近隣の寿司屋さんで貰った「人の世は山坂多い旅の道」と題する一枚の文面を紹介しよう。あの世から迎えが来たら、「まだまだ早い」などと答えてみてはどうか、という含蓄に富んだ文言が並んでいる。これは長生きのすすめである。誰しも長生きは望むところだが、問題は我が人生をどう生きるかである。百歳近いご老体の「平和の道」を求める人生行脚に学びたい
▽人の世は山坂の多い旅の道 ― その年齢(とし)にお迎えが来たら
還暦(かんれき=六十 歳) とんでもないと突っ放せ 古稀(こき =七十 歳) まだまだ早いと追い返せ 喜寿(きじゅ =七十七歳) せくな老楽(おいらく)はこれからよ 傘寿(さんじゅ =八十 歳) なんのまだまだ役に立つ 米寿(べいじゅ =八十八歳) もう少しお米(こめ)を食べてから 卒寿(そつじゅ =九十 歳) 年齢(とし)に卒業はないはずよ 白寿(はくじゅ =九十九歳) 百歳のお祝いが済むまでは 茶寿(ちゃじゅ =百八 歳) まだまだお茶が飲み足らん 皇寿(こうじゅ =百十一歳) そろそろゆずろうか日本一
口に出すか出さないかはともかく、長生きは誰しも望むところであるが、こればかりは思い通りにはならない。仏教でいう四苦はご存じの「生老病死」である。この四苦の「苦」は、苦しみ、というよりも「思い通りにならないこと」、いいかえれば「自己管理下に置くことはできない」と理解すれば、分かりいい。
この世に生をうけたのも、自分の意志とは関係ない。「生まれたいと望んで生まれてきた」といえる人がいたら、お目にかかりたいものである。 老いも、いくらイヤだと思っても加齢とともに避けがたい。病気もそうである。病気になりたくないと頑張ってみても、病は向こうからやってくる。もっとも昨今、この人は病気になりたいと思って生活しているのかな、と首をかしげたくなるような暮らし方をしている人が増えているという印象はある。 まして死は、いくら巨万の富を積み上げても、また権力者として振る舞っていても、無情にもある日突然襲いかかってくる。
▽哲学者カントの平和論に学んで
死は万人にとって避けられないからこそ、少しでも寿命を延ばして生きてみたいと想うのは人情というものであろう。問題は、人生をどう生きるかである。 私(安原)が注目しているのは、日野原重明さん(聖路加国際病院理事長)の生き方である。100歳近い高齢で、なお元気であり、しかも平和を求めて尽力されていることには敬意を表したい。 日野原さんは朝日新聞(08年2月9日付)に「96歳・私の証 あるがまゝ行く 哲学者カントの平和論」というタイトルの一文を寄せている。その要旨を以下に紹介する。
ドイツの哲学者カント(1724〜1804)の論文『永遠平和のために』(綜合社)の新訳本を読んでみました。
いかなる国も、よその国の体制や政治に武力でもって干渉してはならない。内部紛争がまだ決着していないのに、よそから干渉するのは、国家の権利を侵害している―。
彼の主張は今日の米国と中東諸国の間に見られる難問を解く鍵にもなりそうな内容でした。 武器に頼らなくても話し合いによる妥協の道があるのに、人はどうして戦争を仕掛けるのか。暴力を受けた側は受けた傷の何倍もの反撃をすることで、テロや戦争は100年戦争にもなりうるのです。
私も医師として晩年を迎え、最後に進むべき道は医学を越えて平和の道の先頭を切って行動することだと思っています。団塊の層を含む高齢者が次の時代の平和を作る主力となる子どもたちに平和のエッセンスを教えるべきだということを、改めてカントに学んだ気がします。
このように日野原さんは白寿(九十九歳)に近いご老体で、「世のため、人のため」に、つまり利他主義の実践に精進を続けている。凡人にはなかなか真似のできることではないが、生き長らえることができれば、こうありたいと願わずにはいられない。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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