2008年5月3日は憲法施行以来61年目の憲法記念日である。大手6紙の憲法社説を読んだ。昨年は9条(軍備と交戦権の否認)改憲派の安倍首相時代であり、9条がらみの社説が多かったが、今年は一転して9条を正面から論じる社説は少ない。むしろ平和的生存権(前文)、25条(生存権)に言及する主張が目立つ。 折しも5月4日からノーベル平和賞受賞者らも海外から参加して市民レベルの「9条世界会議」が日本で開かれる。9条を軸にして25条、平和的生存権も論議の対象になるだろう。この機会に9条の存在価値を改めて評価すると同時に25条、平和的生存権を表裏一体の関係として捉え、どう生かすかを考え、深める時ではないか。
まず大手各紙の社説(5月3日付)の見出しと内容(要旨)をそれぞれ紹介しよう。
▽東京新聞=憲法記念日に考える 「なぜ?」を大切に(主見出し)
忘れられた公平、平等(小見出し) 全国各地から生活に困っていても保護を受けられない、保護辞退を強要された、などの知らせが後を絶たない。憲法25条には「すべて国民は、健康で文化的な生活を営む権利を有する」とあるのにどうしたことか。 最大の要因は弱者に対する視線の変化だ。 行き過ぎた市場主義、能力主義が「富める者はますます富み、貧しい者はなかなか浮かび上がれない」社会を到来させた。小泉政権以来の諸改革がそれを助長し、「公平」「平等」「相互扶助」という憲法の精神を忘れさせ、25条は規範としての意味が薄れた。 年収二百万円に満たず、ワーキングプアと称される労働者は一千万人を超える。
黙殺された違憲判決(小見出し) 憲法には25条のほかに「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」(27条)という規定もある。
「戦力は持たない」(9条第2項)はずの国で、ミサイルを装備した巨船に漁船が衝突されて沈没した。「戦争はしない」(同条第1項)はずだった国の航空機がイラクに行き、武装した多国籍兵などを空輸している。 市民の異議申し立てに対して、名古屋高裁は先月17日の判決で「自衛隊のイラクでの活動は憲法違反」と断言した。「国民には平和に生きる権利がある」との判断も示した。
国民に砦を守る責任(小見出し) 憲法を尊重し擁護するのは公務員の義務(99条)で、国民には「自由と権利を不断の努力で保持する」責任(12条)、いわば砦(とりで)を守る責任がある。 その責任を果たすために、一人ひとりが憲法と現実との関係に厳しく目を光らせ、「なぜ?」と問い続けたい。
〈安原のコメント〉 一番明快ですっきりした社説という印象である。 日本国憲法の重要な条項を以下のように網羅的に取り上げて、その理念と現実との間の大きな隔たりに「なぜ?」と問い続けたい、と主張している。中学、高校の憲法学習に最適の教科書としても活用できるだろう。
*「国民には平和に生きる権利がある」(前文) *「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」(9条) *「国民の自由と権利の保持義務」(12条) *「生存権、国の生存権保障義務」(25条) *「労働の権利・義務」(27条) *「憲法尊重擁護義務」(99条) 上記の要旨では紹介しなかったが、社説で言及している条項としてつぎの三つがある。 *「主権在民」(前文) *「公務員は全体の奉仕者」(15条) *「表現の自由」(21条)
▽朝日新聞=日本国憲法―現実を変える手段として(主見出し)
豊かさの中の新貧困(小見出し) 9条をめぐってかまびすしい議論が交わされる陰で、実は憲法をめぐってもっと深刻な事態が進行していたことは見過ごされがちだった。 従来の憲法論議が想像もしなかった新しい現実が、挑戦状を突きつけているのだ。たとえば「ワーキングプア(働く貧困層)」という言葉に象徴される、新しい貧困の問題。
東京でこの春、「反貧困フェスタ」という催しがあり、そこで貧困の実態を伝えるミュージカルが上演された。狭苦しいインターネットカフェの場面から物語は始まる。(中略) 最後に出演者たちが朗唱する。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。生存権をうたった憲法25条の条文だ。 憲法と現実との間にできてしまった深い溝を、彼らは体で感じているように見えた。
