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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2006年12月04日09時23分掲載
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学校・子どもの危機と教育基本法の改悪 野田正彰氏(関西学院大学教授・精神科医)が緊急反対行動を訴える
安倍政権が最優先課題とする教育基本法改正案の国会審議が大詰めを迎えている。日本国憲法とともに戦後日本の屋台骨を担ってきた同法の「改悪」に対して、多くの国民が反対の声をあげ、国会でも野党は慎重審議を求めているが、与党は今週中にも採決の構えを見せている。改正案の何が問題なのか。11月11日に兵庫県で開かれた緊急集会で、野田正彰氏(関西学院大学教授・精神科医)は急速に進む教育破壊のなかでもがき苦しむ教師らの声を紹介しながら、改悪阻止の運動を進めていこうと訴えた。講演内容とともに、教育基本法「改正」情報センターのサイト(www.stop-ner.jp)にも目を通していただきたい。(ベリタ通信)
▽急増する早期退職者
全国で学校の先生方の早期退職者が急増しています。先生方の挨拶ことばで、私あと何年つづくかしら、私はいいときにやめました、そんなことばがセットになって交わされる状況があります。先生方の休職が全国的な文科省の統計を見ても増加しています。何らかの締め付けがひどくなると、翌年ぐらいからかなり増加率が激しくなります。たとえば、03年の東京都の10.23通達の翌年には10パーセント以上増えています。多くは精神疾患による休職であります。知事部局と比較すると明確で、知事部局は微増ですが、教育委員会部局は急激な増加をしています。そして、先生方の休職のうち精神疾患が60パーセントを占めています。
ひどい県になると80パーセントという滅茶苦茶なデータがあるのに、実態はこれ以上にひどいのに、こういったことは社会では問題になっていないんですね。かわりにことばの詐欺というか、言い換えが行われながら進行している。たとえば、教育再生会議、「再生」って何のことだと思いますか。破壊した人たちが再生を言う。そういうことを許している社会であります。教育破壊会議と言う名前をつけるのならわかりますが、再生なんていうことを言っています。
▽事実の偽造がまかり通る社会
一番最近の問題では、たとえば単位未履修問題、「未履修」と言います。これは権力がつくったというよりもマスコミがそうよんだんですね。どこが未履修なんでしょうか。あれは明らかに詐欺問題ですよ。明確に単位を誤魔化して成績までインチキをして単位を取った振りをしていたんです。これは未履修ではありません。普通の用語では単位詐欺問題と書かなければならないのに、そういう形が誘導されながら進行しています。こういうネーミング、事実のつくり変えがセットになりながら行われていると思います。
今日のテーマの教育基本法の問題なんかは、まさしく法律改悪に向けて、国民運動としてウソが言われているということではないかと思います。教育基本法の改悪に向けてずっと自民党が言いつづけてきたことは、枕詞のように、何か言うたびに青少年の犯罪の増加です。教育基本法に「道徳心」や「公共の精神」が盛り込まれなかったからであるという話になっていって、大合唱が行われています。あっちこっちでやる教育関係の講演会とかそういうところにお寺の、なんとか宗の高僧が行って、道徳が乱れて青少年の犯罪が増加しているなどと、平気で言っています。そして、教育基本法を変えなければいけない、という政治的扇動が行われています。
いうまでもないわけですけど、青少年の犯罪統計というのは刑事政策によって総数は動きます。自転車泥棒を逮捕するという動きを示すと、犯罪者は増えます。事件の調査統計と検挙数がそれほど動かないと思われる兇悪犯罪、殺人なんかを見ますと、明らかに数字は、終戦直後はデータがはっきりしませんが50年代まで非常に高い数字を示しています。殺人での青少年の検挙数が400人を超えています。ずっと下がって90年代に70人ぐらいに下がり、95年ぐらいから増加に転じ、100〜120人でカーブを描いています。それが実態なんです。それを増えてる、増えてると言っているわけです。数字を見ますと、明らかに教育勅語で育った世代がいた頃、殺人がいっぱい行われているんですね。戦争に行くことがなくなったから殺人が増えた、そんな解説は私はしませんが。
きびしい社会状況の中で、教育基本法の中での教育で明らかに青少年の犯罪は減少していったわけです。それすら平気でウソを言っています。だいたい愛国心、道徳心を基本にせよと主張している人に最も非道徳的な人が多いですよね。たとえば森喜朗元首相は学生時代の買春や某新聞社への不正入社が問題にされ、小泉前首相は働いていない会社から給料をもらっていたことが問題になった。経歴詐称で辞めた議員もいましたけど、「出すぎた杭は打たれない」ということで彼らはがんばり通した。そういった人が道徳、道徳、と言っているんです。
青少年の犯罪は増加しているとか事実もウソだし、だから教育基本法を改正という論理はまったく飛躍したウソであります。こういった事実の偽造というのは、戦争責任とか、戦争犯罪とか60年70年前の問題だけではなくとも、日々行われつづけているというのが私たちの社会ではないでしょうか。
▽世羅高校校長自殺の真相
この愛国主義だとか教育の強制の一つの区切りをつくった国旗・国家法のそしてそれを誘導した、広島の世羅高校校長の自殺の問題もまさにその典型であります。私もいろんなところで聞きますが、多くの市民の頭に焼き付いているのは間違った認識です。教職員組合と解放同盟の圧力によって、その板ばさみになって、あの校長は死んだというつくり話が浸透しているわけです。国会でそういうことを言った議員もいましたし、それを宣伝した全マスコミに責任があります。
しかし、事実は全く違います。私の『させられる教育』(岩波書店)に詳細に書いてあります。亡くなった校長は「君が代」をやる意志は全くありませんでした。だから、文科省からきた辰野裕一教育長に対して手紙を書いています。「私は解放教育、人権教育をやってきた人間として、身分制を称える歌を歌えということは、自分の中で、教育者として矛盾を感じます。この矛盾をどういうふうに解決したらいいのかお教えください」というものです。そして、彼は辰野教育長に散々脅される中で、当時の広島県はホウ・レン・ソウ(統一教会がやっている報告・連絡・相談)とかなんとかで、それを強制して毎日、卒業式の君が代実施に向けてどう取り組んでいるか、教育委員会に報告せよと言われていました。その中で、彼は学校の先生方に、授業を終わって5時過ぎたらお帰りください、と職員会議をしている振りをしますからといって、職員会議室の電気をつけて9時10時まで一人で残って、電話がつながらないようにさせてですね、夜更けに一人帰っていたのです。
