アメリカ主導のイラク攻撃・占領は3月20日で満5年を迎える。異常な軍事支出と戦争に明け暮れるブッシュ政権がアメリカにもたらしたものは何か。このテーマを分析した論文(注)「軍事ケインズ主義の終焉」(最新の『世界』08年4月号=岩波書店刊=掲載)は、アメリカにおける「軍事ケインズ主義」の成れの果てとして「国家破産の危機に瀕するアメリカ帝国」の実像を浮き彫りにしている。その打開策は果たしてあるのか。軍事ケインズ主義と縁を切り、路線転換を図る以外に妙策はあり得ない。目下たけなわのアメリカ大統領選予備選の真の争点はここにあるはずだが、米日のメディア報道にそういう視点はうかがえない。
(注)論文の著者、チャルマーズ・ジョンソン氏は1931年生まれの国際政治学者。カリフォルニア大学サンディエゴ校名誉教授、米国日本政策研究所長で、東アジアの専門家として知られる。米国のイラク攻撃後に書かれた論文集『帝国アメリカと日本 武力依存の構造』(集英社新書、04年7月刊)がある。
▽「軍事ケインズ主義」の正体
まずアメリカの「軍事ケインズ主義」とは何を意味しているのか。論文から要点を拾い出してみよう。
*巨大な常備軍保有が公共政策の要 戦争を頻繁に行うことを公共政策の要とし、武器や軍需品に巨額の支出を行い、巨大な常備軍をもつことによって、豊かな資本主義経済を永久に持続させられるという主張 *巨額の軍事支出が経済を支える 国内の製造基盤が止めどなく衰退し、海外に仕事を次々と奪われていっても、巨額の軍事費を支出していれば十分に経済を支えられると信じる思想 *民主政治に組み込まれた戦争経済 過剰な軍事支出を続ける仕組みがアメリカの民主政治体制に深く組み込まれており、戦争経済を永遠に続け、軍事にカネを使っていれば経済を潤すと信じるイデオロギー *軍産複合体と議員たちの利益 軍事予算と軍需産業の肥大化は、軍産複合体(巨大な軍隊と大規模な軍需産業の結合)と上下両院議員の利益に直結している。議員は選挙区に、軍事関係の企業や事業を誘致して、雇用機会を増やし助成金を得ることで計り知れない利益を得る。軍事ケインズ主義を支えているのは、これら軍産複合体や議員たちである。
〈安原のコメント〉思い込みに囚われた「誤った信仰」 以上から分かるように軍事ケインズ主義とは、要するに財政支出が経済成長の牽引力になるというケインズ(イギリスの経済学者)主義の軍事面への応用であり、その正体は軍事支出が資本主義の永続性を保証するという思い込みに囚われたイデオロギーである。論文によれば、もちろん「誤った信仰」にすぎない。この軍事ケインズ主義は現在のアメリカを崩壊と破綻に追い込んでいる。 論文はつぎのように述べている。
無謀な軍事政策を続けるブッシュ政権の面々は(中略)、みんな「だれよりも頭がいい」つもりでいた。しかしホワイトハウスとペンタゴン(国防総省)にいるネオコン(新保守主義者)たちは、驕りが高じて大失敗をしでかした。帝国主義による戦争で世界支配をもくろんだはいいが、その策謀を支える財政問題をどうすることもできない―と。
▽膨れ上がる軍事支出と国家債務の急増
軍事ケインズ主義に伴う弊害の顕著な具体例は、異常な軍事支出の浪費ぶりと借金による国家債務の急増である。 まず世界の軍事大国トップ10と現行軍事予算の推定総額(論文から引用)はつぎの通り。
1 米国= 6230億ドル(08年度予算) 2 中国= 650億ドル(04年度) 3 ロシア= 500億ドル 4 フランス= 450億ドル(05年度) 5 日本= 417億5000万ドル(07年度) 6 ドイツ= 351億ドル(03年度) 7 イタリア= 282億ドル(03年度) 8 韓国= 211億ドル(03年度) 9 インド= 190億ドル(05年度推定) 10 サウジアラビア= 180億ドル(05年度推定)
全世界の軍事支出合計=1兆1000億ドル(04年推定) アメリカを除く全世界合計= 5000億ドル
