中谷久子さん(75)=東京在住=が「ブログ 七十歳万歳!」を始めたのは、70歳を過ぎてからのこと。お孫さんの話、地元の祭り、デジカメで撮った美しい季節の花々などとともに、中谷さんがよく書くのは戦争体験を踏まえた平和の大切さだ。61年目の「8・15日」を前に、ご自身の戦中から戦後の歩みについて日刊ベリタに寄稿していただいた。これから掲載するもうひとつの寄稿の筆者、中谷孝さん(86)=元日本陸軍特務機関員=は久子さんの兄。妹が兄の手書きの原稿をワープロに打ち、それぞれ歩んできた道は違うものの現在の日本に寄せる思いは同じであることを明らかにしている。(ベリタ通信)
太平洋戦争が日本の悲劇へと突進していた昭和19年(1944年)、12歳の私は憧れの女学校に合格した。 3本線のセーラー服を楽しみにしていたのだが、その年から制服は細くてみすぼらしいへちま襟に変わってしまった。スカートの襞も半分以下になった。生地がもったいないからという理由で。生地は「スフ」、シワになりやすく、やたら型崩れする厄介な制服だった。戦争が長引いて日本には金属も布地も食料も足りなくなっていた。 それでも「欲しがりません勝つまでは」の標語どおり不平も言わなかった私たち。
世の中は“勝つ為”一色で、中学生も女学生も(男女の学校は別々だった)工場や農村の勤労奉仕に“動員”されていたけれど、一年生だけは授業に出られた。それも戦時色一色の授業で、あまり印象に無い。 嫌でたまらなかったのは『教練』の時間。先生は陸軍将校の軍服を着ていた。分列行進の先頭を歩かされるのはいつも私。理由は学校で一番背が低かったから。間違えれば目に付く先頭を歩くのはとても辛い事だった。 楽しかったのは音楽。学校で一番恐い先生とみんなに嫌われていた気難しい中年男性の音楽教師を、私はちっとも恐がらず授業は楽しかった。課外活動は同じ先生の鼓笛隊。お琴もやりたかったが、鼓笛隊は1年からしか入れないので、お琴は2年生の楽しみにした。ところが空襲で学校もろとも焼けてしまって、琴にはさわる事も出来ないままになった。
昭和20年(1945年)になると、私たちの動員先が伝えられた。「お前達は2年生になったら、天皇陛下のおん為に、不動前の工場で兵器を作る仕事をさせていただく事に決定した」と。ところが3月にはその工場も爆撃で瓦礫の山になっていた。瓦礫の下の灰には、貴重な真鍮や鉄の部品が混じっていたので、私たちは4月から敗戦までの4ヶ月間毎日それを選別していた。焼け跡は安全な場所だった。焼け野原には爆弾も焼夷弾も落ちてこない。 それでも帰り道で恐ろしい目にあった事がある。目黒の屋敷町で隠れ場所の無い長い塀の脇を歩いていたとき、背後から機銃掃射の轟音が迫った。塀に張り付いて動けないで居ると、一本南の道路を機銃掃射し続けながら戦闘機は西に去った。軍事施設など何も無い住宅街で一体誰を狙ったのか、ふざけてやったとしか思えない攻撃だった。いつもの事だが、そこで死者が何人出たかは一切聞こえてこなかった。
これより前、東京に空襲が始まった頃、各家に防空壕を掘れと命令された。庭が無ければ畳を上げて床下に掘れというとんでもなく馬鹿げた命令だった。家の下にもぐっていたら逃げられなくなるではないか。それでも命令なら掘るしかない。母は力仕事などした事のないお嬢様育ち、元気な私が一人で掘ることにした。
徴用(強制的に労働をさせる)で軍需工場に行っていた近所のおじさんが私に「ヒロポン」を2錠くれた。危険な覚せい剤だとは誰も知らなかった時代、軍需工場では夜勤の眠気覚ましに「元気の出る薬」と言って配られていたらしい。私はヒロポンを2錠一度に飲んで、一気呵成に防空壕を掘り上げた。狭い庭はかぼちゃの畑にしておきたかったから、半分以上縁側の下を掘った。 命令だから掘ったけれども、私はそこに入る気は毛頭無かった。子供心にも焼夷弾の下では、防空壕の外より中のほうがはるかに危険だと気が付いていたから。
当時防空壕の歌も有って、子供は大人の言う事を聞いて、おとなしく防空壕に入っていなさいと宣伝していた。 町会の役員が「空襲警報発令!防空壕に退避!タイヒー!」と甲高くメガホンで叫んで歩いた。でも我が家は奥まっていたから、井戸の上に登って南の空を睨んでいても、ヒステリックなおじさんに見つかることは無かった。 防空壕が役に立つのは、爆弾の爆風よけだけである。木と紙と瓦で出来た住宅街に爆弾は落とさない。木造家屋専用に開発された焼夷弾は、後で聞くと瓦屋根を突き破って畳の上にでんと座るように出来ていたそうだ。地面に突き刺さっては役に立たないから。