「自由」は実現したか(小見出し) 民主主義の社会では、だれもが自分の思うことを言えなければならない。憲法はその自由を保障している。軍国主義の過去を持つ国として、ここはゆるがせにできないと、だれもが思っていることだろう。だが、この袋にも実は穴が開いているのではないか。そう感じさせる事件が続く。
名門ホテルが右翼団体からの妨害を恐れ、教職員組合への会場貸し出しをキャンセルした。それを違法とする裁判所の命令にも従わない。 中国人監督によるドキュメンタリー映画「靖国」は、政府が関与する団体が助成金を出したのを疑問視する国会議員の動きなどもあって、上映を取りやめる映画館が相次いだ。
憲法は国民の権利を定めた基本法だ。その重みをいま一度かみしめたい。人々の暮らしをどう守るのか。みなが縮こまらない社会にするにはどうしたらいいか。現実と憲法の溝の深さにたじろいではいけない。 憲法は現実を改革し、すみよい社会をつくる手段なのだ。
〈安原のコメント〉 結びの「憲法は現実を改革し、すみよい社会をつくる手段なのだ」に異論はない。その通りである。そういう文脈で「生存権」(25条)さらに「表現の自由」(21条)の重要性を力説している。これも同感である。
しかし気になるのは、冒頭の「9条をめぐってかまびすしい議論が交わされる陰で、憲法をめぐってもっと深刻な事態が進行していたことは見過ごされがちだった」という分析である。誰が見過ごしたのか。一般国民か、それとも朝日新聞か。そこをはっきりさせなければ、新聞の責任という問題が雲散霧消する。
小泉政権で顕著になったいわゆる構造改革、すなわち市場原理主義(=新自由主義)が自由化、民営化をテコに弱肉強食、効率一辺倒、大企業利益を優先させる路線であることは、当初から分かっていた。多くのメディアはこういう視点を見逃していた。
▽毎日新聞=憲法記念日 「ことなかれ」に決別を 生存権の侵害が進んでいる(主見出し)
憲法の保障する集会の自由、表現の自由が脅かされている。「面倒は避けたい」と思うのは人情だ。しかし、このとめどもない「ことなかれ」の連鎖はいったいどうしたことか。意識して抵抗しないと基本的人権は守れない。 NHKが5年ごとに「憲法上の権利だと思うもの」を調査している。驚いたことに「思っていることを世間に発表する」こと(表現の自由)を権利と認識するひとの割合が調査ごとに下がっている。73年は49%だったのが、03年は36%まで落ち込んだ。表現の自由に対する感度が鈍っているのが心配だ。
イラクでの航空自衛隊の活動に対する名古屋高裁の違憲判決(中略)は「バグダッドは戦闘地域」と認定し、空輸の法的根拠を否定した。対米協力を優先させ、憲法の制約をかいくぐり、曲芸のような論理で海外派遣を強行するやり方は限界に達している。そのことを明快に示す判決だった。
この判決の意義はそれにとどまらない。憲法の前文は「平和のうちに生存する権利」をうたっているが、それは単なる理念の表明ではない。侵害された場合は裁判所に救済を求める根拠になる法的な権利である。そのような憲法判断を司法として初めて示したのである。 ダイナミックにとらえ直された「生存権」。その視点から現状を見れば、違憲状態が疑われることばかりではないか。
4月から始まった「後期高齢者医療制度」は高齢の年金生活者に不評の極みである。無神経な「後期高齢者」という名称。保険料を年金から一方的に天引きされ、従来の保険料より高い人も多い。「平和のうちに生存する権利」の侵害と感じる人が少なくあるまい。
憲法で保障された国民の権利は、沈黙では守れない。暮らしの劣化は生存権の侵害が進んでいるということだ。憲法記念日に当たって、読者とともに政治に行動を迫っていく決意を新たにしたい。
〈安原のコメント〉 名古屋高裁の違憲判決に立って、「ダイナミックにとらえ直された「生存権」。その視点から現状を見れば、違憲状態が疑われることばかりではないか」という分析、認識には賛成である。ここには「平和のうちに生存する権利」(前文)と生存権(25条)とを連結させて捉えようとする視点がうかがえる。これには大賛成である。
結びに「憲法記念日に当たって、読者とともに政治に行動を迫っていく決意を新たにしたい」とある。その言やよし、である。 それなら一つ問いたい。社説が高く評価するところの平和生存権と日米安保体制(今や「世界の中の安保」へと変質している)は両立するのか、どうか ― と。この一点を回避するようでは、遠からずメディアとしての責任を問われるときが来るだろうと考えるが、いかがだろうか。