ペンタゴンが公表する国防費についてはつぎのような米国専門家の指摘がある。 「信頼できる経験則がある。ペンタゴンが発表する基本予算の総額を見て、その2倍が本当の予算と考えれば、間違いない」と。これはペンタゴン以外の航空宇宙局(NASA)、エネルギー省、国務省、国土安全保障省などに「隠し軍事費」が計上されているためとされる。そうだとすると上記の08年度米国国防費6230億ドルは、実際は1兆ドル超(100兆円超)とみるのが正しい。 ただ公表された米国国防費6230億ドルだけに限っても、米国以外の全世界軍事費総額5000億ドルを上回っている事実に注目したい。
その結果が国家債務の急増であり、事実上の財政破綻である。論文はこう指摘している。
2007年11月、米財務省は、国家債務が史上初めて9兆ドル(900兆円超)の大台に乗ったと発表した。合衆国憲法が正式に発効した1789年から1981年まで国家債務が1兆ドルを超えることはなかった。ブッシュ大統領の就任時(2001年1月)の負債額は5兆7000億ドルで、その後国家債務は45%も増加した。その最大の理由は世界の軍事費の中で異常に突出した米国軍事支出である ― と。
▽進むアメリカ経済の悪化、空洞化
米国の異常な軍事費の突出が招いたものは、財政破綻だけではない。さまざまな経済の悪化や空洞化を進めた。ここでも論文からその要点を紹介しよう。
*巨大化した「機会損失」 軍国主義にすべてを賭け、社会的インフラ(注)など国家の長期的な繁栄に欠かせない投資をないがしろにしている。これを経済用語で「機会損失」といい、別のことにカネを使ったために失われたものを意味する。 具体的には公教育システムの荒廃、国民皆保険にほど遠い健康保険の不備、世界最大の環境汚染国として果たすべき責任の放棄、民間のニーズに応える製造業競争力の喪失 ― など。 (注)インフラはインフラストラクチャー(infrastructure)の略。道路、鉄道、通信情報施設、下水道、学校、病院、公園など社会的経済・生産基盤となるものの総称。
*経常収支は世界一の大赤字 国際収支の中の経常収支(「対外貿易黒字または赤字」プラス「国境を越えて移動する利子、特許料、印税、配当金、株式売買益、対外援助などの収支」)は06年に8115億ドルの赤字で世界中で163番目の最下位。162位のスペインが1064億ドルの赤字で、米国の赤字はその8倍近い異常な水準である。
*無駄な核兵器の開発・実験・製造 1940年代から96年まで核兵器の開発・実験・製造に5兆8000億ドル(約600兆円)以上を費やした。備蓄がピークに達した1967年には3万2500発もの原水爆を保有していた。2006年になっても9960発を保有している。正気を失わないかぎり、いかなる使い道もない代物である。
*製造基盤の消滅 1987年までの40年間に7兆6200億ドル(約800兆円)が資本資源として軍備に支出された。一方、1985年の工場設備やインフラの総価値は7兆2900億ドルである。つまり軍備に回された資本資源を軍備以外の分野に使っていれば、アメリカの資本ストックは2倍に増えていたことになる。あるいは既存の設備を一新して近代化することもできた。 しかしそれを怠ったため、21世紀に入って、アメリカの製造基盤はほぼ消滅してしまった。特に工作機械の分野で、投資を怠った弊害が顕著に表れた。
〈安原のコメント〉軍事ケインズ主義は「死に至る病」 論文は「軍事ケインズ主義を信奉することは、経済にとって、ゆっくりと死に至る自殺行為に他ならない」と指摘している。的確な診断というべきである。経済の軍事化は経済発展につながるのではなく、逆に経済の弱体化をもたらすことは、いまさら持ち出すまでもない常識である。 とはいえここでは軍事支出の増加が経済に及ぼす長期的な影響に関する経済学者の研究(在ワシントンの経済政策研究センターが07年5月発表)を紹介する。その結論はつぎの通りである。
戦争が起こり軍事支出が増えれば、経済が活性化すると一般に考えられている。しかし実際にはほとんどの経済モデルが示すように、軍事支出が増加すると、消費や投資などの生産的な目的に使われるべきリソース(資源)が軍事産業に流れ、結局は経済成長が鈍り雇用が減る ― と。