その人の帰ったところに教育委員会が電話をかけてきて、今日はどうだったかと聞く、それが辛くてうずくまって電話に出なかったそうです。そして、夜中になってから電話をかけているんですよ、今日も何もありませんでした、って。亡くなる前の日は土曜日です。土曜日の夜でも電話がかかってくる。彼は、夜中の1時半になって電話を取って、今日も会議で卒業式のことをしております、と言って電話を切っているんです。その彼のところに日曜日の朝、教育委員会の人事の課長か誰かが押しかけて行ってですね、その1時間半後かに納屋で首を吊っているんです。これは明らかに殺人です。
私は今回の本(『子どもが見ている背中』の序文の書き出しでもこう書きました。「『君が代』斉唱を拒んだ石川敏浩校長を、文部省から送り込まれてきた辰野裕一・広島県教育長らが自殺に追いやった」。ただ、この1行を入れるために私は岩波の編集者と1ヶ月間ケンカしなければならなかった。「これは言いすぎだ」といって、ここまで言わなくても分かっているんだから、こういうきつい表現はやめてくれませんかと言われました。やっと押し切りましたけども。新聞社に至っては、この1行は絶対に入れさせません。延々と削れないかと言ってきます。これくらいですね、マスコミが事実をゆがめたことを隠そうとしています。
歴史は何十年前もたとえば満州事変がでっち上げられたこと、そういうことではなくっても、この社会は事実をつくり変えて、それを利用するそういう社会が連綿とつづいてきているわけです。この石川先生の死は、もちろん辛いという意味もあるが、君が代に対する抗議であった。それを逆に国旗・国歌が法律で決まっていなかったから、死んだという話にすり替えるんです。これほど権力がやっていることは汚いことであるわけです。
▽単位詐欺問題
今回の単位詐欺問題でも、一貫して同じパターンでやっているといえます。構図は同じです。全部校長がやったという形で言っています。とんでもないわけで、私は10日前に広島の問題を聞いて書きました。広島は、2001年8月に外部からの通報で単位詐欺問題が出されているんです。このときの教育長は、常磐というやはり文科省から来た人物です。それまでは文部省からきた元特殊教育課長だった辰野氏です。彼により文部省直轄の是正指導が入っているから、いかなる脱法行為も許さない、学校の先生方を追い込んでいきました。しかし、その彼の下で、単位詐欺は進行していたのです。そして、01年8月バラされて県立14校がそうであることが発覚しております。
そういった辰野氏も常磐氏も本省に帰っているんです。帰った人間がやっていて、今回の問題が起こったときに文科省からきている関教育長の下で広島の教育委員会は、5年前にあったから広島県は今回ありません、と言いました。それが2週間たってから暴露されたんですね。暴露されたのは府中高校です。その校長たるやこの春まで長いこと辰野の下で、県教委の指導第2課の校務指導官であり、ナンバー2のポストにいた男が校長に行っているんです。
これは全部グルじゃないでしょうか。文科省と教育委員会とそして,そのエージェントであって教師いじめに功績のあった人が校長に行ってやっている問題であります。その盗人が問題の処理をする、というそれが教育再生であるといわれている、こんな狂った社会の問題の捉え方はないと思いますが、それがまかり通っています。そして、いろいろな論評を見ていながら思うのは、一番私たちの社会が忘れていることは、子どもたちの問題だということです。
▽高校生に責任はないか
生徒たちの問題ですね、高校生にはなんの罪もない、可哀そうだと。試験が迫っているからそういう話ばかりになっています。受験生に迷惑をかけてはいけない。本当でしょうか。高校生は罪がないんでしょうか。私はそうは思いません。高校生には明らかに責任があるし、罪があると思います。彼ら全員とは言わないけれど、一部の高校生は知っていたはずです。他の学校に行っている中学時代の友だちとか予備校などで聞いて、どうもおかしい、いろいろ知っていたはずであります。親も知っていたはずです。それが、受験のための科目に絞るということを、それをうまくやっていると思っているわけです。
こういった校長は、マスコミには書いてありませんが、多くの地方の進学校の校長には、県教委からお褒めのいい人間が行っているわけです。けっして学校の先生方が民主的に選んだ人間が校長ではありませんから。そういうことも社会的に問題にされていない。その上に、子どもは責任がない、そんなはずがありませんね。高校生には明らかに責任があります。しかし、その責任は100パーセントではないでしょう。2〜3割でしょう。あとの7〜8割はこの子どもたちに指導要領がどういうふうになっていて、カリキュラムがどうであるかを伝えなかった学校の先生方と校長の責任があります。
なぜそういうことを言うかといいますと、55年前に「児童は、人として尊ばれる。児童は、社会の一員として重んじられる」、「すべての児童は、個性と能力に応じて教育され、社会の一員としての責任を自主的に果たすように、みちびかれる」と「児童憲章」を制定し、そして、今90年代には子どもの権利条約を批准している国です。この条約を見れば、はっきりと子どもが情報を知る権利、そして、思想・信条の自由の権利、そして、意見表明をする権利を明記しています。国連・子どもの権利委員会は、日本では、こういった子どもの意見表明権が軽視されているからそれを改めろということを批准後勧告されている社会です。
そういう中で高校生たちが一体なぜこの問題を知ることができなかったのか、知らすことをしなかったのか、そういう責任が学校教育の中にあります。しかし、そんな話は全然出てきません。そして高校生たちはイノセントであると、無罪であると、という話になっております。一体、20歳になったら突然、真っ黒けの大人になるはずがないでしょう。それまではピュアなニューボーンベイビーみたいな子どもがいてですね、突然安倍晋三氏のような人間になるとかですね、そういうことはありえないです。それこそ、子どもの権利条約の中に書いてある基本思想はですね、人間は生まれたときから基本的人権を持っており、そしてそれを発達と共に、そういった権利が広がっていく、その年齢ごとに基本的人権は保障されないといけないということを明記しています。
