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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2007年10月06日12時38分掲載
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「日本」に向かうまなざし 雨中のビルマ軍政への抗議デモ行進 シュエバ(田辺 寿夫)
2007年9月30日、朝から冷たい雨がふりしきる日曜日の午後2時、シュエバはJR五反田駅に程近い小さな公園に集まったビルマの人たちの渦のなかにいた。シュエバを見かけたビルマの人たちが次々と声をかけてくれる。缶コーヒーをさっと渡してくれる人もいる。ありがたくいただく。 この公園は品川区北品川にあるミャンマー(ビルマ)連邦大使館に近い。いくつかある在日ビルマ人たちの民主化組織がよびかける軍事政権打倒を叫ぶデモの出発点はたいていこの公園になる。たとえば今年の8月8日、1988年、民主化運動が最高潮に達した日を記念するデモには、平日であったにもかかわらず600人を越えるビルマ人たちがここに集まった。
この日はその8月8日をうわまわる人数のビルマ人たち、それにこれまでに例がないほど多くの日本人たちが集まり、狭い公園をうめつくしていた。いつもは日本人といえば、役目で来ている警察や公安調査庁の人たちしかいないのだが、この日はそうではなかった。シュエバの顔見知りの日本人たちも20人ぐらいはいただろうか。その人たちともあわただしく話をした。何年ぶりかで会った人もいた。話題はもちろん緊張高まるビルマ情勢、そして日本人ジャーナリストの射殺である。 シュエバを見つけて駆け寄ってきたタメイン(女性用のロンジー)姿の女性はいきなり抱きついてきた。デモではいつも出会う活動家のTさんである。「撃たれた日本人のかた、かわいそうに。ビルマ人として胸がはりさけるおもいです」と涙ながらに話してくれた。
この日のデモはいうまでもなく、8月中旬以降ビルマで連日繰り広げられている僧侶・民衆のデモに対する軍事政権実力行使に抗議の声をあげ、あわせて日本をふくめた国際社会がビルマ政府に対してさらに厳しい態度をとるよう訴える目的で行われる。主催は、この8月に母国の動きに呼応して急遽結成された在日民主化団体の共同組織、ビルマ民主化共同行動委員会(JAC)である。 3日前の9月27日、ヤンゴンの路上でデモ取材中の日本人ビデオ・ジャーナリスト長井健司さんが銃弾を浴びて死亡した。ビルマ政府は流れ弾に当たってと説明したが、誰も信用していない。現場のビデオを見れば、兵士は明らかに狙って撃っている。現地からのビデオが生々しく伝えたジャーナリストの無惨な死は日本社会に大きな衝撃をもたらした。あらためて軍事政権の容赦ない弾圧を身近に感じた日本の人たちがこのビルマ人たちの抗議デモに参加していた。
▽ピンニー・タイポン、ロンジーに誇りを持とう!
デモ行進の出発前には例によって短い集会が開かれた。国民民主連盟・解放地域(NLD.LA)日本支部、ビルマ民主化同盟(LDB)、ビルマ民主化行動グループ(BDA)、在日ビルマ少数民族協議会(AUN)、在日ビルマ市民労働組合(FWUBC)、全ビルマ学生連盟(ABFSU)などJACに結集する各団体の代表が順番に参加者の士気を鼓舞するスピーチをした。 黄色い袈裟をまとい、うちわ太鼓を手にした日本山妙法寺の日本人僧侶は南無妙法蓮華経を唱えて命の尊さを語り、僧侶、市民に対するビルマ軍事政権の暴挙は許せないと連帯の挨拶をした。シュエバは参加者にもわかってもらえるようにと、それぞれのスピーチをビルマ語から日本語に、日本語からビルマ語にと通訳をした。
ビルマ人たちは所属する組織の旗のまわりに集まり4人一列の隊列を組む。日本人の参加者たちは先頭に近い位置に誘導された。カチンやチン、カレン民族の人たちはひときわ色鮮やかな民族衣装姿である。「Free Aung San Suu Kyi!」と染め抜かれたTシャツを着ている人もいる。 NLD・LAのメンバーは本国のNLDメンバーと同じ服装に身を固めていた。NLD・LAは本国のNLDへの弾圧が強まるのをさけるために、NLDとは別団体であるとしてNLD.LAを名乗っているが、もちろん意識は本国のNLDメンバーと変わらない。 白いシャツの上に羽織っている柿色のピンニー・タイポンはかつてビルマが英領植民地であった時代、のちに独立闘争に発展する民族主義運動が勃興した1920年代から活動家に愛用された国産木綿の上着である。当時の表現を借りれば、政党の名前にもなった「ド・バマー(われらビルマ人)」のシンボルである。NLDはこれを着用することで国と民族への献身を表現している。
カチン・ロンジーもまた高級品の絹製ではなく、どこにでも売っている、誰でも着られる木綿のロンジーである。これもまたNLDが国民とともにあることを示している。雨はさほど激しくはないが小止みなく降りつづいている。傘をさす人、カッパの類やうすいレインコートを身につける人もいる。出発直前、NLD.LAのリーダーの一人がハンドマイクを手に声をはりあげた。
「みんなきいてくれ。とくにNLDのメンバーはよくきいてくれ。母国では雨のなか、ご僧侶たちは傘も裸足でデモをなさっている。われわれも傘はささず、カッパもかぶらず行進しよう。このピンニー・タイポンとカチン・ロンジーに誇りを持ってビルマ人の意気を示そうぜ!」
