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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2007年01月08日19時10分掲載
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【追悼】宇井純先生を偲ぶ 公害の解明、告発に大きな足跡
2006年11月11日、公害の解明と告発、解決に向けて大きな足跡を残した宇井純沖縄大学名誉教授が亡くなった。74歳だった。私が宇井純先生と交流させていただいたのは、1994年のピースボートの地球一周クルーズに水先案内人として乗船されたときから。水俣に居を移し、財団法人水俣病センター相思社の職員として働き始めてから辞めるまで1997年までの約3年間の間である。(加藤宣子)
ピースボート時代、私は環境チームのまとめ役をしていて、当初から先生はとても素敵な方だと聞いていた。初めてお会いしたのが東京から沖縄へ向かう船の中で、私たちが鋭意準備していた「地球の健康診断」の最初の船内企画に環境問題に関わってきたとして、他の方とともに、お話をうかがったときである。
さらにアジアの公害問題についての講演もしていただいた。その後、地球一周環境調査を終えた私たちが、帰国後、素人なりにその調査をまとめた報告書「地球体感・ぐるっと環境」を自費出版するとまっさきに購入してくださった。この時は本当にうれしかった。
1995年の戦後50年南太平洋クルーズでもご一緒させていただき、ちょうど6月23日の沖縄の終戦日、先生としては珍しく、強引に「加藤さんは、環境オプショナルツアーにしなさい」と、平和の礎の除幕式に参加しようと思っていた私は、先生が考案された浄水施設に連れていかれた。
それは小さな沈殿池を3つほど掘っただけのものであったが、「自然の力はすばらしいんだ」と何の人工的な設備のない池に目を細めていらっしゃった。
亡くなった今となっては、公表しても構わないだろう。私が水俣にいたころ、先生は、九州に来られた際には、お忍びで水俣に足を運ばれていたと思う。
先生が設立に大きく関わった相思社は、甘夏事件というトラブルを起こし、とても難しい立場だったこともあって、先生はあまり相思社に顔を出さず、湯の児温泉に宿をとっていらっしゃった。
一度は鹿児島大学での講演に来られたとき、先生と二人、鹿児島から水俣まで特急電車のなかで話し込んだ。水俣のこと、ピースボートのこと、国際会議のこと、環境庁のこと。
その時に熱心に話されていたことは、いかに環境庁に入り込んでいくかということであった。水俣病患者たちがあれほど真剣に役人たちと対峙しようとしても、役人たちは勉強不足で、先生が最初に書かれた新書「公害の政治学」(1968年)さえも読んでいないこと、しかし、そこであきらめてはいけないこと、特に若い役人たちに対し、環境庁がとってきた姿勢について再考するよう働きかけをしていることなどを語っていらっしゃった。
先生にとっては「敵」といってもよい環境庁の若い役人に働きかけるなど、なんて柔軟な方なのだろうとその時のことが強く印象に残っている。1年という短い期間に、何回か直接お話しする機会をいただけたことは、今となってなんと恵まれていたのだろうと思う。
常に的確で正確なアドバイスをいただいたと思う。本当に偉ぶるところのない方で、たくさんの弟子や教え子がいたであろう、
その中の一人でしかないが、相思社職員という道を選んだ私にいろいろ声をかけて下さった。当時、いくつかの環境に関わる国際会議に参加していたにもかかわらず「公害」をどう訳せばいいか分からなかった私に「『公害の政治学』とこれ『Industrial Pollution』(UN University Press)を読めばいいから」と本をいただき、的確なヒントを与えて下さった。
当時、相思社の同僚からも「せっかく相思社にいるのだから、皆が読まない本を読んだら」と言われ、そのほかの宇井先生や原田正純先生、石牟礼道子さんの著作にはほとんど手を触れなかった。相思社の書庫にこもっては、長崎や三池や三里塚の本や、水俣の本の中でも患者さんたちの聞き取りをまとめた本などをむさぼり読んだ。
それが今の私のいくつかの仕事につながっている。昨年、水俣病公式確認50年を迎えるにあたって、改めて「公害の政治学」や原田先生の本を読んで、両先生方のなした仕事がいかにすごかったのか改めて敬服していたところに、宇井先生の訃報を聞くこととなった。
今、分厚い「公害原論」を手にして、また今年のアースデイでの展示企画の流れから「小さな水俣の会」なるものをスタートすることとなり、もう一度だけでも先生にアドバイスいただきたいと思っていた私のことを遠くで眺めながら「あとは自分で考えなさい」と笑っていらっしゃるような気がしている。
以下は、宇井先生の通夜で配られたカードから。改めて素敵な出会いをいただいた記憶に残る通夜となりました。ご冥福を祈ります。先生、たくさんのお仕事、お疲れさまでした。
宇井純講演より
人生には 自然を破壊したり 人々を苦しめたりしないで済む そういう選択をする機会が必ずある もし人が 生涯にたった一つでいい 本当に良かれと思う選択をしてくれたなら この社会はきっと変わるはずだ。
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ありし日の宇井純さん
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