が2004年に「シーア派の三日月地帯」について警告した時には、無責任なデマとはねつけられた。今やその言葉は、まるで事実であるかのように日常的に新聞の見出しで使われている。
米国外交評議会は6月、「勃興するシーア派三日月地帯:米政策の意味するもの」と題するシンポジウムを開いた。中東内外の評論家は、地域の政治をスンニ派・シーア派関係のプリズムを通して見るようにますますなっている。その推論は、中東は国境を越えた、異なったアイデンティティーを持ったブロックを含み、力の均衡の移動で、このままでは衝突は必至である、というものである。 レッテルの裏側で
この特徴付けはどれほど正確なのか。確かに、さまざまな国のシーア派社会の要素の間には、強力なイデオロギー的、社会的、政治的つながりがある。例をあげれば、イランの指導者ハメネイ師のポスターが南レバノンで貼られている。バーレーンのシーア派がイスラエルの占領地での活動に抗議して2002年、マナマの米国大使館を襲った際、壁にヒズボラの旗を貼った。エジプトのホスニ・ムバラク大統領が最近、シーア派を国家に忠誠でなく、イランの宗教指導者に忠誠な第五列員であると非難したように、シーア派の宗教権威が国境を越えるという性質は、そうした非難を受けやすい。
しかしながら現実には、シーア派社会のイデオロギー的順応は、彼らの国での条件とその国内での状況をよくしようとする交渉に反映されている。例えば、レバノンのシーア派多数派のマルジャエ・タグリード(模倣の源泉)(訳注:最高指導者)でヒズボラの精神的な指導者であるムハンマド・フセイン・ファドラー師は1990年代、ホメイニの教義であるイスラム統治(ベラヤティ・ファギ)(訳注:イスラム法学者による統治)から離れた。
なぜなら、そのような目標は、多宗派のレバノンでは達成できないからであった。イラン生まれではあったが、シスタニ師はイランからの政治的指示に抵抗し、代わりにイラク国家の中で代議制を実現することに集中した。アナリストのロジャー・ハーディーが表現したように、テヘランの命令に従わなくてはならない時には、「アラブのシーア派は他にやるべきことがある(the Arab Shi'a have other fish to fry)」である。
確かに、イランの1979年革命とシーア派宗教国家の樹立以来、パキスタンからレバントまでのシーア派社会は過激化した。だが、霊感、戦術的同盟それに模範の力は、信仰を基にした忠誠とは一致しない。サウジアラビアのシーア派の有力活動家、ハッサン・アルサファーは亡命中、思想を求めてサイード・クトゥブ(訳注:エジプトのムスリム同胞団の指導者)などのスンニ派イスラム主義者を読んだ。
反対に、今日、スンニ派イスラム主義グループのハマスは、シーア派のヒズボラとイランに支援を求めている。現在、地域に「新しいパラダイム」があるとすれば、それは宗教的なものよりむしろ、地政学的なものである。
1979年とは対照的に、今日の中東での政治的シーア派主義における動員力は、イランではなくむしろイラクから出ているようだ。ホメイニのイスラム革命は、イラン国外では再現することは不可能であることが分かった。結局、アラブ世界のシーア派は、初期の過激主義から距離を置いた。
つい最近、イラクのシスタニ師の一人一票の政策が、政治的変革を求める地域で大きな反響を及ぼした。サウジアラビアでは、シーア派の活動家は民主主義と人権の拡大を求めるスンニ派改革派と共通の大義をつくった。革命よりも、代議制が新しいキャッチフレーズである。
ほとんどのイスラム教徒にとって、宗派よりもむしろ集団的ウンマ(訳注:イスラム共同体)へ所属している感覚が、宗教的アイデンティティーを計る主な目安であることに変わりはないことを事例証拠は示している。これは中東への西側の軍事介入に直面して、特にそうである。イランのアハマディネジャド大統領はこの感情をうまく利用した。今年のメッカ巡礼で、タクシーに乗ったシーア派イラン人の巡礼者は、スンニ派の運転手から大統領に対する熱狂的な賛辞と受けたという。
政治化された差異
このことは何も、スンニ派のイスラム教徒であることとシーア派のイスラム教徒であることの間に違いはないと言っているわけではない。タリク・ラマダン(訳注:欧州のイスラム教学者)が指摘しているように、教義上の要素は重要である。シーア派をイスラム内の敵として見なす直解主義者がいる。
数世紀にわたって、教義上の違いは地域の違いを強めた。例えば、一時的な権威の源泉としてのマルジャエ・タグリードは、スンニ派の法制度からシーア派を排除した。バグダッドの不幸な住民が毎日のように気付かされるように、場所によっては、スンニ派とシーア派は外見から区別できる。
