イランの核開発問題をめぐり、欧米のメディアでは米国とイスラエルによるイラン空爆の可能性が報じられている。一方、イランのアフマディネジャード大統領は西側の軍事圧力に一歩もひかぬ姿勢を崩していない。では、当のイラン国民はこの動きをどのように受け止めているのだろうか。首都テヘランの大学に留学中の大村一朗さんは、「核技術国民記念日」の4月9日、政府から「嬉しいお知らせ」があると聞き、核施設のある中部の都市ナタンズに向かった。道中と滞在先でさまざまな人びとと交わした言葉と街の様子を大村さんが届けてくれた。(ベリタ通信)
◆イラン核技術国民記念日
イラン暦ファルヴァルディーン月20日、西暦で言えば今年の4月9日を、イラン政府は核技術国民記念日と名づけ、国中で祝祭の式典を執り行なうと発表した。この日は、昨年の2006年4月10日、イランが3.6パーセントの低濃縮ウランの製造に成功したことを公表した日であり、その1周年目に当たるこの日をイラン核技術国民記念日と名付け、式典を催すとともに、新たにまた政府から「嬉しいお知らせ」があるという。イラン中部、ナタンズ核施設での特別式典には大統領も出席すると聞き、私は9日早朝、ナタンズへと向かった。
ナタンズの核施設はテヘランからそう遠くない。テヘランの長距離バスターミナルからバスに揺られること3時間、バスはテヘランから南に246キロのカーシャーンに着く。カーシャーンよりさらに南75キロ先のナタンズ市までは乗り合いタクシーが頻発しており、核施設は、カーシャーンとナタンズ市のほぼ中間に位置している。 カーシャーンで乗り込んだ乗り合いタクシーには、ナタンズ市在住の男性が同乗した。彼に、イランの核政策をどう思うか聞いてみた。 「これ以上、問題を大きくするべきじゃないと思うけどね。イランには長距離ミサイルの技術がすでにあるから、核弾頭を搭載する技術くらい、たやすいものさ。もちろん、政府が核兵器を持たないと言っているのは信用してるよ。でも、西側が信用していない以上、問題は大きくなってゆくばかりだよ」
この2年間の間に、アメリカとイスラエルがイランの核施設を攻撃するかもしれないという報道が繰り返し行なわれてきた。そうした報道は次第に具体性を帯びてきており、今年2月には、イスラエル空軍がナタンズ空爆を意図して英領ジブラルタルまでの往復飛行訓練を行なっているとする報道があり、またペルシャ湾に停泊中の米空母による4月空爆説が、ロシアの国営放送によって3月と4月に繰り返し報じられていた。もしアメリカが核施設を空爆すると、そこから数10キロしか離れていないナタンズ市を含めた周辺地域は放射能汚染で壊滅する可能性がある。核施設のそばで暮らすことに不安はないのだろうか。 「それは大丈夫。核施設本体は地下深くにあり、しかも厚いコンクリートの壁で覆われてるからね。貫通弾? 知ってるよ。それでも地下施設に被害を与えるのは無理だと思う」
そうこうするうちに、運転手が前方を指差し、核施設に着いたよと教えてくれた。一面の荒野と、背後にはうっすらと砂色のキャルキャス山脈が横たわっている。低い鉛色の空の下で、数基の高射砲が頼りなげに空を睨んでいる。 施設の門前には数台のパトカーが停まり、関係者のものと思われる車両も見られるが、私がインタビューをしたかった熱狂的な保守系市民の姿は見られない。時刻は午前11時、幸い式典はまだ始まっていないらしい。施設内への入場を試みるが、許可証を持った関係者以外、立ち入りはできないと丁重に断られた。
周囲を見回してみると、1人の若者が風上に背を向け、寒そうに芝生の上に座り込んでいる。話しかけてみると、彼も式典のためにカーシャーンからやってきたのだという。 「大統領に会えると思ったんだ。会って、仕事をくれって頼もうと思ったんだけどね」 26歳のバスィージ(市民動員軍)だという彼は、現在無職で、アフマディネジャード大統領に直訴するためにやって来たという。バスィージ出身の大統領になら自分の声が届くかもしれないと思ったのだろう。
