【openDemocracy特約】イスラエルの最も有名な平和活動家のひとりであるデビッド・グロスマンはいま、レバノンでのイスラエルの地上攻撃が終わりに近づいている時に殺された真ん中の息子、ウリの死を深く悲しんでいる。それは、中東での1ヶ月にわたる戦争の無情なねじれの中で起きた。
20歳の戦車司令官は8月12日、死亡した。世界的に有名な、積極的に発言する小説家である彼の父がエフド・オルメルト首相に対し、即時停戦を宣言し、レバノンと直接交渉するよう求めてから48時間もたっていなかった。
グロスマンは、ヒズボラのゲリラが7月12日に最初の越境攻撃をした後の何日間は、この突然の報復戦争を支持していたが、テルアビブで著名なイスラエルの作家、アモス・オズとA・B・イェホシュアとともに記者会見した時には、グロスマンは平和を求めて雄弁であった。
戦争の最初の2週間、この眼鏡をかけた平和主義者は、北部の前線地方にある防空壕をまわり、彼の風変わりな作品を地下室に身を寄せ合う家族たちに読んで聞かせた。その間には、空襲警報が鳴り、何千という第2次世界大戦時代のカチューシャ・ロケットがいつもの遊び場の上を、音をたてて飛んでいった。
1989年に出された「ウリの特別な言葉」と題するグロスマンの子供向けの本は、単語の接尾辞だけを使ってやり取りをする少年を描いている。それは創作力のある彼の息子、ウリ・グロスマン2等軍曹によって、着想を得た。ウリは11月に召集解除になる予定で、演劇を学ぶ前に、しばらくリュックを担いで旅行にでかけて、一息入れる計画だった。
やっと先週になって、空爆でレバノンの村ががれきになっても、そこからのゲリラのロケット砲火が倍増すると、デビッド・グロスマンは、戦争はこれ以上続けるべきではないという結論を下した。レバノンとイスラエル北部を1ヶ月にわたって揺さぶり続けた流血に対し、交渉を通じた終結を求めた。もし政治家がレバノンの和平案を受け入れれば、多分ペンは剣より強いことを証明できるかもしれない。「この解決策はイスラエルが望んでいた勝利だ」とグロスマンは言った。
彼は、戦闘が長引くと破滅的状況になると予測した。「ヒズボラは、われわれがレバノンの沼地にさらに深く入り込んでくることを望んでいる。現在の紛争が続くと、レバノンは崩壊し、混乱がそれに続く。そしてヒズボラが支配権を握るだろう。この破滅的なシナリオはいま防げる」
2日後、若いウリ・グロスマンは、彼の乗ったメルカバ戦車がミサイルの直撃を受けて死亡した。彼は、イスラエル軍がリタニ川に到達しようと、停戦間際に突進した際に死亡した24人のうちのひとりであった。
彼らの父親の世代が兵士だった時に、パレスチナ解放戦線(PLO)をリタニ川の北に押し上げた1978年には、いまのイスラエルの徴集兵のほとんどはまだお腹の中にもいなかった。イスラエルが1982年に、その後18年間続くレバノン南部の占領の前触れとなったレバノン侵入を始めた時には、多くの者は小さな赤ん坊に過ぎなかった。
停戦が実行に移された8月14日朝には、グロスマンは息子を埋葬していた。イスラエル軍は無敵のオーラともに、3万人の兵士のうち118人を失った。39人の市民も死亡した。どの軍人も追悼されたが、平和活動家の息子でホロコーストの生き残りの孫の犠牲は、屈折した悲哀で国全体に衝撃を与えた。
イスラエルの傷ついた誇り
オルメルト首相の安全保障担当閣議が8月11日、国境を30キロメートル越えたリタニ川を越えてヒズボラを追撃するために、数千の地上部隊を使うと圧倒的多数で決めた後になって、イスラエルの3人の文化人のハト派は、抗議の声を上げた。
レバノンのフアード・シニオラ首相が考え、7月26日のローマ会議で提案された7項目の和平案対して、イスラエルが敵意のある回答をしたことに、彼らは失望させられていた。この提案には、ヒズボラの政治指導者の同意を得て、南の狭い緩衝地帯をパトロールするためにレバノン軍を展開することが含まれていた。隠されたミサイル発射台を探し出すレバノン軍の能力が問題となっていた。