ザルメイ・ハリルザト駐イラク米大使から漏れたメモは、こう明らかにしている。「(米大使館のイラク人スタッフが)近所より外に出なければならない時に、その地域の服装と言葉それに習性を装うことがよくある。・・・ユスフィヤでは、厳しいスンニ派の保守的な服装規定が根づいている。・・・サドル地区で目立たないように動くには、シーア派の保守的な服装と奇妙な言葉づかいが必要になる」
だが、イラクの専門家のチャールズ・トリップが言っているように、「問題は、それらの違いを活性化させているのは何なのか。それらを政治化された差異にしているのは何なのか」である。
イラクの場合には、多くの要素がある。人々が宗派の信仰に基づいた政治的アイデンティティーを求めたということはほとんどない。バグダッドの「開発と民主主義のためのイラク財団」のシーア派平信徒のガッサン・アティヤは「エリートだけがイラクの状況から利益を受けている。大多数は、宗教的な統治を望んでいるという意味でのシーア派ではない。・・・彼らはスンニ派武装勢力を恐れているという意味でシーア派であると感じている」という。
イラクの現在の宗派問題のより直接的原因のひとつは、サダム・フセイン政権が倒れた後の国家の省が亡命組織に乗っ取られたことである。その指導者たちは、資金と支援を得るために、宗派的な意味で彼ら自身を戦略的に再定義して亡命時期を過ごした。
宗派組織への支援の提供は、1980年代に湾岸諸国とイランが地域覇権を争っている時に、それらの国々が地政学的な打算をしたことに始まった。長く続く結果を伴った代理戦争の中、中東全域はもちろん、アフガニスタン、パキスタンでも、双方は学校、病院、民兵それに政治組織に資金を出した。
今日、この地域のリアルポリティーク(現実政治)の実行者は、宗派間抗争を道具として使い続けている。スンニ派の政治家はイラン(それと国内の政治的野党)の復活した力をそらそうと、反シーア派のカードを使った。反対にイランは、米国の目から強く見えるように、国際的シーア派社会への影響力を誇張した。
一方、アルカイダなどのサラフィスト過激派は(最近まで)、遠い敵より近い敵に対するほうが動員しやすいということに基づいて、信奉者がシーア派に対して宗派暴力行為をするよう戦術的に指示していた。内在する、長年押さえ込まれた緊張の影響もあって、宗派間抗争という議論は、治安主導の国家を押し付けようとしていた政権にとっては便利であった。チャールズ・トリップが指摘しているように、「シーア派の枢軸」について話した最後の人物はサダム・フセインであった。
問題は、政治目的のために宗派の差を誇張することは、イラクの悲劇が示しているように、それを社会的現実にする自己達成の効果がありうる。そのため、西側の世論形成者は、中東について言われている宗派分裂を額面で受け取らないようにしたほうがいい。
グレン・ラングワラ(訳注1)は新著「Fragments」 (Cornell University Press)で、法医学的正確さをもって、イラクが宗派的混乱に陥ったのを分析している。それによると、連合国暫定当局が重要な省の管理を宗派の党に委譲した決定は、部分的に「低いレベルのオリエンタリズムの一種。部族と宗派を中東で操縦かんを握る勢力と見なす安易な特徴づけ」を反映していた。
安易な特徴づけへの欲求は、現代独特の欠陥ではない。ウィンストン・チャーチルがイラク統治担当の植民地相だった1921年、側近にこう聞いた。「ファイサルの宗教的性格について、3行ぐらいでメモしておこう。彼はシーア派へ共鳴したスンニ派なのか、それともスンニ派に共鳴したシーア派なのか、彼はそれをどのように調和させているのか。・・・どちらが貴族的に高等で、どちらが低級なのか。カルバラの人々の宗教はどっちなのか。わたしはいつも、こんがらがってしまう」(William Polk's Understanding Iraq, IB Tauris)
過度の単純化が政策や理解の誤りにつながらないように、中東のスンニ派とシーア派社会の内と間の関係を把握するためには、もっと微妙な差異を明らかにする認識と語彙が明らかに必要である。そのような鋳型が一部の観察者にどんなに具合がよくても、より複雑な実態を注意深く見ることが、よい政策には不可欠である。
*アビゲイル・フィールディング・スミス 中東・イスラム関係の出版物で知られる英国の出版社IB Taurisの中東担当編集長、中東問題についてのフリーのライター。
訳注1 ケンブリッジ大学講師 中東政治研究 英国のブレア首相のイラクに関する情報資料が,米国人学生の論文を引き写したものであることを暴いた。
本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。
原文
http://www.opendemocracy.net/conflict-middle_east_politics/shia_crescent_3774.jsp
(翻訳 鳥居英晴)
|