▽読売新聞=憲法記念日 論議を休止してはならない(主見出し)
この国はこれで大丈夫なのか ― 日本政治が混迷し機能不全に陥っている今こそ、活発な憲法論議を通じ、国家の骨組みを再点検したい。 昨年5月、憲法改正手続きを定めた国民投票法が成立し、新しい憲法制定への基盤が整った。
ところが、同法に基づいて衆参両院に設置された憲法審査会は、衆参ねじれ国会の下、民主党の消極的姿勢もあって、まったく動いていない。 超党派の「新憲法制定議員同盟」(会長・中曽根元首相)が1日主催した大会に、顧問の鳩山民主党幹事長らが欠席したのも、対決型国会の余波だろう。 大会では、憲法改正発議に向けて憲法問題を議論する憲法審査会を、一日も早く始動させるよう求める決議を採択した。これ以上、遅延させては、国会議員としての職務放棄に等しい。
与野党は、審査会の運営方法などを定める規程の策定を急ぎ、審議を早期に開始すべきだ。憲法審査会で論じ合わねばならぬテーマは、山ほどある。二院制のあり方も、その一つだ。
〈安原のコメント〉 「論議を休止してはならない」という見出しからして、すでに曖昧である。言論界の改憲派、特に9条の改定に積極的な姿勢だった読売新聞にしては腰の引けた社説と読んだ。社説全文を一読したが、9条には一切言及していない。 読売の4月初めの世論調査によると、憲法改正反対派が賛成派を15年ぶりに上回り、逆転した。その理由は「世界に誇る平和憲法だから」が53%で、最も多かった。 さらに朝日新聞の全国世論調査(5月3日付)によると、9条改正反対が66%、賛成が23%で、その差は拡大している。さすがの読売も世論を無視してまで、自説を貫く気骨はなかったということなのか。
真意はそうではないだろう。上記の社説で「新しい憲法制定への基盤が整った」、「遅延させては、国会議員としての職務放棄に等しい」などと論じているところをみると、執念は捨ててはいない。
さて日経と産経は、以下の見出しから分かるように9条、25条さらに平和的生存権と密接につながる主張ではないので、要旨紹介もコメントも割愛する。 *日本経済新聞=憲法改正で二院制を抜本的に見直そう *産経新聞=憲法施行61年 不法な暴力座視するな 海賊抑止の国際連帯参加を
▽武力で平和はつくれない―9条の実現こそ平和への道
5月3日付の読売新聞と東京新聞に「市民意見広告運動」(事務局のTEL/FAX:03−3423−0266、03−3423−0185)による一頁全面広告が載った。上段の大見出しが「武力で平和はつくれない」であり、一方、下段の大見出しが「9条の実現こそ平和への道です」である。この意見広告は賛同者の賛同金によって実現したもので、賛同者総数は8535件(08年4月12日現在)である。広告資金となる賛同金には限りもあり、広告掲載メディアとして、改憲派で全国最大の発行部数を誇る読売と、一方、護憲派の代表的存在である東京新聞を選択したのではないかと推測する。
「9条世界会議」(スローガンは「世界は、9条をえらび始めた」、主催は「9条世界会議」実行委員会=TEL:03−3363−7967)が5月4、5日幕張メッセ(千葉県)、5日広島、6日大阪・仙台でそれぞれ開かれる。意見広告は、この「9条世界会議」に賛同する立場をとっている。
この世界会議にはノーベル平和賞受賞者3人がかかわっている。 その1人は北アイルランドのマイレッド・マグワイアさん(1976年受賞)。「紛争は暴力ではなく、対話によって解決する。日本の9条はそのような世界のモデルになる」が持論で、初日の5月4日基調講演を行う。 つぎはケニアの環境運動家で、日本語の「もったいない」を世界中で提唱しているワンガリ・マータイさん(04年受賞)。「戦争のない世界へ。すべての国が憲法9条を持つ世界へ」というメッセージを会議に寄せている。 3人目はアメリカの地雷禁止国際キャンペーンのジョディ・ウイリアムズさん(05年受賞)。「地球市民の一人として、9条を支持する。9条を日本から取り除くのではなく、世界へ広げるキャンペーンをしていこう」というメッセージを会議に届けている。
意見広告の内容(要点)を以下に紹介する。
日本はギョーザ(食糧)からガソリン(エネルギー)まで輸入に頼っている国です。足りなくなったら戦争で奪ってきますか? そのためにあなたは戦争に行きますか?