バスィージ青年と話し込んでいると、パトカーが脇に停まり、職務質問してきた。このとき、パスポートを家に忘れてきたことに気が付いた。早朝、慌しく家を出たせいだ。 「ちょっと来なさい」 式典どころではなくなってしまった。私はそこで1時間ほど待たされたあげく、カーシャーンの警察署まで連行されることになった。パトカーがカーシャーンへ向かう途中、あろうことか『祝!核技術国民記念日』の横断幕を掲げ、核施設へと向かう、市民を乗せた何台ものバスとすれ違った。カーシャーンの警察署では、穏やかながら4時間近く事情聴取され、夕方になってようやく解放された。パスポート不所持では宿にも泊まれないため、そのままテヘランに一旦戻るしかなかった。
その晩、テヘランの夜空には打ち上げ花火が上がり、テレビのニュースではナタンズ核施設での式典の模様と、施設前で熱狂的にイランの核の権利を叫ぶ市民の姿が映し出されていた。そしてこの日、イラン全土の学校では朝9時に鐘が鳴らされ、全校生徒で「核エネルギーは我々の明らかな権利!」、「アメリカに死を!」、「イスラエルに死を!」、「神は偉大なり!」の大合唱が唱えられたという。
◆再びナタンズへ
翌日の各紙の朝刊は、前日のナタンズ核施設でのアフマディネジャード大統領の演説の写真を1面トップで飾った。私はそれらの新聞に目を通しながら、再びバスに揺られて南を目指していた。核施設周辺住民の話をもっと聞いてみたいと思ったのだ。
保守系、改革系、どの新聞も、一面の見出しは『イランは核エネルギーの産業化段階に入った』、あるいは『3000機の遠心分離機に6フッ化水素を注入』でほぼ統一され、紙面は祝賀ムード一色である。昨年12月の専門化会議議員選挙と地方評議会選挙で大統領派が完敗し、改革派が大幅に議席を伸ばした際、改革派系各紙はここぞとばかりにアフマディネジャード政権の性急な核政策を非難し、アメリカに付け入る隙を与えて国を危機に陥れるべきではないとする論評を載せたものだが、今朝の朝刊はすっかり保守系各紙と足並みを揃えている。 私は、昨夜テレビで見た、アーガーザーデ原子力庁長官の談話を思い出す。 「我が国の若い研究者たちは自らの人生をイランの核開発に捧げてきた。核施設に泊り込んで、毎日16、17時間も働いた。海外の企業も研究者も我々のそばにはいなかった―」 これは言ってみれば、イラン人にとって、現在進行形の『プロジェクトX』なのだ、とそのとき私は思った。昨日の式典ではアフマディネジャード大統領も涙ぐんでいたという。改革派各紙の論陣までもが思わず愛国主義に流されてしまうのも無理もない気がした。
前日と同様、カーシャーンでバスを降り、ナタンズ市行きの乗り合いタクシーに乗り換える。核施設の前を通過する際、なにげなく前日の式典と記念日について運転手に話題を振ってみる。 「そりゃ嬉しいよ。祝うべきことさ。アメリカや西側にあれだけ圧力を受けながら成し遂げたことなんだから!」 「アメリカ人やイスラエル人のことをどう思いますか?」 「彼らの政府のやり方は気に食わないけど、べつにアメリカ人やイスラエル人そのものに対し、悪意はないよ。ユダヤ人はもともとイラン人と仲が良かったんだ。アケメネス朝だったかな、王妃はユダヤ人だったし、イスラエルのゴッズ寺院もペルシャが建ててやったんだ。あの時代はイスラムもユダヤもなかったからね。でも今だって、イスラエルの前の首相はイランのヤズド出身なんだよ。イラクの前アメリカ大使もハリーザーデって名前だったから、あれもイラン系だろう。それより日本はどうなんだよ。原爆まで落とされて、それでもアメリカとずいぶん仲良くやってるよな。アメリカ人に対する憎しみはないのか?」
