すでに12月も下旬となり、今年も押し詰まってきましたが、先月11月の11日は、アメリカの「復員軍人の日」――第一次世界大戦の休戦を記念するとともに、アメリカが参戦したすべての戦争に従事した米軍将兵たちに感謝する休日――でした。この日を期して、本稿の筆者、今は「俗塵を離れたオレゴン州東部の小さな町」に在住する元・土地管理局自然保護官は、かつて訪れたアメリカ各地の戦跡を追憶し、自身のヴェトナム戦争体験とご子息が従軍したイラク戦争への思いを重ねて、時が移っても「時代は変わらない」戦争の愚かしさを想い、そして、10月17日にブッシュ大統領が署名したジュネーブ条約無視の「特別軍事法廷設置法」の非人道性を告発します。(TUP速報)
凡例:(原注)[訳注]《リンク》〈ルビ〉
トム通信:ダグ・トラウトマン「復員軍人の日の追悼」 抗主流メディア毒・常備薬サイト「トムディスパッチ」 2006年11月11日
[トム・エンゲルハートによるまえがき]
1918年11月11日、この日の11時に停戦協定が署名されて、20世紀最初の大量殺戮〈さつりく〉、第一次世界大戦を終結させたが、やがて、この「すべての戦争を終わらせるための戦争」も第二次大戦の序章でしかなかったことがわかった。今や21世紀も第6年目になって、11番目の月の第11日を迎えたが、新手の大量殺戮が続行中であり、ブッシュ政権を見舞った先日の選挙ショック《1》やドナルド・ラムズフェルド国防長官の辞任を見たにもかかわらず、殺戮が終わる兆しは見えない。イラクでは、米兵の2839人がすでに死亡《2》、数万人が負傷し、それにイラク人の側は――軍人と叛乱勢力、民間人を含め――死者が何十万になるやら知りようもなく、考えうるかぎりの残忍で血なまぐさい方法で殺されている。 1 http://www.whitehouse.gov/news/releases/2006/11/20061108-2.html 2 http://antiwar.com/casualties/
イラクの殺戮現場は、ここアメリカにいる私たちにとって、はるか彼方にあり、その追悼は、これまで、ほとんどまったくなされていない。殺戮が行われているという認識を持つことさえ難しいが、ウエブサイトのアンチウォー・コム《*》が、せめて毎日報道された分だけでも突き合わせをするという、注目すべき、ただし気の滅入る仕事している。連日の死者数の逐次集計を発表しているのだが、それには大量に発見される身元不明の遺体も含まれ、そうしたケースは特にバグダッドに多い。(「大バグダッド圏で、11月7日遅くから8日にかけて、宗派間抗争の犠牲者と思われる29遺体が見つかった……」)
http://www.antiwar.com/
それぞれ地味で控えめな表現の報告のひとつひとつが、悲痛である。8日の記事の見出しは、「2米兵・199イラク人戦死、または死亡の報告。3米兵・137[イラク]人負傷」《*》となっている。それでもやはり、これら言葉による集計は――永久に報告されることもないこれらすべての死者には比べようもないのだから――死者を愛していた人びとの苦しみを伝えることもできなければ、半ばにして絶たれた貴い命の喪失が二つの国にとって意味するものを数えあげることもできない。8日に「キルクーク州の同じ事件で」戦死した米兵、あるいはバグダッドの広大なスラムでの死が「サドル・シティで地区のサッカー試合中に飛来した迫撃砲弾により8人死亡、20人負傷」という一文で片付けられた8人のイラク人、あるいは「イスカンダリアの住宅付近で路傍爆弾爆発、男性1人とその息子(13歳)死亡」という記事にある氏名不詳の親子のことを、どう飲み込むというのか。
http://www.antiwar.com/updates/?articleid=9982
今日の復員軍人の日が、新たな終戦記念日であってほしかった。あいにくなことに、この11日にも、あの無惨なイラク発の遂次集計がアンチウォー・コムに掲載されるだろう。ダグ・トラウトマンはヴェトナム戦争帰還兵(今は、ご子息もイラク戦争帰還兵)であり、戦後は土地管理局に勤務し、わが国の歴史に名を残す血なまぐさい戦闘の現場を数多く訪れた。ここに掲載するのは、今日の復員軍人の日、死者たちにたむける彼の追悼である。
トム
戦争の再演 人間性を喪失する国を想う ――ダグ・トラウトマン