しかし、私たちの社会は、そんなことはこれっぽちも大事なことと思っていないんです。付け焼刃の人権の意識であるがゆえに、この問題が起こったときに、子どもにはなぜこの情報が伝わっていなくて、子どもたちの意思決定がないがしろにされてきていたという問題点を話し合っていません。ここに、私たちが政府によって、社会によって捉えられている現代の非常に恣意的な歪んだ矛盾した子ども像がよく表れているんじゃないかと思います。
現代の子ども像というのをひとことで言うと、イノセントな無垢な子どもとモンスターのような子どもとかが並存ですね。電車に乗っていて突然かなづちを振り上げたりするというんですね。そういうことをキャンペーンして、何をするかわからない鬼のような子ども、道徳心がない何をするかわからないという子ども像とそれからイノセントな子どもがいて、だから学校ではクラブ活動に打ち込みなさいと。非行に走ったらいけないから、クラブ活動をやりなさい式の、これもイノセントな子ども像です。何かに打ち込んでいる少年、少女の姿は尊いといって、市民として子どもを育てる、子どもが成長をしていくんだということを認めるということではないんですね。
学校、中等教育の中で靖国の問題にしても、北朝鮮の問題にしても、核の問題にしても一つ一つ自分なりに情報に接近して、意見をつくっていく、そういう教育が完全に阻害されています。その阻害というのは、無垢な子どもとモンスターの子どもに揺れ動いて、この矛盾を使い分けする現代の社会の視線の中で、子ども像はつくられていっていると思います。
▽沈黙する教育学者
さて、教育基本法問題に入っていきます。状況は、強行採決するのかどうか予断を許しませんが、それに対して、国会前でハンストその他座り込みも行っております。教職員組合では、日教組などが動員しながらよくがんばっています。そういった動きと外からの世論の動きに加えて、一つは9月21日の予防(君が代強制反対)訴訟の勝訴というのもありますし、あるいは安倍政権がべったりになっているアメリカの上院、下院選挙の動きとかそういうのがあります。キチッと闘いをつづければ、五分五分に闘いをできるのではないかと思います。そういう中で教育基本法の問題を話したいと思います。
この教育基本法改悪の動きに対して、社会の動きの中で事態の何が、数年前と全然違うのかなと、20年前30年前と全然違うのかなと思うんですね。一つは、一体、教育学部とか教育学者は何をしているんだろうかと思います。みなさんもそう思われないでしょうか。みなさんが学んだ母校の先生たちは、一体何をしているんでしょうか。大きな大学の戦前からあった総合大学の教育学部というのは全部戦後つくられたんですね。ご存知のように旧制の国家のための高等師範学校ではなくて、教育のあり方について研究し、批判するための学部として教育学部というのはつくられたんです。それから同時にかつての師範学校も学芸大学として、その後70年代に教育学部と名前を変えていきますが、教育研究その他の内容を変えたはずです。
つまり戦後、教育学というのは出発したんです。国家のための、子どもたちを叩いて殴って型に入れるような教育ではなく、市民をつくるための教育はどうあるべきか、そして国家が教育に介入することに対して、批判的な研究を行うためにつくられた学部であり、研究が教育学であります。しかし今、この自分たちの拠って立つ学問の基盤そのものを覆そうとする法律がつくられようとしているときに、何一つ反対の声明が行われていません。教育系の学部、大学で反対を言ったところを私は一つも知りません。新聞でも報道されていませんからゼロだろうと思います。
そして、周りを見ますと、たとえば私の住んでいる京都の京大の教育学部とか同志社の教育学科とかを見ますと、およそ現代の教育のあり方について研究している学者はほとんどゼロですね。なんか「現代の映像」だとかですね、わけのわからん遊びの研究ばかりが名前に並んでいます。遊びが全部悪いとは言いませんけど、本業をやってから少し遊んでくれと言いたくなるよう状況にあるわけです。
そういう状況でたとえば、私の知っている限りでは大内和裕さん(松山大学)のような人だけですよね。そして、年配の堀尾輝久さんとか、大田尭さんのような皆さんと同じ上がり組みの人が闘っているだけでですね。中間層は何一つものを言わない。だから、ちょっと堀尾さんにいやみを言いますけど、あなたはいったい何を、誰に教えてきたんでしょうね。と言いたくなるんですけど、まあこれは酷ですけど。
教育学者、教育学部が自分の存在を覆されるにもかかわらず、黙っています。この教育基本法が「改正」されたあと、教育関係のすべての法律が来年から横並びに変えられていくんですね。まず学校教育法が変えられるでしょう。次に地方教育行政法が変えられます。社会教育法も変えられます。学習指導要領も当然変えてきます。それは、今よりももっと強く国家主義の方向で変わってきます、それは教育基本法が変わったからという理由にして。それから図書館法にしても博物館法にしても変えてきます。当然、今主張しているけども教育職員の免許制度も変えてきます。全部変えるんです。そういうのが軒並みこれからつづこうとしているのに、日本の教育学者とか社会は、なんとなく呑気に構えている、我関せず、です。これほどボケた社会であります。
▽心理学の歪み
それからもう一つは、現在の教育学とか教育関係者ですね、ものすごく心理主義、心理学者が増えています。心理学のインチキ研究がたくさん増えています。心理学のゆがみには二つあると思います。一つは、とにかく子どもと人格の全面的な付き合いをしていない人たちが、それが何かこころというのを一つの部分として取り出して、テクニカルに操作ができるような、そういう発想を広めていってるし、本人もそう思い込んでいるようですね、そのゆがみ。
もう一つは、心理学のグループがもっている統計的処理への無自覚的なのめりこみです。さまざまな問題を全部統計的な処理をなしながら数値計算ができると思っています。アンケートをとってそれを5点評価するとか点数をつけたりして、その平均値をとって統計的処理をして、偏差値をとったら結論を出せる、おおよそ教育がもっていたものと思想が違います。
教育がもっていた基本的思想というのは、一回かぎりの人と人との出会いですね、人と人との人格のつきあいを大事にするというのが教育の基本なのです。それに少しは統計的処理とか、人間の内面の心理的分析とか入れてもいいでしょう。しかし、常にそういったマスで人間との関係性を処理していく動きに対して、批判をもつのが教育学のはずです。しかし今、教育学の中ですごく幅を利かせているのは心理関係です。さかんに人間を数字的に処理しようとする動きに無自覚であります。これがコンピュータリゼイションの動きと合わさって、学校現場で先生方の多忙化を進行させているわけです。私は、いかにいい加減かを感じたことも、山のようにあります。