こういう文章で始まる意見広告はつぎのような柱を立てて、一つ一つ説明している。 *日本は戦争しないと決めた国です *イラク・インド洋での戦争加担は9条違反です *自衛隊を海外に派遣する「恒久法」に反対します *貧困社会と戦争国家は表裏一体です *「平和を愛する諸国民」は戦争を望みません *あなたの平和への意思が問われます
末尾の「平和への意思」はつぎのような文である。 憲法を変えるための「国民投票法」が2010年5月に施行されます。(中略)平和憲法を変えさせない力は私たちにあります。一人ひとりがあらゆる機会を活かし、主権者として9条改憲反対の意思を示しましょう。
▽9条と25条と平和的生存権とを結びつけ、生かす視点を
平和憲法の中でも、今日特に重要な条文は9条、25条、さらに前文の「平和的生存権」である。しかもこの3つは相互に連関し合っており、それをどう生かすかという視点を打ち出すことが重要である。
まず9条と25条はどのようにつながっているのか。上記の意見広告の「貧困社会は戦争国家と表裏一体」という柱に注目したい。なぜ表裏一体なのか。 つぎのように述べている。 「福祉予算が削られ、最低限度の生活を保障する憲法25条は実現されていない。社会的弱者や高齢者をいためつける政治がまかり通り、貧困という言葉が日常的になっている。このうえ9条を変えて自衛軍をつくり、軍事予算を増やすことなど、とうてい認めることはできない」と。
つまり限られた財政資金の配分として「戦争国家として軍事費を優先」すれば、福祉予算は削減され、25条は空洞化し、貧困社会へ転落していく。逆に9条を生かすことによって軍事費を大幅削減ないしは全廃することによってのみ、25条の生存権は保障できることを意味している。 この実例は、軍隊を廃止した中米のコスタリカである。浮いた軍事費を教育、社会保障、自然環境保全に回すことによって人づくり重視、国民生活尊重の国づくりをすすめている。
憲法前文の平和的生存権とはどう結びつくのか。前文はつぎのように述べている。 「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と。 「恐怖」とは国家権力による戦争をはじめ、多様な恐怖を指している。一方、「欠乏」とは分かりやすくいえば、貧困にほかならない。さらに人間の尊厳の否定でもある。そういう意味の恐怖と欠乏から免れることが、すなわち平和にほかならない。注意すべきは平和とは単に戦争がない状態のみを指しているのではない。恐怖と欠乏を含む多様な暴力を否定するところから平和は始まる。
名古屋高裁のイラク派兵違憲判決は「前文の平和的生存権はあらゆる人権の基底的権利」と認めた。これは抽象的な権利ではなく、訴えを起こす根拠になる具体的な権利として認めたことを意味する。この違憲判決を尊重する視点に立てば、平和的生存権は9条、25条と連結し、相互に補完し合う関係といえる。逆にいえば、平和的生存権、9条、25条それぞれを切り離して実現させることは難しいことを意味している。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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