だが、北部で新たな戦争を支持する幅広いコンセンサスは、政府があらゆる妥協を即座に拒否し、戦争準備の騒がしい音を立て始めると、ほころび始めた。代理敵についての国際的なレトリックがイスラエルの左翼を苦しませ始めた。彼らは、レバノンの和平提案を実行可能な出発点と見なした。
“ピースナウ”のベテランの活動家で、文学の巨匠であるアモス・オズは「“悪の枢軸”を打ち負かし、“新しい中東”をつくり、レバノンの顔をかえるという考えは、われわれには妄想にみえる」といらついた口調で言った。
ヘブライのウィリアム・フォークナーとして広く称賛されているA・B・イェホシュアは、ロケット攻撃が続く中、危険を冒してハイファからテルアビブまでやってきて交渉を訴えた。「われわれは、軍事作戦を続ける承認を与えるのか政治的解決を探るのかの十字路に立っている」と語った。
1972年のミュンヘン・オリンピックの虐殺の影響を調べ、「Striking Back」という本にしたインテリジェンスの専門家、アーロン・クレインは「記者会見でデビッド・グロスマンは、信条だけから主張した。自分の息子が前線にいることは決して触れなかった」と指摘した。
グロスマンは数十年間、アラブ人との和解とヨルダン川西岸の占領をやめるように訴えてきた。彼は、個人的な苦悩も見せず、感情的な訴えもしなかった。彼の文章は、個人と国家の道徳性、信頼それに真実を細かく調べる。彼の冷静な言葉は、彼の小説でのきらめく文章とはまったく対照的であった。
停戦の前に、イスラエル国防軍は、550人のヒズボラの戦闘員を殺害したと発表した。これに対して、ハッサン・ナサララ師は戦闘員のうち80人が死亡し、残りはまだ、塹壕とレバノン南部のくすぶり続けているシーア派の村にいると主張した。この停戦が渋々同意されて以来、6人のヒズボラが「自衛」のために射殺され、イスラエル国防軍は数日のうちに、いくつかの前線陣地を国連軍に渡し、レバノン領からの撤退を始めると約束している。
イスラエルが国連の停戦に同意した後、「ヒズボラは大英雄としてではなく、尻尾を巻いて終わるであろう」とシモン・ペレス副首相は軍のラジオで述べた。しかし政府はいま、1ヶ月にわたる、あのような熾烈な戦いの後に逃げ出したようにみえることで、政治的な跳ね返りに直面している。イスラエルの誇りは深く傷ついた。
ウリ・グロスマンの葬儀が、エルサレム郊外のMevasseret Tzionと23のその他の場所で行われている時、わたしの乗ったタクシーが赤信号で止まった。その時、そばの建物に黒いインクで真新しく書かれたスローガンを見て、ギョッとした。そこには"I(ハートのマーク) WAR"とあった。これは皮肉なブラックユーモアで、イスラエルの10代の兵士の熱狂的な落書きではないことを願った。
*ジャン・マックギーク エルサレム在住ジャーナリスト、英紙インディペンデエントの東南アジア特派員を務めた。 本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。
原文
http://www.opendemocracy.net/conflict-middle_east_politics/israel_heart_3824.jsp
参考 デビッド・グロスマンの邦訳書 ライオンの蜂蜜―新・世界の神話(角川書店) ヨルダン川西岸―アラブ人とユダヤ人(晶文社) ユダヤ国家のパレスチナ人(同)
アモス・オズの邦訳書 「現代イスラエルの預言」(晶文社) 「スムヒの大冒険」(同) 「贅沢な戦争 イスラエルのレバノン侵攻」(同) 「イスラエルに生きる人々」(同)
(翻訳 鳥居英晴)
|