今年の春、毎日新聞の人と一緒に、佐世保の少女が同級生の首を切った小学校の「その後1年」ということで行きました。学校もひどかったけど、その話をしている余裕はありませんが、ひどかったのは長崎県教育委員会が1年間かけやった対応というのに絶句しました。長崎県の教育委員会は、1年半前かな突き落とし事件があってそのあと、例によってこころの教育だとか、カウンセラーの派遣とか、命の大切さっていうバカ3点セットを述べていました。そのあとまたこの事件が起こってるわけです。そしてそこに東京学芸大学の助教授が、長崎県教育委員会に行って、子どものこころのチェック表とかをつくっています。
20項目にわたってチェックの項目が並んでいます。たとえば、この子が自分の感情、怒り、悲しみ、その他の感情を年齢に応じて・・・、ことばにして表現する力をもっているか、とか、この子は、怒り、悲しみ、その他の感情を表現する力が年齢よりも劣って幼稚であるか、あるいはこの子は、悲しいとか辛いという思いを、先生に伝えることができると思っているか、とかずっと20項目並んでいます。
見ただけで私は、ゲーッとします。こういう形で平均化して人間の関係性をチェックさせる、そういう思想の下劣さにゾッとしますが、そういうのが並んでいるんです。そして、1年後にあった結論は大真面目にこう書いてありました。「このテストによって学校は楽しくなくても、それに負けないで生きる子どもが少し増えている」と書いてあるんですよ。いい加減にしてくれと思いますけど、それをキチッとゴシックで書いてありました。平気で書いてあるんですね。それに加えて、しかしながら先生の負担は少し増えているという声もある、と書いてありますよ。これが無責任社会の実態であります。数値化がずっと進行していってるわけです。
▽教育基本法二つの柱──平和主義と個人の確立
これら一連の動きと教育基本法は、全然違うものだったということを、私は教育基本法を読みながら、もう一度キチンと確認しておく必要があると思います。皆さんに回っている政府案との対比表を見てください。私は対比表は好きではありません。教育基本法は非常に短くすっきりしていて頭に入りやすい。対比表にすると間が抜けてしまうから別表にしたほうがいいと思います。釈迦に説法で私は分野が違いますから、そんなことをいう資格はありませんが、教育基本法には二つの柱があると素人ながら思います。
一つは、前文に書かれた平和憲法の理想の実現は、まず教育によって行うと、これは交戦国家、戦争国家であった日本の近代に対する強い反省のもとに書かれた文章ですよね。しかも、そういった戦争をしない平和のために貢献する人間は、単に政府や外交の問題というだけではなくて、そういった人を長い時間をかけて教育の中でつくっていく、そういう市民によってつくられた社会が、国際平和に貢献していくという思いでつくられている。
それから二つ目の柱は、個人の確立であります。私は、日教組の運動とか戦後の運動が「教え子を再び戦場に送るな」という一番目の柱については運動してきたが、個人の確立と書かれている面については、二番目の柱はちょっと弱かったと思います。
▽教育刷新委員会の議論―個人の確立があっての公共
しかし、教育基本法前文では、「個人の尊厳を重んじ」「個性豊かな文化」と述べてですね、個、個別性ということを非常にキチッと強調しています。そして第2条教育の方針では「自発的精神を養い」と繰り返し強調しています。これほどまでに執拗に人間の個別性、個人を尊ぶ、そしてそういった個人が確立することによって、多様性を認める社会、多様な人間と人間が願ってつくっていく社会をイメージしているわけです。
この二つを柱にした教育基本法の成立に関して、盛んにデマを流して、憲法がつくられたときに、GHQによってつくられた、そういっている人がいますが、教育基本法がつくられた過程が記録されています。教育刷新委員会(審議会)のちに中央教育審議会と変わりますが、この刷新委員会の全会議録が公表されています。しばらく手に入りませんでしたが、岩波書店から全13巻で最近再刊されました。その文章を見ていくと、当時いかに深い討論の中でこの文章を確立していったかがわかります。たとえば、当時の東京文理科大学長兼東京高等師範学校の校長であった務台理作さんが言っていることをちょっとだけ紹介します。
人格の完成ということですが、そういう倫理的な言葉を使わないで、矢張り個人ということが大事だと思います。個人の尊厳とか、価値、そういうようなものを自覚さすようなこと、これは個人を犠牲にしないということをよく現わすことと思います。個人を一番犠牲にするのは、誤った精神主義じゃないかと思います。つまり学行一致とか、修練だとか言って学校にやたらに喰いこんで行った、ああいう教育が非常な禍をしたと思います。個人を犠牲にせず、個人の自由というものを飽く迄尊重するという精神、そういう精神に教育の理念が基づく。之をどういう言葉で言ったらいいか、私にも見当がつかないのですが、兎に角それを見ることに依って、教育に関する者に実際に反省を促すような実感を持った言葉が要るのじゃないかと、こういうように考えております。(第3回議事速記録)
こういうふうに言っています。あるいは別に第5回ではこんなことも繰り返し言われています。これも務台さんのことばをつづけますと
私はこういうことを思いますが。公に仕えるということは非常に大事なんです。併し殊に国際関係に立ったり、この非常な経済の難関を背負ったりして行くような為には、ただ精神的な公に仕うということだけじゃいけない。もっと具体的に、近代的な意味で公に仕えるということでなければならぬと思うのですが、本当に公に仕える人間を作るには、やっぱり個人というものを一度確立出来るような段階を経なければならない。それが今迄日本に欠けていたのではないか。西洋なんかは、やはりルネッサンスで、前回もいわれたように個人というものを発見して確立した。それでああいう革命なども起っておる。そういうものを経て近代国家が出来、所謂近代的公というものが成立したのですが、日本にはそういう西洋のような段階を歴史的に持っていない。遅れ馳せだけれどもやっぱり西洋のように、個人意識と言うものを確立するという順序を経て、公に行かないと、又すぐ反動化する。公に仕えるということで、非常に個人が縛られてしまうというようなことが起りはしないか。(第5回議事速記録)と。
▽教育基本法を葬るための「改正」案