直径8センチくらいの筒にゼリー状にしたガソリンのようなものが詰めてあり、それが何十本も束ねてある。空中で発火すると,束ねたベルトがはじけて、火のついた筒が夜空に散らばる。それは玉すだれか花火のように何千何万と降り注ぐ。それをばら撒くB29爆撃機は4発のプロペラ機で、実に美しい姿をしていた。今時のおどろおどろしいジェット機と違い、実に美しい銀翼を真横に広げて悠然と編隊を組んで進みながら、遠慮会釈無く火の玉をばら撒き続ける。日本の高射砲が届かない高さを、悠々と進む殺人者の群れを毎晩のように私は睨んでいた。迎撃する日本の戦闘機を見た事は無い。本土防衛に使う飛行機はもう無かったのだろう。
ある晩、わたしの目の前に焼夷弾を束ねていたバンドが一つ落ちてきた。青光りするきれいなハガネだった。(後になって、こんなものにまでハガネを使うのかと驚いた。その頃日本では武器にするため鍋釜や指輪まで供出させられていたのだから) 同じ頃、南に1キロほど離れた同級生の家の防空壕に不発の焼夷弾が落ち、中に居たお父さんが直撃で死んだ。もしそれが発火していたなら、一家全員蒸し焼きになるところだった。
やがて南のほうは火の海になった。間もなく油屋に火が回ったそうで、黒煙が地を這うように迫って来た。踏み止まって消火につとめるなんてことが出来るわけも無く、3キロ先の練兵場の塹壕に逃げた。四方を見渡すと、あらゆる方角の総ての空が赤く染まっていた。遠いけれどどの方向に行っても火は燃えているのだった。 朝になり、家は無いものと覚悟して帰ってみると、風向きが変わって我が家は残り、火は南の一帯を嘗め尽くしていた。
当時各家庭の門前には同じものが並んでいた。セメント製の防火用水。小さなブリキの朝顔バケツ。火叩き。鳶口。これらは、江戸火消しの道具である。棒の先に縄の束をつけた火叩きを水に漬けて焼夷弾を叩き消せと言われた。燃え盛るガソリンをこんな道具で叩き消せると誰が思ったのだろう。江戸火消しの道具で焼夷弾に立ち向かえと命じていた指導者は、何故そこまで愚かだったのだろう。焼夷弾からはひたすら逃げるしかないのに、防空壕に入れと命じて、どれほどの人がなすすべもなく蒸し焼きになった事だろう。しかし指導者の愚劣さが糾弾される事は無かった。彼らこそが国民に対する戦犯だったと思うのだが。
そんな愚かな戦争に敗れて、こんどは戦時下よりももっと食料が不足した。細々と続いていた玄米の配給、野菜や魚の隣組単位の配給も滞りがちになったのは、物資が闇市に横流しされたからだろうか。アメリカの援助物資も、小麦粉やトウモロコシ粉の時はお腹の足しになってありがたかったが、米の代わりに砂糖しか配給されなかったときは困った。他のものが何も無いのに、虫のわいた赤ザラメがどっさり届いて、虫くらいは平気だがお腹の足しにはならず、カルメ焼きばかり焼いてひもじさをこらえた。 闇市の物価は朝に晩に上がり、父の遺産はたちまち消滅した。母の郵便年金は、1ヶ月食べられたはずの額でパン一個しか買えない有様となった。
学校にも行けず、学歴が小卒では就職にも困り、戦後4〜5年は食べてゆくのに最も困難な時代だった。(私は70歳で中学に入学し去年卒業した)
私が少女時代に体験した戦争は、こうして何よりもとにかくひもじいものだった。食べる事の苦労は忘れがたい。私の身長は147センチしかなく、体重も十代のころは40キロ足らず、56歳まで43キロを超えた事は無かった。(なのに今は・・・?) しかし今、飽食の時代に何故ホームレスが増えるのか。物が余っていながら、何故自殺者が増えるのか。戦争を悪と考えなくなっていくのはなぜか。親殺し子殺しの流行は何たることか。
私は生まれて14年間戦争の中を生き、その後61年間戦争の無い国に暮らして、その平和がなぜか崩れてゆきそうな気のする今の有様。平和憲法は我々を護ってきたと思うのに、それを変えてまで戦力を持つのは返って危険ではないのか。
昔から日本は外交オンチだったと思う。もっと外交を巧みにして、世界を味方にしてゆける方策は無いのか。ナチスなどと組んで世界を敵にした時代の外交の失敗、軍部の暴走を思い返して学んで欲しい。「大東亜戦争は聖戦であった」などと若い人にウソを教えないで欲しい。ジハード(聖戦)と言ってイスラムの戦士がテロを激化させ、それを叩き潰そうと大国は暴力を振るう。悪循環は目の前に展開しているのに、何故世界平和のための外交をもっと本気で考えないのか。世界の為の日本の役割を真剣に議論して欲しいと思う。
*ブログ 七十代万歳! http://hisakobaab.exblog.jp/
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