メディアは連日のように相次ぐ官民のごまかし、偽装を伝えている。「ごまかし」満載の日本列島 ― といっても決して誇張ではない、目を覆いたくなるほどの乱脈ぶりである。なぜこれほどのごまかしが広がってきたのか。 その根因を探し求めていくと、見えてくるのは、平和憲法体制を掘り崩していく日米安保体制の強化である。その矛盾を覆い隠すかのように黒を白と言いくるめてきた歴代保守政権の曲がった姿勢が浮かび上がってくる。この憲法体制と安保体制との矛盾を是正しないで官民のごまかし、隠ぺいを根絶する妙手は期待できないのではないか。
▽大手メディア社説が取り上げた官民による「ごまかし」の実例
* 東京新聞社説(10月26日付)は「福田政権1カ月 『官』の統制が課題に」と題してつぎのように指摘した。
「試練の連続。福田康夫です」 今週の福田内閣メールマガジンはこんな書き出しで始まる。 (中略)身内の組織から突きつけられた「試練」が防衛、厚生労働両省の不祥事だ。防衛省では、守屋武昌前事務次官の軍需業者との癒着疑惑や、米補給艦給油量の誤りの隠ぺいが発覚。厚労省でも薬害肝炎問題での情報放置が分かった。
*毎日新聞社説(10月24日付)は、「給油量隠ぺい 真相解明が審議の前提だ」と題して防衛省内部の相次ぐ不祥事につぎのように言及した。
一つは、油の転用疑惑(海上自衛隊提供の油がイラク戦争に転用されたのではないかという疑惑)にかかわる給油量の誤りを海上自衛隊が確認しておきながら、内部で隠ぺいしていた問題。もう一つは、守屋武昌前防衛事務次官が防衛関連の専門商社から度重なる接待を受けていた問題である。 とりわけ給油量の隠ぺいは、自衛隊運用の大原則である文民統制(シビリアンコントロール)を根幹から揺るがすものだ。また次官として4年余も省内で権勢を振るってきた守屋氏は、この問題でも責任がある。
*朝日新聞社説(10月26日付)は「食品の偽装 ごまかしはもうご免だ」と題して以下のように論じた。
発覚から4カ月、一連の食品偽装問題の始まりだった食肉加工卸会社ミートホープの社長が逮捕された。 (中略)うその表示をしてだますことが、食品業界では日常的におこなわれているのではないか。ミートホープの事件で浮かんできたのは、そんな疑問だった。 案の定、人気のチョコレート菓子「白い恋人」で賞味期限の改ざんが発覚した。老舗(しにせ)の菓子メーカー「赤福」は、製造日を偽ったばかりか、売れ残った商品まで再使用していた。 秋田県の会社は「比内地鶏」とうたいながら、別の鶏肉を使った品物を売り続けた。「名古屋コーチンの2割は偽物」という調査結果も発表された。
以上の各紙社説にみるように官民挙げてのごまかしの大量生産というほかない状況である。これに最近の事例として厚労省の大量の年金記録漏れのほか、マンションの耐震偽装、全国の遊戯施設の安全点検漏れや事故の報告漏れ ― なども加えて列挙すれば、際限がない。
朝日川柳(朝日新聞10月26日付)につぎの一句があった。 「給油偽報赤福偽装とどこ違う」 選者のコメントに「ミスにあらず、ともに悪意」とある。
ここで特に強調しておきたいのは、海上自衛隊による給油偽報も、前防衛事務次官の軍需業者との癒着疑惑も共に日米安保=軍事同盟にからむ偽報であり、ごまかしだという点である。今話題となっている軍需業者による前防衛次官への「ゴルフ接待」などは序の口にすぎない。構造的巨悪にこそ目を向けるときである。 一例を挙げれば、仮想敵を作り上げて、すでに閣議決定(03年12月)し、動き出している日米共同のミサイル防衛(MD)システムの導入・配置計画を見逃すべきではない。これは総額1兆円を超える大型兵器ビジネスであり、日米安保=軍事同盟が「政軍産官の癒着複合体」として巨大な利権構造化しつつあることを暗示している。「ゴルフ接待」を追及の切り口にするのはよいが、それに視野を限定している時ではない。
▽静岡地裁よ、お前もか ― 原発で住民の訴えを全面棄却
中部電力浜岡原子力発電(静岡県御前崎市)は将来の東海地震に耐えられないとして、周辺住民たちが原発の運転差し止めを求めた訴訟で、静岡地裁は10月26日住民側の訴えを全面的に棄却した。これを大手各紙の社説はどう論じたか。まず見出しを以下に掲げる。