こういう議論を積み重ねる中で確立したことばです。つまり、現在の自民・公明、民主の案はですね、60年前の教育基本法の刷新会議、これぐらい全部記録されているのに、彼らがやったことは、誰が言ったのか、全然分かりません。60年経っていかに社会が歪んだか、遅れたかということです。情報公開と全く違うことが行われております。
そして今、政府案に書かれています公共心とか全部この議論の中で否定されたことが登場してるんです。ということは、教育基本法改定案ではなくて教育基本法を葬るための案であるということです。反革命の案が現在登場しているということを、私たちはちゃんと見ないといけないわけです。
当時の議論の中でなかった状況が起こっていて、それを付け加えるんだったらまだしも、すべて議論、討論され、そういうものはいけない、そういうものは戦前の戦争国家で国民を国家のパーツとして部品としてつくる教育につながったんだ、と議論されたことが、その条項が今回の「改正」案に登場しているわけです。それくらい反革命的な教育基本法案です。
▽「国民全体に対し責任を負う」いうことの意味
私は2点あげましたけれども、後何点もあげていくことができます。たとえば、3点目にあげろといわれれば、社会において国家が介入するべきではない領域をいくつかちゃんともっていなければならない、こういう思想の中で教育もまた、国家が介入すべきでなくって、個々の教育する人間によって行われるものであるという国家の介入を拒否する条項であります。たとえば、今回の予防訴訟判決の教育基本法10条違反だといわれている教育というのは、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」という表現になっています。
「国民全体に対して」は、いろいろな議論があります。当時の表現で精一杯の表現だったと思われます。素直に読んだら、一体何のことかと言いたくなることでもあります。「国民全体に対して責任を負う」そんなことが簡単にできるんですかと、「国民全体」ってどこにいるんでしょうか。一人ひとりの先生が国民全体に向き合うなんてことが、一体どうやってできるんですか、とまぜかえっしたくなります。しかし、ここに書いてあることは一人ひとりの教育にあたる人間が、自分の責任において創意工夫をしながら、どのような市民に育ってもらうかと希望をもってぶつかっていく、それを認めよ、ということですね。
それぞれの先生が長いこと勤めている間には、何となく意欲がなくなって疲れるときもあるでしょう。あるいは右寄りの先生も、左寄りの先生もいるでしょう。そういったことが問題ではなくて、その先生が人格を懸けて子どもたちと全面的に付き合っていくこと、それを導いたことが、この条項に込められた意思です。そういうことが現在の教育基本法の論議にすべて忘れられています。
▽横行する「させる教育」論
そういう現在の教育論のすべてに忘れられていることそして、私が言っていることの違いは、お前も教育論を言っているじゃないかといわれるけど、私は数多の教育論とは違うと思っています。
文芸春秋とかいろんなメデイアが教育論特集をしていますが、それらは全部「させる教育」論です。私はしない教育論です。私は「させる教育論」を言っているつもりはありません。私は、教育はするものだと思います。自分が自分の子どもとか、回りの人にするものであります。それから学校の先生がするものであります。回りの人たちは自分のしない教育についてする人たちに支援することができるだけです。代わってさせるという教育論が、自分も子どもだったから、教育を受けたから、自分もできると思ってですね、そして、自分のアイデアのもとに、させる、ということがずっと言われているんです。しかし、教育はするもんであって、しない人たちは、している人たちに感謝しながら援助することはできても、させるということは言うべきではないのです。
文科省とか文科学大臣とか教育委員会とか、しない人がさせる、と言っています。こういったことと違ってここに書いてある10条は、個々の先生が自分の創意工夫の中で、主体的に子どもと関わって、そのことが尊いことだ、と国民が認めてそれを支えていく、という条項であります。それがすりかえられて、「させる・させられる教育」論というのがすべてに横行していると思います。
たとえば、夫婦が自分の妻、自分の夫なりが、完全な夫であるとか妻であるとか、議論する人はいないです。いたらおかしいですね。そうでなくて、こんなところが好きだとか、こんな悪い面があるとか、どうあろうとそこには一個の人格を言っているんです。しかし抽象化された夫があって、それがいいとか、悪いとか、それは崩壊しているとか、再生しないといけないとかですね、そんなバカなことを、こういう基本的なことが食い違ったまま展開されているのが、日本の教育論だろうと思います。個々の先生が教育をしているのですから、それに対して感謝しながらそれをどうやって支えていくことができるのか、それについて話をするのはわかります。だけど、させるということを延々と言い、そのさせ方がどうだとかが議論されている社会の歪みというのを強く感じます。
▽畏敬の念への強制
こういう教育基本法のもっている平和と個人の確立に対応しながら、その二つとも根本から掘り崩す動きがこの20年、80年代から着々と行われてきたと思います。今それがフラッシュバックというかスピードを上げて行われている。一つは平和憲法の理想の実現は教育によって行われるという主張に対してですね、その掘り崩しは、愛国心と国家主義のイデオロギーで行っています。
一連のやってきたことは河合隼雄氏たちが「こころのノート」を配布して使用を強制し、道徳教育を強要しています。それから僧侶たちとも一体になって宗教的情操の涵養の主張を行っています。そして、日本の伝統なるものへの崇拝を、これはたとえば、京都では河合隼雄氏らの延長で京都の歴史検定というテキストをつくってばらまいております。今私たちは、それの裁判を起こしたところです。それから日の丸のバラまきと君が代斉唱、そして非合理的、神秘的なものへの畏敬の念への強制が進行しています。学習指導要領の理科教育の中に自然、自然現象を学んで、そしてその次の行には自然に対する、さまざまな現象に対する畏敬の念を養うと書いてあります。
教育というのは、私たちはさまざまな今分かっていることは何か、分かっていないことは何かということを知って、そして分かっていない問題について自分なりの問いを出しながら一生かけてその問いを深めていく、それが生きていくことの喜びのはずであります。しかし、日本の教育は違うんですね。風がどうやって吹くのか、川はどんなふうに流れているか、その程度のことをちょっと覚えたら後は一気に神秘現象に飛びなさいと。そしてさまざまな自然を統合しているものに、なんらかの摂理があるんだということで畏敬の念を持ちなさいという話になってしまう。そしてそれが神道の天皇制の話に飛躍できるような体制を教えなさいというようなことが、平気で学習指導要領の中に書いてあります。