復員軍人の日にはどうしたらいいのか、私にはわかったためしがない。おそらく、ワシントンDCの黒い壁[*]に名が見える兵士たちを、あまりにも多く知っているせいだろう。 [ヴェトナム戦没者記念碑。戦死または行方不明のアメリカ人5万8209人の名を黒御影石の壁に刻む]
ヴェトナムでは、アメリカから手紙が届くのに何週間もかかることが多かったが、テクノロジーは戦争に関する多くのことを変えてしまった。私の息子は、バグダッドから私に電話したり、Eメールを送ったりすることが瞬時にできた。
息子が休暇で帰宅したとき、私たちは体験を比べあい、時には母親が部屋を出て行ってしまうような話題で笑いあったりもした。息子が家にいたとき、私たちは、時には夜空の下、天の河を仰ぎ、われわれ人間がいかに小さく無知であるか、静かに語りあったりもした。
私は人が戦争を「楽しむ」などとは信じない。おもちゃの鉄砲や棍棒を手にする子どもたち――あるいは、ほんものの銃器やにせものの制服で「仮装する」大人たち――には我慢ならない。
私はヨークタウン[*]の防壁を見渡したことがある。私の目に浮かべることができたのは、独立戦争[1775-83]終結を印した、その地での閲兵や降伏の光景だけではない。「勝利」に先立ってあった煙と火、そして死が私には見える。 [バージニア州の町。1781年、英軍のコーンウォリス将軍が降伏した土 地]
私は、オレゴン州東部、人里はるかな砂漠のヨモギと岩だらけの景色を眺め渡したことがある。そこは今でも「悪霊」が棲みついている。1万年前、人間が殺しあった場所なのだからである。
私はアラモの砦[テキサス州サンアントニオ]の前に立ったが、これはメキシコ軍のサンタ・アナ大将が「謀反人」の小集団を攻撃するために大軍を集結させ、「このばか者たちは何をするつもりだったのか?」といぶかった場所だ。モンテベロ断崖[カリフォルニア州ロサンジェルス郡]の上に立ったが、そこはピオ・ピコという名の人物がサンタ・アナの尻を蹴とばした場所だ。シッティング・ブルがカスターの騎馬隊を待ち伏せしたのとまったく同じように、その断崖で将軍の部隊を待ち伏せして、砲火を浴びせかけ、眼下の川床の岩や砂地を血で染めたのである。
カスターの作戦計画は罠の中に馬を進めることになったが、「世界の全インディアンたち」は彼に向かって殺到したのだ。サンタ・アナは同じ大失敗をやってしまった。彼は「アラモを忘れて」いた!
私はフレデリックスバーグ[*]周辺の小道を歩き、南部連合軍の兵士たちがバーンサイド大将麾下〈きか〉のブルーコート[北軍兵]たちを次々と狙い撃ちにした、まさにその木立の後に立ったことがある。その地形と散在する木々のようすが私に物語を語っていた。それを私は、バージニアの銃声が途絶えてから1世紀後に、遠く離れた別の場所で追体験することになる。 [バージニア州、南北戦争最大の激戦地。国立墓地に1万5000人を超え る兵士が眠る]
ヴェトナムで仕掛け爆弾として使われ、あれほど有効な働きをした“クレイモア”地雷[*]は、人名に因んで名付けられたのではなく、かつて16世紀のスコットランドで、文字どおり人間を頭から下へと両断するように製作・使用された刀剣に由来する。 [地面にしかける対人指向性散弾地雷。直径1.2mmの鉄球700個を扇形に飛散させて、敵の足を破壊する。クレイモアは、スコットランド高地人の両刃の 剣]
ヴェトナムのマンヤン峠で、私は細くうねる山道の端に立ち、眼下のジャングルのなか、私が参戦したのより前の戦争でフランス兵たちが集団死した地点を示す十字架を見下ろした。それは軍事用語では「敗北」、実態は「壊滅」だった。
同じ道のほんの数キロ離れた地点で、私も、同じような、もっと小規模な待ち伏せに遭ったが、辛うじて逃れた。時代は変わらないものだ。 [ボブ・ディランのヒット曲『時代は変わる』のもじり]
十字架は、共同墓地に立てるべきでない。十字架は――リトル・ビッグホーン[第7騎兵隊全滅の地]やマンヤン峠でなされたのとまったく同じように――じっさいに人びとが倒れた戦場にバラバラに立てるべきである。
ゲティズバーグ[*]やヨークタウンの草原は、あまりにも清潔、あまりにもすっきりしすぎ、見た目によすぎる。広大な草原でも、潅木の続く野原でも、森でも、ジャングルでも、そちこちに十字架が立っていれば、あるいはただの白い石でも、目に付くほどの大きさのものが散らばっていれば、必要な物語をそれだけよく語ってくれるだろう。その十字架なり、石なりは、赤色でなければならないかもしれない。血の赤だ。 [ペンシルベニア州、南北戦争最後の決戦場 (1863)]