*朝日新聞(10月27日付)=浜岡原発判決 これで安心できるのか *毎日新聞(同)=浜岡原発訴訟 これで「ひと安心」ではいけない *読売新聞(同)=浜岡原発訴訟 設計・運転の実態を重視した判決 *日本経済新聞(同)=差し止め棄却でも原発耐震強化怠るな *産経新聞(同)=浜岡原発訴訟 中部電力は一段と備えを *東京新聞(同)=浜岡原発 安全対策に限りはない
これらの見出しから推測できるように読売新聞だけが判決に寄り添う主張といえるが、他の各紙は疑問、注文あるいは批判的な視点を打ち出している。ここでは東京新聞社説(要旨)を以下に紹介する。
市民団体が運転差し止めを求めた裁判で、静岡地裁は住民側の請求を全面的に棄却した。だがこれは、決して安全への“お墨付き”ではない。 国内に五十五基ある原発のうち半数近くが稼働後二十五年を超えている。が、老朽化による影響のメカニズムについては、未解明の点もある。二〇〇〇年十月の鳥取県西部地震は活断層の見つかっていない地域で起きた。今年七月の新潟県中越沖地震では、設計時に想定した最大値の二・五倍もの激しい揺れに、史上初めて原発施設が直撃された。
浜岡原発は、三十年以内に九割近い確率で起きるとされる東海地震の震源域の真ん中にある。中越沖地震で黒煙を上げる柏崎刈羽原発の恐怖の記憶も新しい。 原子力という極めて危険な素材を扱う以上、事業者側には危険と背中合わせで暮らす住民の不安解消に努める義務もあるはずだ。 そのためには、情報の透明性と住民対話が欠かせない。中電が提出した耐震性計算書は、重要部分が「企業秘密」で白塗りにされており、住民の不安と疑惑をかき立てた。
原発の安全神話は崩れて久しい。科学や法律を現時点で満たしていることだけに甘んじず、住民の素朴な不安などにも配慮した不断の安全対策が、事業者側にはこれからも、これまで以上に望まれる。
東京新聞の以上のような視点に立てば、電力会社の言い分をほぼ全面的に受け容れた判決は、住民の不安や主張を無視した一種のごまかしともいえるだろう。これでは「静岡地裁よ、お前もか」ともの申したくなるではないか。
▽「ごまかし」の背景 (1)― 経済成長主義と拝金主義
さてなぜこのような偽装、ごまかしが横行しているのか。その背景は何かを問わなければならない。「相次ぐ偽装 プロのモラルから問い直せ」というタイトルの毎日新聞社説(10月20日付)に一つの手がかりを見出すことができる。同社説はつぎのように主張している。
あきれた、ではすまない。食べ物から耐震の構造計算まで相次いで表面化した「偽装」は、食や住まいの安全・安心をあざ笑うものだ。先行した問題があり、それを重い教訓として受け止めていたはずなのになぜ繰り返すのか。プロとしての責任感や誇りをどこかに置き忘れたか。 戦後、私たちの国は先人の血のにじむ努力で、ものづくりやシステムの質、安全性を高め、国際的信頼も獲得した。そのモラル。プロとしての自覚と誇り。そうした土台がどこか崩れ始めてはいないか。一連の偽装事件発覚はその警鐘とも受け止めたい。
この社説の主張は一つの見識を示すものとして評価したい。たしかに政官財の「モラル」は著しく低下し、そのことは「プロとしての自覚と誇りと責任感」の崩壊を進めてもいる。この事実は否定できない。問題はなぜそうなったのかである。「モラル」と「プロとしての自覚と誇りと責任感」を再生するには何が求められているのかである
私はその背景として、敗戦後の経済立国の基本路線として追求してきた経済成長主義、それと表裏一体の関係にある拝金主義を挙げたい。経済成長主義と拝金主義の成れの果てが昨今のごまかし、偽装の大量生産なのである。