その程度の認識ですから、カルトの占いがはやり、そして血液型診断とかなんとかに浮かれ、平気になるんですね。そういう体制というのは、必ず学校教育と通底していると思います。こういったことが愛国心と国家主義イデオロギーのセットで進行している。平和憲法実現としての教育の掘り崩しが行われています。
▽強いられる点数競争
それから二番目の個人の確立、市民としての個人の確立ですね、教育基本法が主張したものの掘り崩しは、競争と格差拡大の中で、着実に行われています。競争が何故に悪いのかと言う人がいます。少しぐらい考えてみたらいいと思いますけど、競争には二つあります。他者と行う競争と、自己の限界に対するチャレンジとしての競争であります。本来の競争というのは、自分の限界を気づいて、その限界を超えて自分の可能性がひろがっていくことの喜びとしての競争は意味があります。しかし、他者との競争というのは、そこに政治権力の意図があって、競争の仕方のルールがつくられていて、そこで人と争うのが競争であります。
学校教育の中でスポーツ云々ですね、戦争の遊びから発達したスポーツが盛んに煽られて、地域で何番目の学校になったとか、言ってですね、全国総体に行ったとか、国体に行ったとか、オリンピックで1番だったとかそういった形での競争のイデオロギーが日常化されていると言える思います。ここでも、する運動ではなく見る運動に変わっていますね。そして、一定ルールがつくられた中、競争しあうことがいいと思っている。 しかし、あえて競争と言う言葉を使うならですね、本来の競争と言うのは、自分の限界に気づいてそして、その限界に絶望するんではなくて、それが日々変っていくことを視点が広がっていくことの喜びが競争の意味です。そういったものではなくて、非常に知識の限定された教科書の習熟競争とか、紙のテストの点数競争とかそういったものが競争だと思い込まれています。そして、それを全国一律の順位で点数化していくという日本的情報化にパソコンが使われていますね。このパソコンがまさしく教師を統制するための手段としてつかわれているというのが現状だと思います。
▽272項目に及ぶ成績評価表
京都市の教育長門川氏が教育破壊会議のメンバーになったそうですが、私の今度の本の中に、京都でやられている成績表のことを書いています。兵庫は京都市ほどではないでしょうから、こんなことは進行していないと思いますが。京都市の小学校、中学校での通知表は最近の電気製品のマニュアルのようです。15ページのA4版で表になっています。たとえば国語を開くと「春を伝える」という項目について、「国語への関心・意欲・態度」、「話すこと・聞くこと」、「書くこと」、「読むこと」、「言語事項」の5項目について、観点別評価が記され、それについてABCで点数がつくことになっています。国語だけで11項目の採点。社会、数学、理科、英語・・・と9教科について、それぞれ複雑な評点項目が続き、総項目67について、点数が記されています。
それは1学期についてだけであり、2学期69項目、3学期74項目と指導要項ごとに採点され、数えると210項目について評価がつけられていました。さらに学年末の総評価も各教科ごとに観点別評価と評定なるもの62項目について、評価が記されています。つまり、1学期の総評価項目数は272項目に及びます。一人の人間が272項目にわたって評価されているんですよね。これは子どもの側に立っていいましたけれど、評価する側の先生の側に立ったら272×40人ですよ。子どものことなんかは、どれくらいわかっているか知りませんけど、こんなことが出来るのでしょうか。
これで許されるならまだしも、京都市はさらに副表をつけろということになっています。これで、文句を言ってきた親がいたら学校の先生は説明責任があるから、この成績表をつけた根拠になるさらに詳しい副表をつけろということになっています。たとえば、小学校6年生の「整数」「分数のたし算ひき算」などマトリックスの表になっています。そして読みますと意味は何のことか全然わかりません。たとえば、「数量や図形についての知識・理解」ではこんなふうに書いてあります。「整数についての感覚を豊かにし倍数・約数と公倍数・公約数の意味やそれぞれの求め方を理解している」か、それから、「分数のたし算・ひき算」では「分数についての感覚を豊かにし・・・」、「立体」では「立体についての感覚を豊かにし・・・」です。いったいどうやって感覚を豊かににするのかなと思いますし、つけている人もどれくらい感覚が豊かなのかわからないですけれど、こういうことを平気でやっています。
この副表の項目を数えますと、これもマトリックスになっていますから数えて見ますと、小学校6年生の1学期の副表の評価項目は180項目あります。40人の生徒を担当しますと180×40、7200項目です。子どもの顔がやっと覚えられるかどうかなのに。7200項目の評価をつけてその上で絶対評価をつけて成績表を渡す、というようなことがなぜできるのか。これはパソコンに向かってやるからできるんですね。 こういったことが行われているわけで、これこそ教育基本法に書かれた人間と人間のふれあい、そして、個別の人間性を大切にする個の確立、個人の確立ですね、あれくらい教育刷新委員会・審議会で議論したことを180度違った方向に、私たちの社会が進んできていることを物語っています。
▽予防訴訟の9.21勝訴判決の意義
こういう教育基本法改悪の中で、9月21日に東京地裁で旗・歌の予防訴訟(国歌斉唱義務不存在確認等請求事件)で勝訴しました。なんで東京のときだけ騒がれるのかなと私も思います。広島のとき、あるいは沖縄のとき騒がれないで、反対している先生方も含めて、相変わらず東京中心主義だなと苦々しい思いもあります。私がいろいろなことで関わっている、たとえば根津さんとか佐藤さんが苦しんでいたときに、東京の高教組のある執行委員は、「あれはね三多摩地域の人たちのやり方が下手だから」というようなことを平気で言っていました。それから「うまく都教委とやればあんなふうに処分されないですよね」とかその調子のことを言う人がいっぱいいました。それから各地のたとえば広島のきびしい弾圧状況の中で、多くの県の組合役員や先生方は、「同じ国のことと思えません」とか「戦前のようですね」とかそういうことを言っていたわけです。
敵は一つなんですね。文科省にくっついて動かしている文教族であります。にもかかわらず先生方はそれを絞ってみることがなく、自分のとこは火がついていないといいながら、順々に攻め落とされてきたのがここに至ったわけです。