イランでは、アメリカやイスラエル政府を罵る言葉は至るところで耳にするが、国民そのものに対する感情を尋ねると、この運転手のように至って冷静な答えが返ってくる。イランはまだアメリカともイスラエルとも戦争をしておらず、アメリカやイスラエル兵の手で無残に同胞を殺されるという経験がない。それが、イラン人にこうした理性を残している所以かもしれない。一方で、20万人近い犠牲を伴ったイラクとの8年戦争を経て、イラン人はいまだにイラクの国民に対する嫌悪感を捨て切れず、米軍占領下のイラクの惨状を見ても、概して冷淡である。同じように、ひとたびアメリカによる空爆が始まれば、イラン人のこうした理性も瞬く間に消し飛んでしまうに違いない。
タクシーは荒野の中の一本道を恐ろしいスピードで走り続ける。スピードメーターは壊れていて、時速何キロなのかは分からない。右手に見えていたキャルキャス山脈の山並みが険しさを増し、鋭い岩盤の頂に残雪がところどころ見られるようになると、左手前方に、緑に包まれたナタンズ市が見えてきた。
◆ナタンズの沈黙と日常
ナタンズ市は人口1万5000人ほどの、ありふれた地方都市だ。キャルキャス山中には桃源郷のような美しい山村が散らばり、そうした周辺住民も含めれば、3万人近い人々がこの一帯に暮らしている。ナタンズ核施設は、実際にはこの町より若干カーシャーン寄りにあり、施設で働く労働者もほとんどカーシャーンの人だと聞く。しかし、ひとたびアメリカによる核施設への攻撃が始まれば、まっさきに放射能汚染で壊滅するのは、風向きから考えて、施設の南部に位置するこのナタンズ市周辺地域である。
タクシーは親切にも町の中心イマーム広場の宿の前まで送ってくれた。この小さな広場を中心にバザールとも呼べない小規模な商店街が広がり、その先には、藁を混ぜた土塀作りの旧市街がある。迷路のような旧市街の中には、水パイプの軸を作る木工職人や、陶器職人の店があり、その先にこの町の歴史遺産である古いモスクがある。 このモスクの建立は10世紀のブワイフ朝時代にさかのぼり、その後14世紀のイルハーン朝期に増築され、ほぼ今の形となった。金曜モスクとして現在も現役で、夕方の礼拝時間になると、モスクのスピーカーから礼拝を呼びかけるアザーンが流れる。旧市街の暗い小道にアザーンがこだますると、あちらこちらの家から、男たちが木戸を開けて顔を出し、互いに挨拶を交わしながらモスクへと向かう光景が見られる。
翌朝、宿を出ると、イマーム広場のすぐそばでは野菜の朝市が開かれており、イラン人の食卓に欠かせないハーブ類が山積みで売られていた。写真を撮ってよいかと男性の売り子に尋ねると、それは勘弁してくれと立て続けに首を振られた。イランでは頼まなくても向こうから「俺を撮れ」と言ってくるのが普通なのだが、ここでは若い男性の売り子のほとんどから撮影を拒否され、「あのじいさんならきっと撮らせてくれるよ」などと教えられる始末だった。
昨日は昨日で、宿をとる際、宿のオーナーはわざわざ役所に電話して、外国人を泊める許可を求めていた。この町自体が明らかに外国人を警戒している様子で、これまでイランでは体験しなかったことばかりだ。 その後、町の人に昨夜の宿のことや、撮影拒否の話をしたところ、「まあ、核施設のこととか、色々あるからね。でもあんまりそういうことは話さない方がいいよ」と忠告してくれた。イラン国中が核技術国民記念日に沸く中、当のナタンズ市民は、この問題を避けるかのように、普段と変わらずひっそりと暮らしている。