▽カメラの放列
雨のなかデモの隊列は行進をはじめた。シュエバは列のまんなかあたり、AUNの横断幕を手にもったチン民族の女性たちのグループと一緒に歩いた。横断幕を持っている列の端の女性に傘をさしかけながら。彼女の顔に見覚えはあるが名前は知らない。彼女の方はシュエバと何度も顔を合わせているという。話は弾んだ。勝手な話ができるのはデモの隊列が500メートルにも及んでいたので、先頭であがるシュプレヒコールの声がよくききとれず唱和できなかったせいである。それほど人が多かった。
歩いている人も多いがデモ隊について歩道を歩きながら写真やビデオの撮影をする人も数多く見受けられた。日本のメディアや外国通信社の記者の姿も普段のデモの時よりは多かったが、カメラを持って駆けまわっているのはほとんどビルマ人である。彼らは撮影するだけではない。コンビニを見つけると飲み物やビニールのレインコートを買ってきてデモ隊の人たちに渡してくれたりもした。 BCJ(ビルマ・キャンペーン・ジャパン)のKさんとAさんのコンビもいた。Kさんがビデオをまわし、Aさんはマイクを持ってデモの様子をリポートしている。いわゆる「立ちリポ」である。BCJはいまインターネットを通じて精力的にニュースを送りつづけている。いま撮影しているものも今日のうちにインターネットを通じて日本のみならず世界へ向けて発信されるはずである。
歩道に立ってなにやらメモしている顔見知りの日本人がいた。私服だがたしか警視庁外事課の警察官である。シュエバはいったん隊列を離れて駆け寄った。 「こんにちは。おつかれさまです。今日のデモの参加人員はどれくらいですか?」とたずねた。「ビルマ人が700人、日本人が70人ぐらいですね」と彼は教えてくれた。
さすが日本の警察である。することがすばやい。それにしてもビルマ人と日本人の区別をどうやってつけているのだろう?
八ツ山橋に向かう大通りをデモ隊は行進する。両側にソニーの建物があるあたりに大通りをまたぐ陸橋がある。デモ隊全体を一望にして俯瞰できる絶好の撮影ポイントである。ここもカメラの放列である。デモの様子はこうして撮影され、ビデオ映像や写真を添えてBCJのインターネットニュースのようにすぐさまそれぞれの組織から、あるいは個人から発信される。 ビルマで8月中旬にはじまった燃料代の突然の値上げに抗議する学生・市民の「歩きデモ」の様子はその日のうちに世界中へ映像・動画つきで広がった。さらに、ビルマでの動きを受けた世界各国でのビルマ人民主化勢力の行動もまた時をおかずに衛星テレビ、短波放送、インターネットを通してビルマへ伝えられる。それがビルマで行動に立ち上がった人たちを大いに励ましたことだろう。情報の伝達については1988年民主化闘争当時とは質量ともにずいぶん変わったなあ、それが国民にとって有利に働いてくれればいいのだが・・・カメラの放列を見ながらシュエバはそんなことを考えていた。
▽命の重さ
「ウー・シュエバ、BBCのインタビュー聴いたぜ。マイテー・ビャー (かっこよかったぜ!)」
デモ行進の最中にそんな言葉をかけてきたビルマ人が何人かいた。シュエバはその放送は聴いていない。しかしBBCビルマ語番組の電話インタビューに答えたことはよく覚えている。9月28日の夜だった。帰宅の途中、駅のホームで電車を待っているときに携帯が鳴った。ロンドンBBCのビルマ語番組担当者からだった。「日本人ジャーナリストが亡くなったことについてインタビューしたい」という。ホームでは駅のアナウンスが間断なく入る。シュエバはいったん改札を出て、雑音のすくない広場に立ってインタビューに答えた。
シュエバはおおむね次のように述べた。いつもよりスラスラとビルマ語が出てきた。
・・・日本人ジャーナリストの死は日本社会に大きな衝撃をもたらしました。私もメディアの仕事にかかわっています。いわば同業者として心から残念に、またくやしくおもいます。その哀悼の念はありながらも、同時に、この長井さんのように軍事政権の下でなんの罪もなく、殺された数千のビルマ人のことにもおもいを馳せざるを得ません。 日本人はいま一人の日本人の死を目の当たりにして、軍事政権の非道さ、人を人とも思わない非人間性に気がつきました。しかし、ビルマの人々は長い年月にわたって、この軍事政権の横暴に苦しんできたのです。私たちは、ビルマの国民のおもいと行動を世界に知らせようとして命を落とした長井さんの死を無駄にしないためにも、いまこそ反軍事政権の声をあげ、ビルマ国民の訴えに耳を貸し、協力して行くべきだと思います。 生命の危険を覚悟で立ち上がったビルマ国民が何を望んでいるかは明らかです。平和な、自由な、人権が尊重される、民主主義国家をつくりあげることです。日本の国民が反軍事政権の声を大きくあげる、その声をうしろに日本政府のなまぬるい対ビルマ政策をあらためるように働きかける、そうした行動を日本で活動するビルマの人たちとともにやって行きたいと考えています・・・
ちょっとえらそうにしゃべったかなとは思ったが、これはシュエバのほんとうの気持ちである。それを聴いたビルマの人たちは雨中のデモのさなかにわざわざ声をかけてくれた。大使館が見えてきた。ビルマ人の声が勢いを増す。小一時間も歩いただろうか。シュエバはすこしも疲れを感じなかった。
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