まあそれはそれとして、東京の都立学校の先生方が足元に火がついて予防訴訟というのを起こしました。この判決は9月21日に東京地裁で出て、手元の資料にコピーが出ておりますが、「憲法19条の思想・良心の自由に違反し、国民全体に対し直接責任を負って行うものであって、教育行政による不当な支配は許されないという教育基本法第10条に違反している」と判決が出たんですね。弁護団もそれはそれでいいんですが、このことを強調しています。だけど忘れないでほしいことがあります。それは私が関与したから言いたいという意味ではありません。
判決はそのことに加えて、重要なことがもう一つあります。判決文に「国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し、国歌を斉唱するか否か、ピアノ伴奏をするか否かの岐路に立たされたこと、あるいは自らの思想・良心に反して本件通達及び之に基づく各校長の職務命令に従わされたことにより、精神的損害を被ったことが認められる。」と書いています。そして、「これらの損害額は、前記違法行為の態様、被害の程度等を総合考慮すれば、一人当たり3万円を下らないものとするのが相当であり、当該判断を覆すに足りる証拠は存在しない。」と書いています。
3万円には何の根拠もありません。原告が一応3万円と請求していたからです。判決文も3万円以下ではないとしました。そして、この裁判でいかに学校の先生方を心身ともにいたぶったかということを、私が鑑定意見書として出したのが証拠として全面採用されています。だから最終弁論でも、70ページにわたって私の意見書を土台にして、それぞれの先生が精神的にいかに傷ついたかを整理して述べています。それが全部証拠として採用されたんですね。
私もこの6,7年間にわたって先生方の抑圧の中での苦しみを聞き、そしていろいろな証言をし、裁判の書証も書いてきました。われながら教育学者ではないのに、なんでこんなことに関わることになったのかな、と悲しい思いもありますけれども、しかし、順々に書いていくたびに、憤りも強くなりましたし、文章も整理され、この最後のときにはかなりすっきりした文章になっていると思います。今回の本に入れてあります、それがやっと全面採用になりました。 その採用されたことで忘れてもらってはならないことは、裁判官は、このことを明記することによって、たぶん控訴審でどうするかということを考えたと思います。現在の最高裁判所の司法行政の中では、判決文に憲法違反と書いてもですね、上級審で覆される可能性が非常に高いです。しかし、私の鑑定意見書を証拠として採用したことは事実ですから、それを覆すということは容易でなくなります。つまりたとえて言いますと、自衛隊が憲法違反かどうか裁判を起こしてもですね、なかなか判決してくれません。かつての長沼ナイキ基地訴訟(1973年、福島判決)のような時代はとっくの昔になりました。しかし、自衛隊がどっかの民家に爆弾を落として人をぶっ殺した場合、これは違憲かどうかではなくて、殺人、傷害致死の事実として証拠採用されます。
同じことでして憲法違反かどうかとか、教育基本法10条違反、とくにこの10条を今、明確に変えようとしていますから、変えられたら裁判は効果がないと却下されるでしょう。裁判所は、しかし、証拠として採用されたものは、それに対して、事実はないということを証明しなければなりません。そのためには私と対抗できるだけの精神科医をさがしてきて、そして事実と違うということを論証しなければいけない。それは大変難しいことです、彼らにとっては。私はこの鑑定意見書の中で、03年の10.23通達で突然ではなくて、その前からずっと長期にわたって、学校の先生方に拷問を加えてきたんだということを立証しております。
▽心身に杭を打たれるーある美術教師の場合
その症状を整理して、身体化された症状と感情の不安定と抑うつ気分、抑うつ状態ですね、それから自己像の変化の4点にわたって整理しながら、訴えた人たちの思いをずっと書いてあります。この訴えている人たちは闘っているんだから自分の弱い面を外に語るということはしてきませんでした。皆さんもきっとそうだと思います。日本の社会は、そういった権力と闘っているときに自分の悲鳴を弱音として、精神の傷とか身体の軋みを混同していますから。そういったものを気づいてはいけない、あるいは気づいても人に言ってはいけないという思いがあります。しかし、そういったものを綿々と聞き取って整理していこうとし始めますと、もう全部の先生方が10分ぐらいの聞き取りが始まってから涙を流し泣きつづけるという状態でありました。私もかなり辛いインタビューがつづきました。
たとえば、ある美術の先生は、自分はこういった人間の創造性が抑圧されて共感が乏しくなっていく時代の中で、美術の教師として人間の創造性を豊かにすることが自分の使命だと思って働いてきた。しかし、それが年々軽んじられて、授業数も減らされるし、バカにされる状況の中でがんばってきた人だけども、自分はその教育の歪みの中で不安を覚えていた。そこに10.23の通達がきたと。
そのとき自分は立ちはしない。しかし、もし立ってしまったら、子どもたちに自分の思いを表現しながら生きなさい、と言ってきた私の教育者としての姿はどうなるんだろうかと、私は立ったときには、最早次の瞬間から子どもたちの前に一つの統一された人格の人間として、子どもに顔を向けることはできなくなると思いました。そして、しかし、だから座ろうと思ったんだけど、座ろうと思うと同時に座れば、当然処分がくる。そしたら遠くの学校に飛ばされる、一連のセットですね。そして病気のお母さんの世話ができなくなる。それから1回だけではすまないから順々に座っていけば、4回で辞めさせられるが、使命として思ってきた美術教師は奪われる。そう思ってですね、仕方ないから立つかと思った。職員会議中に椅子に座っていることができなくなり、立とうと決めたときに彼女は腰掛から崩れ落ちたこともあった。それを彼女は、私に泣きながら訴えた。
ほんとにからだの中に大きな杭が食道から胃に打ち込まれる痛みを私は感じた。けっして比喩で言っているのではないんです、と。多くの人たちはいやなものをさせられる症状を消化器の症状として訴えます。毒を飲まされるということですね。そういう形で不快なものを無理やり飲まされる、からだの中に突っ込まれる、どうしようもない吐き気、いやなものを吐き出したい、そういった症状、吐き気、嘔吐ですね、胃腸の重い感じや痛み、下痢と便秘が交替するそういった消化器の過敏症状、そういったものがたくさんの人に見られます。それから、胸部の圧迫感ですね、こういった身体化された症状が非常に強い、そして、精神面では感情が不安定になっていきます。
