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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2007年09月27日14時54分掲載
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山は泣いている
3・軽井沢からサクラソウが消えていく 山川陽一
▽盗掘──この愚かしい行為
2006年春、友人と軽井沢にサクラソウの群生地を訪ねたときのことである。「以前、軽井沢では、サクラソウはどこでも見ることができるありきたりの野の花だったのですが、今では、ゴルフ場や別荘地の開発でみんな消えてしまい、特定の場所にしか見ることができない貴重な植物になってしまいました。踏み荒らしや盗掘の対象になるので、積極的に自生地を紹介するのも気が進まないのです。」そんな話をしながら、群生地に案内してくれたのは、自生のサクラソウの保存に努力している軽井沢サクラソウ会議の女性だった。
その夜、お酒を酌み交わしながら、地元の自然愛好家からこんな話も聞いた。かつて軽井沢近辺の山野はアツモリソウの宝庫だったが、開発や大量の盗掘によって今はほとんど見ることができない。アツモリソウの盗掘で大もうけして大層な邸宅を建てた人がいるとか。北海道にニシン御殿があるのは知っているが、アツモリソウ御殿があるという話ははじめて聞いた。 本当にそんなにいい商売になるのか半信半疑だったのだが、帰路、国道沿いの山野草販売店に立ち寄ってアツモリソウに一株なんと4万円の値札がついているのを見て、納得できた。こんな高値で売買される以上盗掘はあとを絶たない。市場価値を下げる手段として人工栽培種を大量に市場に出す必要性について議論があることも知っていたが、現実にこんな話を聞くと、確かにそれも必要なことかという気になってくる。
つい先日、北海道の大雪山系のニセイカウシュッペ山に行ったときのことである。山頂で出会った地元で運転手をしているというアマチュアカメラマンの話では、昨年まで、富良野岳や平山に写真を撮りに行って盗掘者をよく見かけたそうである。彼らは、疑われないように普通の登山者のスタイルをしている。花が終わった8月末、グループでワゴン車でやって来て、何の花かわからないが掘っていくそうである。
幌尻岳のヒタカソウは、大量盗掘にあって、いまや登山道沿いには2輪しか残っていない、島牧の大平山ではオオヒラウスユキソウなどの希少種が大量盗掘に会い、盗掘者が通ってできた道が登山道として使われている、いままで北海道の自然保護の仲間からそんな話を聞かされてきたが、土地の方たちの生の話を直接耳にするに及んで、わたしのショックは大きかった。
なんと愚かしい行為、そう思うのだが、思っているだけでは解決にならない。対症療法としては、監視の目と法的な縛りと徹底した取り締まりが必要であることは論を待たない。しかし、根本的には、買う人がいるから職業として成り立つわけだから、そこを断ち切ることだと思う。登山愛好者の中には山野草の愛好家も少なくない。職業盗掘だけでなくお土産盗掘という言葉があるようだが、なんとも悲しいことである。種から栽培したものだと言っても信用されない。栽培種だといっても言い訳に聞こえる。痛くもない腹を探られるくらいなら、高山植物は山で見るだけのものと割りきれないものだろうか。
▽奥鬼怒の今昔
奥鬼怒は忘れえぬ場所である。わたしが最初に奥鬼怒を訪ねたのは、1956年(昭和31年)、まだ雪深い4月だったように記憶している。学生仲間5人でテントとスキーを担いで富士見峠から尾瀬沼に入り、雪の山稜をたどって八丁の湯に下り、更に根名草山、温泉岳を越えて金精峠に至り、日光の湯元に下った。そのとき、無人の八丁の湯で、雪見をしながら露天風呂を使わせてもらった記憶が今でも蘇る。