そんなナタンズだが、金曜モスクは今日も何組かの外国人ツアー客でにぎわっている。ツアー客が甘やかすからだろう。小学生の子供が私を見ると駆け寄ってきて、「ペンをちょうだい」とねだる。身なりのこぎれいな普通の子供たちがそんなことを言うので、「乞食でもないのにそんなことを口にするもんじゃない」と説教してみるが、けらけらと笑いながら行ってしまった。
しばらく旧市街を歩いていると、また下校途中の小学生に出会った。その二人組みはこぎれいな身なりとは言い難く、坊主頭で、背の低い方の子は明らかに兄弟のお古と思われるぶかぶかのセーターを着ていた。写真を撮らせてくれと頼むと、「アフガン人なの?」と訊いてくる。 「違うよ。日本人だよ」 「カーブルから来たの?」 「だから違うってば」 「写真ならあっちで撮ろうよ」 彼らはそう言うと、私を先導して駆け出した。着いた先は、誰かの私有地のようだが、辺り一面ユリに似た小さな白い花が咲き乱れ、桜の木も満開である。そこで彼らは木に登ったり、花を摘んだりしながら私に写真を撮らせてくれた。聞けば、やはり2人は兄弟とのことだ。上の子がモハンマド君12歳、下の子がアリー君10歳。
「もっときれいな場所もあるよ!」と彼らはまた私を先導して歩き出した。道路を外れて、誰かの農園をそのまま横切って行く2人を、急ぎ足であぜ道沿いに追いかける。数分歩くと、さきほどよりきれいな花畑にたどり着いた。彼らに撮った写真を送ってあげようと思い、住所を聞いてみたが、2人とも正確な自分の住所を知らないという。家に行ってみれば分かるだろうと思い、そのまま2人の家へと向かった。 途中、彼らは何人かの人を指差しては「あれはアフガン人だよ」と教えてくれる。なぜ分かるのかと訊くと、知ってる人だからと答える。 「君たち、もしかしてアフガン人?」 「そうだよ!いつかカーブルに行くんだ。その前にゴムとマシュハドにも行って、マシュハドには親戚がいるんだ。それからキャルバラにも参拝して、あ、あのおじさんもアフガン人―」 「お父さんは何してる人?」 「レンガ積みだよ」
弟のアリーがどこかへ消えたかと思うと、しばらくしてキュウリとリンゴの入ったビニール袋を片手に嬉しそうに戻ってきた。バザールまでひとっ走りして、知り合いのアフガン人の売り子からもらってきたのだと言う。キュウリをぽりぽりと3人で頬張りながら歩き続ける。もうずいぶん町外れまで来てしまった。 「もうすぐだよ。近くにはイマームザーデ(歴代イマームを祭る参拝所)があるんだ」 そのイマームザーデもかなり過ぎて、周囲が農園ばかりになった頃、ようやく彼らの家に到着した。壁があちこち剥がれ落ちた古い家だ。あいにく両親は留守で、家には番地の札も付いていない。残念だが、住所は諦めるほかなさそうだ。 彼らはイマームザーデに遊びに行こうと誘ってくれたが、私はそろそろこの町を出発しなければならなかった。小さな手のひらと握手を交わし、2人の家をあとにした。
◆アメリカへの不信感
その日の午後、私はナタンズの町から程近い、キャルキャス山中のアービヤーネ村に向かった。アービヤーネ村は、山の斜面にある、赤土の壁で統一された美しい景観の村として有名で、観光客にも人気がある。 しばらく村を散策してみるが、平日のせいもあって実に閑散としている。観光客向けに整備された村のメイン道路には、ぽつりぽつりとお土産のドライフルーツを売る老人がたたずんでいる以外、誰一人目にしない。聞けば、若い人たちは皆、都市部へ働きに出ているという。町で売られている電気乾燥のドライフルーツとは違い、ここのドライフルーツは天日干しで、そのためか甘みが強くておいしい。しかし季節柄かリンゴと梨しかない。他にお土産らしいものは見当たらず、安い食堂や宿もない。せっかく海外の旅行ガイドにも乗っている有名な村なのに、これでは観光客がお金を落とそうにも、落としようがない。
