一国の経済規模を示す国内総生産(GDP)でみると、アメリカが世界第1位、日本が第2位の経済大国である。日米両国はつい最近まで誇り高い経済大国であったはずだが、今や貧困大国という汚名を着せられる始末となっている。大国でありながら舞台が暗転した背景はなにか。「市場にまかせれば万事うまく事は運ぶ」という触れ込みで強行されたあの市場原理主義こそがその元凶というべきである。 最近出版された著作 ― 湯浅 誠著『反貧困』(岩波新書、08年5月刊)、堤 未果著『ルポ 貧困大国アメリカ』(同、同年1月刊)― を手がかりに貧困大国・日米の実像に迫り、その対抗策を考える。
▽「自分自身からの排除」と貧困 ― 「すべり台社会」の実相
『反貧困』の副題は、「すべり台社会」からの脱出― となっている。「すべり台社会」とはどういう社会なのか。こう書いている。 一度転んだらどん底まですべり落ちていってしまう「すべり台社会」の中で、「このままいったら日本はどうなってしまうのか」という不安が社会全体に充満している―と。 このような貧困状態に落ち込む背景としてつぎの「五重の排除」を挙げている。特に「自分自身からの排除」が新しい今日的な貧困を意味している。
1.教育課程からの排除 背景にはすでに親世代の貧困がある。 2.企業福祉からの排除 非正規雇用が典型。低賃金の不安定雇用にとどまらず、雇用保険・社会保険にもは入れず、かつての正社員が享受できた福利厚生(廉価な社員寮・住宅ローン等)からも排除される。さらに労働組合にも入れない、その総体。 3.家族福祉からの排除 親や子どもに頼れないこと。 4.公的福祉からの排除 若い人たちには「まだ働ける」、年老いた人々には「子どもに養ってもらえ」―などとその人が本当に生きていけるかどうかに関係なく、追い返す技法ばかりが洗練されてしまっている生活保護行政。
5.自分自身からの排除 何のための生き抜くのか、何のために働くのか、そうした「あたりまえ」のことが見えなくなってしまう状態を指す。1.から4.の排除を受け、しかもそれが自己責任論によって「あなたのせい」と片づけられ、さらに本人自身が「自分のせい」と捉える場合、人は自分の尊厳を守れずに、自分を大切に思えない状態に追い込まれる。 ある相談者が言っていた。「死ねないから生きているにすぎない」と。生きることと希望・願望は本来両立すべきなのに、両者が対立し、希望・願望を破棄することでようやく生きることが可能となる状態―これを「自分自身からの排除」と名づけた。
著者の湯浅氏(NPO法人自立生活サポートセンター・もやい事務局長/反貧困ネットワーク事務局長)は5月22日、東京都内・日本記者クラブで開かれた企画テーマ〈著者と語る『反貧困』〉でつぎのように強調した。
あれだけ本人も頑張っているから、助けよう、というのが普通の感覚だが、現実は違う。頑張れ、と言われても頑張りようがないところに追い込まれている人が多い。例えば34歳の男性は「自分はこのままでいいんスよ」と言い張る。なかなか共感を得にくい人たちでもある。しかし重要なことは頑張れという前に頑張れるための条件づくりが先決だ。それが社会と国家の責任だと思う ― と。
〈安原のコメント〉ユニークな切り口 「自分自身からの排除」というユニークな切り口が『反貧困』の特徴の一つといえる。しかもつぎのように指摘している。 「セーフティネットの欠如を上から俯瞰する視点から、排除され落下していく当事者の視点へと切り替えるとき、もっとも顕著にみえてくる違いが、自分自身からの排除という問題である。貧困問題を理解する上で、一番厄介で、重要なポイント」と。その通りであろう。 「すべり台社会」という表現と並んで、こういう視点を重視できるのはホームレスなど貧困の現場に密着して活動している著者ならではの眼力であろう。ただ「自己疎外」、「人間疎外」という視点でもよいように思うが、やはり「排除」という視点を重視したためか。
▽「生活困窮者は、はよ死ねってことか」― 貧困対策に「強い社会」を
衝撃的事件として知られるのが、北九州市小倉北区で07年7月死後1カ月のミイラ化した遺体で発見された52歳の男性の死亡である。肝硬変を患って働けなくなり、生活保護を受給していたが、福祉事務所からの厳しい就労指導の末、保護を辞退する届けを提出し、生活保護は廃止になっていた。
日記につぎのような趣旨の文が書き残されていた。 「せっかく頑張ろうと思った矢先切りやがった。生活困窮者は、はよ死ねってことか」 「小倉北の職員、これで満足か。人を信じることを知っているのか。市民のために仕事をせんか。法律はかざりか」 「オニギリ食いたーい」―これが日記に残した最後の叫びとなった。
このように貧困、生活苦に追い詰められて命を絶つケースは数限りない。日本全体で07年はじめまでに9年連続で年間3万人超の自殺者が出ている。生活苦を理由とする自殺は全体の約3割と推計されている。