私がこれまでに見たうちで最も印象的な「ものを語る現場」はジョージア州アンダーソンヴィルのもので、往時、旧・南部連合監獄(公式名はキャンプ・サムター)が建っていた場所だ。そこでは、塀の内側に並べて立てられた杭の列が、そこを横切る兵士が看守に撃ち殺されてしまう「死線〈デッドライン〉」を示していた。戦争捕虜の中には、懲罰として、仲間たちの手でその線から無理やりに押し出された者たちもいた。虜囚生活の飢えと惨めさから「逃れる」ため、わざと越えた者たちもいた。この柵囲い施設は1万人の囚人を収容するようにできていた。一時、最大収容者数は3万2899人に達し、1万2919人がそこで死んだ。悪臭があまりにもひどく、囚人たちの多くは、門を入ったとたんにむかつき、嘔吐したほどである。
人間の人間に対する非人道的行為は、戦場で――あるいは戦闘とともに――終わるものではない。
アメリカは道を見失っている。その証拠は2006年の特別軍事法廷設置法[*]にある。この法令で合州国は、戦争捕虜の処遇に関するジュネーブ条約を尊重しないと実質的に宣言しているのである。同法は、だれが「敵」または「テロリスト」であるか、彼らはどのように処遇されるべきかを、大統領がみずから決定することを基本的に認めている。これは身体的拷問にも精神的拷問にも適用される。私の息子は軍でSERE(Survive=生き延びる、Evade=切り抜ける、Resist=耐える、Escape=逃げる)教練を修了しており、水責めがどんなものか知っているが、それも、「拷問する側」に殺意がないことを妥当な理由によって確信できる場合に限る。 [Military Commissions Act=直訳では、軍事委員会法。参照サイト―― アムネスティ日本「グアンタナモにNO!」軍事法廷:
http://www.amnesty.or.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=763 ]
自分が生きようと死のうと、相手が気にかけていないとしたら、だれが水責めをされようと思うだろうか。
頭脳は、消耗したり――あるいは洗ったり――すると大変な代物である。そのことについて、私にはヴェトナムでの個人的な体験があり、そこでは、一部の部隊はジュネーブ条約遵守に努めていたが、それは必ずしも守られていなかった。条約に違反し、条約が強く要求する限られた範囲の制約すらもかなぐり捨てるとき、私たちはもはや人間ではない。
わが子もそうだったが、わが国の兵士たちは、ポケットに「生命証票」を忍ばせて多くの国ぐににおもむく。この小さな書類には、その所持者を捕虜にした者が彼を無事に帰国させれば褒賞を出すと記されている。軍事法廷法によって、こうした証票は無価値になってしまったかもしれない。
2001年、連邦議会は一人のかなり狂った小人物に、私たちがヨークタウン、アラモ、モンテベロ断崖、フレデリックスバーグ、アンダーソンヴィル、マンヤン、あるいは「ハノイ・ヒルトン[北ヴェトナム米兵捕虜収容施設の俗称]」から何も学んでいなかったことを示す証拠を手渡しはじめた。 今また、私たちはサンタ・アナやカスターのように盲目的にわれわれの運命にまたがり、自分たちには力がある、自分たちは「正しい」と過信している。そして、われわれの最近の行軍はまだ終わっていない。
私の息子は、今では私と同じ帰還兵である。戦争を最も憎むのは、戦争に熟練した男女である。復員軍人??戦闘経験者??は、自分でそれを体験していない者には理解の「手がかり」すら得られない何かを知っている。
私たちは、過ちを繰りかえしたり、再演して美化したりしてはならない。
[筆者]ダグ・トラウトマンは、1966年から67年にかけてヴェトナムで第一機甲師団に所属。後にヨセミテ国立公園のパークレンジャー[公園保護官]、ついで土地管理局の原生自然保護および戸外リクリエーション立案担当官。俗塵を離れたオレゴン州東部の小さな町に在住。
[原文] Tomgram: Doug Troutman, A Veteran's Day Memorial posted November 10, 2006
http://www.tomdispatch.com/index.mhtml?emx=x&pid=138937 Copyright 2006 Doug Troutman
[翻訳]井上利男 /TUP
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