村を出ようとしたところ、中年男性ばかりが乗った1台の乗用車が私の傍らで停まった。私がナタンズ方面に向かうと知ると、乗せていってくれるという。彼らはサーデラート銀行の監査役で、アービヤーネ村支店の監査のため、村から40キロほど離れたバードルード市からやってきていた。車を運転しているのは、アービヤーネ村支店の支店長である。 車中では話がはずみ、幹線道への分岐で下車する予定が、せっかくだから今夜はバードルードまで一緒に行って、彼らの寝泊まりする銀行支店に泊まってゆけということになった。
バードルードはナタンズの北東20キロの地点にあり、鉄道や古くからの街道沿いにあることから、ナタンズ市より幾分活気がある。人口は2万人ほど。「風の河」を意味するバードルードは、その名の通り風が強い。町の周囲は、この町の特産であるザクロの広大な果樹園に囲まれ、果樹園の新緑が、荒野を渡ってくる強風を和らげる役目を果たしている。 町の中心街にあるサーデラート銀行の前で監査役の2人と私を車から降ろすと、アービヤーネ村支店長は村へと帰っていった。イランでは銀行の建物の上階は、たいていその支店の支店長宅になっているが、ここでは関係者の宿泊所になっていた。今夜ここへ誘ってくれた監査役のモフセニーさんとジャアファリーさんは、1週間近くここに寝泊まりしながらアービヤーネ村支店へ毎日通っていたという。だが、その仕事も今日でようやく終わり、明日は本店に帰れるのだそうだ。モフセニーさんはさっそく家に電話をかけ、明日は家に帰れると家族に報告している。
「こんなふうにいつも地方を飛び回っているんですか? 家族と離れ離れで、大変なお仕事ですね」 私がそう言うと、ジャアファリーさんは、「いや、地方出張はローテーションになっていて、1ヵ月に1回、1週間の出張が回ってくるんだ。会社も考えてくれているよ。イラン人にとって、家族は何より大切なものだからね」と言い、モフセニーさんの電話が終わるや、今度は自分がかけ始めた。
テレビでは夕方のニュースが始まっていた。イラクで拉致され、最近解放されたばかりの在イラク・イラン領事館の二等書記官のニュースが流れていた。この二等書記官はイラク北部アルビルのイラン大使館に勤務中、米軍の急襲を受け、そのまま連れ去られて行方不明になっていた人だ。4月に入ってようやく解放され、イランに帰還すると、拘束中に激しい拷問を受けたことを公表した。アメリカはこの件への関与を否定しているが、イランはCIAの関与を確信し、国連や国際赤十字を通してアメリカに抗議している。 テレビの画面には、二等書記官の身体に残る生々しい拷問の傷跡が映し出されている。足には何箇所もドリルによって開けられた穴が残り、脊髄も損傷している彼は、車椅子での生活もままならない。
「見なよ。あれがアメリカのやり方だ。人間性のかけらもない。イラン人は絶対あんなことはしない。文化の違いだよ。アメリカは歴史がないからな。人間性の面で培われてきたものもないんだよ。あれでよくよその国の人権がどうこう言えるよ。イラン航空機爆破事件を知っているか? 1988年にペルシャ湾で、アメリカ艦艇によってイランエアーの航空機が撃墜され、乗客290人が殺されたんだ。そういうことを平気でする国なんだ」 ジャアファリーさんはテレビを見ながら憤っている。どうにも怒りが収まらないらしい。私はそのときになって、サーデラート銀行がアメリカによって経済制裁の対象銀行にされていることを思い出した。ジャアファリーさんは頷くと、こう言った。 「そうだとも。そのせいで、まあ、いくらかの損害は受けたよ。うちを介してイランと貿易を行なっていたヨーロッパの企業は、他の銀行に変えざるを得なかったしね」