貧困社会から脱出するにはどうしたらよいのか。『反貧困』はつぎのように述べている。 貧困があってはならないのは、それが社会自身の弱体化の証だからにほかならない。貧困が大量に生み出される社会は弱い。どれだけ大規模な軍事力を持っていようとも、どれだけ高いGDP(国内総生産)を誇っていようとも、決定的に弱い。そのような社会では、人間が人間らしく再生産されて行かないからである。誰も、弱い者イジメをする子どもを「強い子」とは思わないだろう。 人間を再生産できない社会に「持続可能性」はない。私たちは、誰に対しても人間らしい労働と生活を保障できる「強い社会」を目指すべきである ― と。
〈安原のコメント〉「強い社会」? 貧困対策として「強い社会」を目指すべきだとしている。ここでも用語の問題だが、なぜ「豊かな社会」あるいは「持続的な社会」では貧困対策として有効ではないのだろうか。貧困が存在する限り、大規模な軍事力も巨大なGDPも余り意味をなさない、という趣旨の認識には賛成である。共感を覚える。 しかし強弱の視点を前面に出されると、つい市場メカニズムと自由競争を無条件に賛美する市場原理主義が招く弱肉強食、つまり勝ち組、負け組のイメージを連想しがちである。著者は「効率が悪く、船足が遅いものは切り捨てる。そうでないと全体が生き残れないとされ、その考え方は教育にも適用された。それは人の生も市場原理(効率)で計られるようになったことを意味する」と指摘しているから、市場原理主義を肯定してはいないはずである。なぜ「強い社会」という表現にこだわるのか、いささかの疑問が残る。
▽貧困大国アメリカにみる「市場原理主義」
『ルポ 貧困大国アメリカ』はつぎの5章からなっている。 第1章 貧困が生み出す肥満国民 第2章 民営化による国内難民と自由化による経済難民 第3章 一度の病気で貧困層に転落する人々 第4章 出口をふさがれる若者たち 第5章 世界中のワーキングプアが支える「民営化された戦争」
各章の見出しを概観しただけで、著作『反貧困』と重なり合う問題意識をみてとることができるのではないか。貧困大国アメリカをもたらした元凶がほかならぬ市場原理主義であり、本書はそういう視点で一貫している。「過激な市場原理」、「暴走型市場原理システム」など表現はさまざまだが、貧困者たちを拡大再生産し、その貧困者をないがしろにするシステムである点では共通している。 以下では市場原理主義がどういう文脈で取り上げられているかに絞って紹介する。
*貧困層をターゲットにするビジネス 「サブプライムローン問題」(社会的信用度の低い層向けの高金利住宅ローンの破綻)は単なる金融の話ではなく、過激な市場原理が経済的「弱者」を食い物にした「貧困ビジネス」の一つだ。この言葉は生活困窮者支援のNPO法人「もやい」の事務局長・湯浅誠氏が生みだしたもので、貧困層をターゲットに市場を拡大するビジネスを指す。
*弱者が食い物にされ、使い捨てられていく 浮かび上がってくるのは、国境、人種、宗教、性別、年齢などあらゆるカテゴリーを超えて世界を二極化している格差構造と、それをむしろ糧として回り続けるマーケットの存在であり、いつのまにか一方的に呑み込まれていきかねないほどの恐ろしい暴走型市場原理システムだ。そこでは「弱者」が食い物にされ、人間らしく生きるための生存権を奪われた挙げ句、使い捨てにされていく。
*サービスの質が目に見えて低下 「政府の仕事は、国民にサービスを提供することではなく、効率よく金が回るようなシステムを作り上げることだ」(ブッシュ米政権の第一予算局長の発言)
「市場原理」が競争により質を上げる合理的システムだと言われる一方で、「いのち」を扱う医療現場に導入することは逆の結果を生むのだと、アメリカ国内の多くの医者たちは現場から警告し続けてきた。競争市場に放り込まれた病院はそれまでの非営利から株式会社型の運営に切り替えざるを得ず、その結果サービスの質が目に見えて低下するからだ。
*いのちの現場に格差や競争を導入すると・・・ 競争のための効率主義が、大金持ちのいる先進国(米国)でありながら、医療サービス・レベルが世界ランキング中37番目、乳幼児死亡率が43番目というお粗末な結果を生み出す。年々増加する医療過誤の原因は、市場原理を医療現場に放り込んだ結果だ。 いのちの現場に格差や競争を導入することを許してはいけないと、アメリカ国内で声を上げはじめた医師の数は決して少なくない。