経済成長主義は国内総生産(GDP)の量的拡大こそが豊かさを保証するものだという考え方、政策路線を指しているが、このGDPは市場でカネと交換して入手できるモノ、サービス(=市場価値・貨幣価値)のみで構成されている。 いいかえればカネで入手できない生命、地球環境、責任感、誇り、品格、思いやり、生きがい、働きがい(=非市場価値・非貨幣価値)などは視野にない。だから経済成長主義の追求は同時に拝金主義(マネーゲーム、利益第一主義など)を助長していく。「いのちよりも大事なカネ」の世界ともいえる。 上でみたごまかし、偽装の多くが利益第一主義(=必要なコストをあえて負担しない儲け主義)と深くかかわっているのはこのためである。
ごまかしや偽装を日本列島上から追放するためには、成長主義から脱・成長主義へ、また拝金主義から脱・拝金主義への転換以外に良策は期待できない。さらに生命、思いやりなど非市場価値・非貨幣価値の重要性を認識することが不可欠である。
▽「ごまかし」の背景(2)― 平和憲法と日米安保との基本矛盾
ごまかし、偽装の遠因、根因を求めて辿っていくと、その先に見えてくるのが平和憲法と日米安保とが相容れないという基本的な矛盾の存在である。
日本国憲法が平和憲法と呼ばれるのはつぎの二本柱による。 *前文でうたわれている平和共存権 「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と。 *第九条の「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」(条文は省略)
一方、現行の日米安保条約(正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」・1960年6月発効)は、つぎのように日米間の軍事同盟(第三、五、六条など)と経済同盟(第二条)という二つの同盟関係を定めている。 *第二条の「経済的協力の促進」 「(日米の)締約国は、その自由な諸制度を強化することにより、(中略)その国際経済政策におけるくい違いを除くことに努め、また、両国の間の経済的協力を促進する」と。 *第三条の「自衛力の維持発展」 「締約国は武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を(中略)維持し発展させる」と。 *第五条の「共同防衛」(条文は省略) *第六条の「基地の許与」(条文は省略)
以上の日米安保=軍事同盟体制(=自衛力という名の軍事力を強大化させ、日本列島上に広大な米軍事基地網を張りめぐらし、名目は共同防衛を掲げながら、実態は米国の先制攻撃論と覇権主義に基づく戦争基地として機能している)が平和憲法体制(=平和共存権、軍備及び交戦権の否認)に反し、根本的に矛盾していることはいうまでもないだろう。 にもかかわらず歴代保守政権は日米安保体制を強化する一方、平和憲法体制の骨抜きを図り、事実上空洞化させてきた。しかもその手法が黒を白と言いくるめる「解釈改憲」(条文を改定しないで、解釈の変更によって事実上の改憲を図る)という名のごまかしの上に成り立っている。
日本という国の成り立ちの土台が、このようなごまかし、偽装に満ちているのだから、他の政治、経済、社会の諸事象は推して知るべし、というほかない始末である。だからといってごまかしの日常化はやむを得ないというわけではない。ごまかし、偽装を根絶するためにはどうすればよいのか。
選択肢は二つ考えられる。一つは憲法体制が安保体制に合致するように改憲を果たす道であり、もう一つは安保体制を変革して憲法体制に合致させる道である。前者の道、すなわち軍事力中心主義は、米国主導の「テロとの戦争」がかつてのベトナム侵略戦争と同様に泥沼に陥っていることからも分かるようにもはや時代錯誤であり、有効性を失っているので選択の余地はない。
残る選択は日米安保体制の変革、解体以外には考えにくい。それと同時にみえてくるのが平和憲法体制の再生であり、活性化であろう。いいかえれば、平和憲法体制をわが国の成り立ちの土台に据え直すことにほかならない。そして政府自らが先頭に立って、ごまかしの手法を駆使することを潔く止めることである。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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