ドアのベルが鳴ったかと思うと、階下からアービヤーネ支店長が鍋を抱えて上がってきた。遅くなって申し訳ないと挨拶しながら、絨毯の上に食布を敷いて、ご飯や鳥のトマト煮、ヨーグルト、ハーブのサラダなどを並べ始める。奥さんの手料理だという。わざわざアービヤーネ村に戻って取ってきたのだそうだ。私たち3人が食事をしている間も、支店長はキッチンで食器を荒い、食後のお茶の用意までして、さらに私のために明朝のバスの時間をバス会社に電話で問い合わせてくれた。 支店長は食後の鍋や皿を集めると、「何か他に御用はないですかな」と丁重に尋ね、この1週間の監査役の苦労をねぎらい、帰っていった。監査役2人は、別に偉そうにふんぞり返っているわけでは決してないが、やはり監査する側とされる側では、立場がずいぶんと違うようである。
食べ過ぎて動けないという私を、モフセニーさんが散歩に誘ってくれた。あらかた店を閉め、閑散とした夜の商店街をぶらぶらと2人で話しながら歩く。 「アフマディネジャード政権というのは、イラン人にとって、どうなんでしょう。この1年半、よくやっていると思いますか?」 「ああ、良くやっていると思うよ。ハタミ政権に比べれば色んな違いはあるけれどね。例えば? そうだね、ハタミ政権では、表現の自由や欧米との関係改善が進んだよね。一方、アフマディネジャード政権は、その逆の面もあって、幾分過激な言動も見られるけど、国内の団結や、地域諸国や途上国との関係強化を進めている。ハタミ政権とアフマディネジャード政権は正反対の性格のように映るけど、どちらも目的は1つ、国家の発展だ。そういう意味では同じだよ。改革派だ、保守派だと争っても、国の発展を目指すという意味では同じなんだ」
「アフマディネジャード政権の核エネルギー政策は少し性急だと思いませんか? 下手したらこれを口実にアメリカは攻めてきますよ」 「いいかい、アメリカの目的はイランに核開発を放棄させることなんかじゃない。イランのイスラム共和制を崩壊させることが目的なんだ。革命から28年、アメリカはいつだってそのチャンスを狙って、言いがかりをつけてきた。核開発も口実の1つに過ぎないんだ。たとえイランがアメリカのご機嫌を取って核開発を中断したとしても、また別の口実を持ち出してくるだけさ。つまり、我々が核開発を進めようが進めまいが、アメリカの政策は変わらないってことさ」
「でも、近い将来、もしアメリカが期限を設けて、例えば1ヵ月以内に核開発を停止しなければ、地域の安定を乱す要因と見なし、イランの核施設を空爆する、というような最後通牒を突きつけてきたら、イラン政府と国民はどういう選択を取るんですか? つまり、戦争してでも核開発を進めるつもりですか?」 「まずね、イラン政府は性急な結論を出さないで、戦争でも核開発停止でもない選択肢を模索するだろうね。それともう一つ、アメリカがイランを攻めることはないと思うよ。イラクとアフガニスタンであれだけ苦い経験をしてるんだから」
「そうでしょうか。アメリカがイラク攻撃をほのめかしていたとき、世界中は、アメリカはアフガニスタンで手いっぱいだからと、イラク攻撃には半信半疑でした。しかし、結局アメリカはイラクを攻撃しました。イラン人は少し楽観的すぎやしませんか?」 「イランは、イラクともアフガニスタンとも違う。イランの団結や軍事力、地域諸国とのつながりは、アフガニスタンやイラクの比じゃない。さっきも言ったけど、イランは改革派と保守派で分裂しているわけじゃない。冗談でアメリカが来てくれたらなあなんて言ってる若者たちだって、ひとたび侵略者が攻めてきたら、きっと銃を持って戦う。この団結と軍事力に対し、アメリカは勝利できない」