しかも重要なことは論文「軍事ケインズ主義の終焉」が指摘するように「これは軍事ケインズ主義の悪しき影響の一端にすぎない」のである。悪影響はもっと多面的に噴出している。
▽「唯一の超大国」の終わり
論文の結論はつぎの通りである。 アメリカが「唯一の超大国」でいられる束の間の時代は終わった ― と。
その補足意見としてハーバード大学経済学部教授の以下のような見解を紹介している。
いつの時代でも、政治・外交・文化の諸分野で絶大な影響力を持つ国家は、例外なく世界最大の債権国だった。アメリカが英国から盟主としての役割を引き継いだ時期は、英国に代わって最大の債権国となった時期と一致している。これは偶然の出来事ではない。もうアメリカは世界第一の債権国でないばかりか、実状は最大の債務国である。世界への影響力を保つためには、強大な軍事力を盾とするしかない ― と。
アメリカ再生への出口はないのか。「もし何も対策を取らないなら、おそらく国家は破産し、長い恐慌の時代を迎えることになる」―つまりアメリカ帝国は国家破産の危機に瀕している、というのが論文のもう一つの結論である。 では取るべき対策は残されているのか。 緊急に実行すべき対策として論文は次の諸点を挙げている。 *ブッシュ政権が実施した高額所得者に対する減税策を廃止すること *アメリカ帝国が世界各地に築いた800を超える軍事基地を撤去する事業に着手すること *国防費をケインズ主義のプログラムに使うことを止めること
〈安原のコメント〉ブッシュ政権をニクソン大統領と比べると 「唯一の超大国」アメリカにとって「強大な軍事力を盾とするしかない」とは悲劇そのものではないか。軍事力という国家暴力にすがるしか残された道がないとすれば、そういう国家が世界の尊敬を集めることはできない。事実、ブッシュ政権は世界の中で孤立を深めつつある。その打開策は軍事ケインズ主義から一日も早く縁を切り、脱出することである。
それにしてもここで想い起こすほかないのは、ニクソン米大統領の洞察に満ちた演説である。30数年も以前のこと、当時のニクソン大統領が1971年7月6日新聞・テレビ首脳者を前につぎのような演説を行った。
「私はギリシャとローマでなにが起こったのかと思う、(中略)そこに起こったものは、過去の偉大な文化 ― 富裕への過程、生き、よりよくなろうとする意欲を失う過程である。彼らはデカダンスの虜(とりこ)となって、とどのつまりは文明を滅ぼした。アメリカはいま、その時期に達しつつある」と。 古代ギリシャ、ローマが滅びたように現代アメリカも同じような過程に入りつつあるという認識を示したのである。
この演説から1週間ほど後の7月15日、ニクソン訪中(翌年2月)プランを世界に向けて発表、突然の米中の握手に世界は驚き慌てた。さらに1か月後の8月15日には金・ドル交換の停止など未曾有のドル防衛策を発表、ドル・ショックという激震が世界経済を襲った。しかもベトナム戦争(1975年春終結)では、米国の敗色はすでに濃厚であった。 当時すでにアメリカは超大国の地位から滑り落ちつつあり、従来の政策路線の大転換を迫られていた。ニクソン大統領はそれを察知した上で打開策を講じたが、これに比べると、現下のブッシュ政権はいたずらに戦争と軍事力に執着し、打開能力を失っている。
最近のドル安の進行がそれを端的に物語っている。米ドルは魅力を失い、世界中で売られ、価値が大幅に下がりつつある。これはアメリカそのものの価値が急速に下落しつつあることの証明に他ならない。
〈参考〉「日米安保体制は時代遅れだ アメリカからの内部告発」(ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に07年5月18日付で掲載)は、今回の『世界』掲載論文の著者、チャルマーズ・ジョンソン著『帝国アメリカと日本 武力依存の構造』を紹介したものである。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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