怒りとか自責念とか自己破壊的イメージ、本来ですね、悪に対して向かっているのだから、自責念などもつはずがないです。しかし、闘っている多くの人間は、自分を責めます。それはたとえばこういったことを覆すだけの力がないということを、自分に責めたりします。あるいは日本的な文化の中で、こういう人がいます。「あなたはいいでしょう、座ることでいいでしょう。でも座ることで学校の混乱はどうするんですか」「右翼が言ってきたりして学校の名誉はどうなるんですか」などとそういうことを言われる。
そういったときもキチンと反論しましたけれども、それは心の中に残ってなんとなく今までと同じように話すことができなくなっている自分がいたり、そういう形で自分を責めて、自己破壊的なイメージに満たされて、死を思ったりします。泣きやすくなったり、常に校長や教育委員会に呼び出されて、それに必死になって闘っているけれど、闘っている自分がフラッシュバックのようにイメージされてくるとかですね。
それから、抑うつ的なんですね。曇りなく教育に打ち込むことが最早できない、自分のやっていることが部分的には一生懸命やっているつもりだけれど、基本的には意味がないんじゃないかと思われてくる。こんな教育の中で、意欲が低下し、空虚感、焦燥感に陥って、そして自己像が変化し、同僚との交流を控える傾向とか恥辱感とか絶望感、自分は無用な人間だという感覚、取り返しのつかない被害の感覚、喪失感。とりわけ生徒たちへの贖罪感、将来への不安こういったものが絡んでいきます。先生方はこれまで自分は校長の暴力に対し抗議し、教育委員会と闘っていると思うからですね、自分の苦しさを訴えてきませんでした。訴えたらいけないと思ってきたわけです。自分よりよほど辛い人がいるだろうからから、だけども私は違うと思ってきた。しかし、実際は精神科とか内科に行って、睡眠薬とかもらいながら耐えてきているわけです。
こういった状況を今回の裁判は、キチッと精神的な被害であると認めました。こういった症状は、私の精神科医としての私見によれば、悪いですけど強姦された人の精神症状と全く同じです。あるいは人質となって死をさまよった被害者の精神症状と同じです。こういったことが権力によって行われているわけです。文科省のいじめ定義というのはですね、読みますと何を言っているかと思います。みなさん知っていますか。文科省のいじめ定義は。「強者による弱者への不当な圧力」と言っているんですね。それは、その圧力は身体的であれ、言語的であれ加えられている者が、その本人がそのために苦しむこと、と書いてありますよ。1センチも1ミリもこの日の丸・君が代の強制でやっていることからズレていません。そういうことが公権力によって、平気で行われているわけです。教育を破壊しているのは文科省です。
▽人格を分裂させられる子どもたち
私は個々の子どもたちと人格的なふれあいをしていくという教育基本法のもっていた基本に立って、それと違う動きに対して、すべて、異議を申し立てていく力をもっともっとつけていかなければ、ズルズルと押し流されていくと思います。
現在の子どもたちは、80年代から徹底した競争社会の中で生きていくことを強いられています。外から無垢とモンスターの使い分けが行われている。子どもの側から言いますと、高々3歳ぐらいで外に出始めた頃にはですね、お母さんが言うことは、仲良くするのよって言って押し出されます。それは多くの友だちと、自分を主張し、その交流の中で、対立もしながら感情の交流をしながら仲良くするという意味ではありません。絶対的に仲良くしなさいということなんですね。これが70年代80年代を乗り切った日本の世代が会社人間になって、会社の中で適応していくために、生きてきた生き方をお母さんたちが見ていて、それを子どもたちに言うことです。つまり、仲良くしなさいね、ということは多数派をちゃんと見て多数派の側に常につきなさいよ、という意味が仲良くしなさいということばです。
そして、その子が泣いて帰ったら、お母さんは今度は、負けたらいけないわよ、と言うんですね。で多数派を察知して、いじめられないようにしながら、しかし、負けないようにしなさい、これはかなり矛盾した指示であります。
こういったナゾナゾを子どもたちに解きなさいということが、2,3歳頃からずーっと進行しています。結局、子どもたちが日本の教育の中で受けているのは簡単に言うと、人格の分裂だと思います。場面に応じてうまく適応しながら、本音は言わないで生きると、それがこの社会の中で生きる本当のうまい生き方であるということです。
たとえば、今回の単位詐欺の問題すね、校長が二人自殺しました。ああいう校長は徹底的にどうして死んだか分析しないといけません。美談でもありませんし、死んだからものを言ったらいけないということではありません。命の尊さを言っている人がですね、次の瞬間には自殺するような社会がいいかどうか、ということですね。教育関係者はキチッと議論していくべきです。この中でそういう人たちを追い詰める社会システムを考えていかなければいけない。しかし、そんなことは一切隠されて伝えられているメッセージは、口では命の大切さを言いなさい、しかし、少数派に回ったときは、殺されるんですよ、これが日本の教育が伝えているメッセージです。
あるいは安倍晋三氏が伝えているメッセージです。彼は、聞きかじりの、右派ぶって言っていたんだけど、総理大臣になったら少し別のことを言う。こういった昨日の借金は、今日の私と違うから忘れました、ということを言っても通るような人格の分裂を、この教育の中で行っているわけですから、教育基本法の「改正」という問題は、この20年30年の日本の教育の歪みを、キチッと照らしてくれる動きだろうと思います。そのことをいろいろなところで訴えながら、改悪阻止のための運動をしていかなければならないと思います。
*この記録は、11月11日兵庫県私学会館で開催された「教育基本法改悪に反対する緊急集会(「元教職員ひょうごネット」主催)での野田正彰さんの講演の録音テープを文章化したものです。録音機器の取り扱いが不慣れだったため、かなりの脱落や聞き取り不能部分があります。教育基本法「改正」案の参議院審議が大詰めとなり、阻止できるかどうかの瀬戸際を迎えている状況があり、あえて拙速にも記録化させていただきました。野田正彰さんと当日の参加者に多大なご迷惑をおかけすることをお詫びします。小見出し、文章はすべて編集者の責任によります。
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