私はモフセニーさんの話を聞きながら、以前に何度も似たようなやり取りを繰り返してきたことを思い出した。核問題だけに注目していると、つい全体が見えなくなってしまう。本当はイラン人にとって、イラン核問題に対するアメリカの横槍など、これまで繰り返されてきた言いがかりの1つにすぎないこと。アメリカの言い分などいちいち聞いていたら何もできないこと。アメリカの真の目的がイスラム共和制の崩壊であること。これらアメリカ政府のイランに対する根本的な悪意を、イラン人は既存の事実として受け入れてしまっているのだということを、私はようやく思い出した。
散歩を終えて宿舎に戻ると、ジャアファリーさんが暇そうにテレビを見ている。モフセニーさんが私とのやり取りをかいつまんで説明すると、ジャアファリーさんはやおら起き上がって、我が意を得たりといった顔で語り始めた。 「そうさ、アメリカはイランには勝てない。アメリカだってよく分かっているはずさ」 「アメリカにそれだけの分別があればいいんですけどね……。だって、アメリカって結構目論見違いの失敗を繰り返してますよ。イランの団結や軍事力だって、しっかり把握しているかどうか、怪しいもんです」 「いいさ、仮に攻めて来たら来たで、戦うだけだ。それが正義だ。国を守るために戦うこと以上に尊い行ないはない。そうじゃないか? イラン人の意識は、間違っているか?」 「いえ……。イラン人はみんな、イマーム・ホサインなんですね」 私がそう言うと、「よく分かってるじゃないか!」と2人は満足げに笑った。
イマーム・ホサインはシーア派3代目イマームで、ササン朝最後の皇帝の娘を娶ったことなどから、古くからイラン人に人気がある。西暦680年、4000人のウマイヤ朝軍に対して、73人で立ち向かい、自らの正義と信仰を貫いて殉教したキャルバラの悲劇は、毎年イスラム暦モハッラム月に行なわれる追悼行事アーシュラーを通して、今もイラン人を陶酔させてやまない。イマーム・ホサインはシーア派にとって、権力と圧制に対する正義の戦いのシンボルであり、近代では革命や戦争の中で常に重要なファクターとして精神的かつ政治的な役割を果たしてきた。イマーム・ホセインの物語の中では、死は勇ましく、尊く、そして美しいものなのだ。
翌朝、私は2人に別れを告げ、テヘランへ戻る車中の人となった。 荒野の中を、比較的古いアスファルト道が北へと伸びている。荒野にはラクダ草に混じって、黄色い小さな花が随所に見られ、砂漠にもはかない春が訪れていることを教えてくれる。そんな景色の中に、点々と高射砲台が見えはじめ、核施設のそばまでくると、それは数100メートル置きに並ぶようになった。朝の7時前からすでに砲手は砲台に上り、何もない曇り空を睨んでいる。聞いた話では、核施設に対する空爆ないしミサイル攻撃には、まず迎撃ミサイルが応戦し、これら無数の高射砲はその後の補完的な役割を果たすのだという。
地中深く、厚いコンクリート壁に覆われたウラン濃縮施設を破壊するため、アメリカとイスラエルは、普通のバンカーバスター(地中貫通弾)ではなく、小型核を搭載した核バンカーバスターを使用するのではないかと言われている。そのため、ナタンズは、広島・長崎以降、世界で初めて核攻撃される危険が最も高い場所と言われている。 以前、アフマディネジャード大統領は演説の中で、「核施設が攻撃されて破壊されたなら、さらに良いものをまた作ればいい」と国力を誇示する発言を行なった。この発言には、周辺住民の甚大な被害に対する視線はない。同じように、アメリカとイスラエルは、「核施設という軍事目標へのピンポイント攻撃」の了解を、いずれ世界に求めるかもしれない。しかし、核施設への‘ピンポイント’攻撃などありえないということを、世界の人々は知ってほしい。
*「大村一朗のイラン便り」
http://www.mekong-publishing.com/iran/iran.htm#18
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