次にここを訪ねたのは、学校を卒業して数年がたち、わたしが渓流釣りに熱をあげはじめたころである。当時のわたしは、休日や休暇の大半を渓流釣りに費やしていた。今では一木一草、魚一尾捕ることが許されない尾瀬も、まだそんな制約はなく、以前山登りで訪ねたときのあのヨッピ川を悠然と泳ぐ大岩魚の姿が脳裏に焼きついて、ひとり尾瀬を訪ねたのだが、滔々と流れる豊かな水量の川での釣り方がわからず、一尾の釣果も得られなかった。後日、釣り方さえ知っていればぜったいにあの大物を手に出来たはずなのにと思ったりしたものであるが、後の祭りで、そのときの尾瀬はもう永久禁漁になってしまっていた。
自分の釣技の未熟を棚に上げて、尾瀬の岩魚は釣れないものと決め込んでしまったわたしは、方針を変えて、その足で鬼怒沼山を超えて日光沢温泉に下った。そこでも、いくら竿を振っても一向に魚がかかる気配はなかった。釣り下って加仁湯に泊まることにしたのだが、宿の若主人曰く「本流をいくら攻めても無駄だよ。去年の秋の台風で魚がみんな流されて、あと2、3年は釣りにならないよ」とのことであった。失望しているわたしをたぶん可哀想に思ってくれたのだろう。せっかく山越えして来たのだからと、土地の人だけが知っている支流の隠し釣り場とそこでの釣り方をこっそり伝授してくれたのだった。その小渓で手にした数尾の岩魚の感触は今でも忘れられない。
これがわたしの奥鬼怒詣での始まりで、それから数年間、川俣温泉をベースに鬼怒川上流域の渓を釣り歩いた。夫婦淵を過ぎると、下流から八丁の湯、加仁湯、日光沢温泉と続き、本流の川筋から外れた山の中腹に手白沢温泉がポツンと位置して、当事はみんなランプの宿だった。年を経るにしたがって電気が灯り、魚もだんだん釣れなくなって、私の足も遠のいていった。
そんなあるとき、新聞で、奥鬼怒でテンカラ釣りの講習会があることを知り、昔を思い出して参加を申し込んだ。最初に釣りに訪れたときからもう20数年が過ぎていた。わたしの中を懐かしい思いが駆け巡り、胸はふくらむ一方であった。しかし、思い出の地でわたしを待っていたのは、失望以外のなにものでもない。 夫婦淵に着くと、川は護岸工事とテトラポットの投入で、昔日の清流の面影はすっかり消えうせてしまっている。夫婦淵から先は林道(*奥鬼怒スーパー林道)が通じて、宿泊者だけの特権で宿までマイクロバスで送迎してくれるという。有難くバスに乗せてもらって到着したあの日の宿は、すっかり近代的な鉄筋コンクリートの建物に生まれ変り、仰ぎ見ると奥鬼怒スーパー林道の鉄橋が谷を堂々とまたいでいる。中にはカラオケルームもあって、それはもう秘境のイメージには程遠いものであった。
ノスタルジーに過ぎないといわれるかもしれないが、わたしにとっては、この山奥まで来て泊まる意味もないただの温泉旅館のひとつにしか映らなかったのである。ちなみに、秘湯の呼び名がぴったりだった手白沢温泉も、新築されてすっかり瀟洒な建物に生まれ変り、送迎バスも通じて、わずかに日光沢温泉だけが古き時代の面影を残している。
ささやかなわたしの一体験についての話であるが、こんなことは特に奥鬼怒に限ったことではない。戦後のわずかな年月の間に、日本全国いたるところが、そんな風に変わっていったのである。 (つづく)
*奥鬼怒スーパー林道 スーパー林道は、1965年(昭和40年)ころから全国23に及ぶ山岳地帯で開発が進められた。開発主体は林野庁直轄の森林開発公団(現・独立行政法人緑資源機構)である。林道と言っても、実態は、景観の優れた国立公園内などの山岳地帯を選んで計画された観光道路であった。奥鬼怒スーパー林道は、奥鬼怒と尾瀬を結ぶ路線として開発されたが、1991年に完成以来、反対運動によって、許可車以外通行禁止の措置がとられている。
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早池峰ウスユキソウ。
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