〈安原のコメント〉進む「いのちの商品化」 カール・マルクス(1818〜1883年、ドイツ生まれの革命的思想家)はその主著『資本論』で19世紀の資本主義分析に取り組み、「労働力の商品化」の構造を解明し、資本主義はその搾取の上に成り立っていることを明らかにした。しかし今日の資本主義的市場原理主義は「いのちの商品化」を進めつつある。つまりいのちそのものを食い物にして利益を稼ぐビジネスの拡大である。 顕著な具体例がアメリカにおける医療現場での市場原理主義の拡大で、「ノー」の声を医師たちが上げはじめているのは、その危機的状況を察知してのことだろう。後期高齢者医療制度(75歳以上が対象)を導入した日本にとっても「いのちの商品化」は決して他人事ではない。「いのち」と「ビジネス」・「財政」とのどちらが大切なのか、という大きなテーマを投げかけている。
▽弱者を食い物にする「戦争ビジネス」
弱者を食い物にする市場原理主義、つまり「貧困ビジネス」の典型が「戦争ビジネス」である。その実態の一端を『ルポ 貧困大国アメリカ』から紹介する。
*民営化された戦争 ― イラク戦争 かつて「市場原理」の導入は、バラ色の未来を運んでくるかのようにうたわれた。だが政府が国際競争力をつけようと規制緩和や法人税の引き下げで大企業を優遇し、その分社会保障費を削減し、帳尻を合わせようとした結果、中間層は消滅し、貧困層は「勝ち組」の利益を拡大するシステムの中にしっかりと組み込まれてしまった。 グローバル市場で最も効率よく利益を生み出すものの一つに弱者を食い物にする「貧困ビジネス」があるが、その国家レベルのものが「戦争」だ。 アメリカの(市場原理主義者として知られる)経済学者ミルトン・フリードマンは「国の仕事は軍と警察以外すべて市場に任せるべきだ」と提唱したが、フリードマンに学んだラムズフェルド元米国防長官は、戦争そのものを民営化できないかと考えた。この「民営化された戦争」の代表的ケースが「イラク戦争」で、アメリカ国内にいる貧困層の若者たち以外にも、イラク戦争に巧妙に引きずり込まれていった人々がいる。
*生活苦から戦争に行く― 格差拡大の中で 経済的情報を含む個人情報が本人の知らないところで派遣会社にわたり、その結果、生活費のため戦地で勤務につき死亡する国民の数も急増する。彼らの動機は愛国心や国際貢献とは無縁であるとみなされるため、戦死して英雄と呼ばれる兵士たちと違い、「自己責任」と表現される。 ある個人情報機関のスタッフは最近の戦争について語った。 「もはや徴兵制など必要ない」 「政府は格差を拡大する政策を次々に打ち出すだけでいい。経済的に追いつめられた国民は、イデオロギーのためではなく生活苦から戦争に行ってくれる。兵士として、あるいは戦争請負会社の派遣社員として、巨大な利益を生み出す戦争ビジネスを支えてくれる。大企業は潤い、政府の中枢にいる人間たちをその資金力でバックアップする。これは国境を超えた巨大なゲームなのだ」
〈安原のコメント〉市場原理主義にどう立ち向かうか 「精神的余裕をゼロにする市場原理に組み込まれてしまってからでは遅い」― これは米国のある教育者の言である。 「問題は何に忠誠を尽くすか、なのだ。大統領という個人でも国家でもなく、アメリカ憲法に書かれた理念に対してでなければいけない」― これはイラク戦争にブレーキをかけるために中将への昇進を目前にして軍を去った米軍元少将の言である。 この2人の言を紹介した後、『ルポ 貧困大国アメリカ』の著者はつぎのように指摘している。
何が起きているかを正確に伝えるはずのメディアが口をつぐんでいるならば、表現の自由が侵されているその状態におかしいと声を上げ、健全なメディアを育て直す、それもまた私たち国民の責任なのだ。人間が「いのち」ではなく、「商品」として扱われるのであれば、奪われた日本国憲法25条(生存権)を取り戻すまで、声を上げ続けなければならない ― と。 まさに正論である。「言うは易く、行うは難し」であるとしても。
朝日新聞(5月18日付)のOPINION「耕論」に興味深い主張が載っている。「生存をかけた若者の反撃」と題して、作家・雨宮処凛(あまみや・かりん)さんはつぎのように述べている。
自分たちを搾取する社会について学ぶため、マルクスの「資本論」の勉強会を始めたという20代の派遣社員に話を聞いた。細切れの低賃金労働や、過労死寸前の長時間労働で働かされる現代の若者には、「資本論」で描かれる世界は学ぶべき歴史ではなく、自分や友人が身を置く現実と重なって映っている。 そんな若者たちがいま、泣き寝入りをやめて立ち上がりつつある。 (中略)これまでは社会の仕組みや闘う方法を知らず、国や企業につけ込まれてきた。でも自ら動けば社会は変えられるのだと気づき、闘うことが楽しくなってきた。生存をかけた反撃が始まったのだ ― と。 双手を挙げて賛成し、大いに期待したい。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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