宗教者達は地球環境問題や平和にどう対応しようとしているのか。世界宗教者平和会議(WCRP=World Conference of Religions for Peace)日本委員会(庭野日鑛理事長)という宗教団体のメンバーが、7月7日から始まる北海道・洞爺湖G8サミット(先進8カ国首脳会議)に向けて提言を行っている。 今回は前回の環境・平和論(6月17日掲載)に次ぐ続編で、発信者としてキリスト者が登場、「いま、東洋の循環思想の出番だ」と強調している。キリスト者による仏教的発言という色彩もあり、ユニークな主張となっている。
WCRPは仏教、神道、儒教、キリスト教、ヒンズー教、イスラム教など世界の諸宗教をメンバーとしている。第1回世界大会(1970年)は「非武装・開発・人権」をテーマに京都で、さらに最近の第8回世界大会(2006年)は「あらゆる暴力を乗り超え、共にすべてのいのちを守るために」をテーマにやはり京都で開かれた。 そのWCRP日本委員会発行の『WCRP』(月刊)は08年1月号から「平和をめざして〜G8北海道・洞爺湖サミットに向けて〜」を連載している。今回はその中から前島宗甫・日本キリスト教協議会元総幹事(WCRP日本委員会評議員)の「人は自然と向き合えるか ― 循環思想に学ぶ」(『WCRP』・08年5月20日号から)と題する主張を紹介する。
▽人は自然と向き合えるか ― 循環思想に学ぶ
「地はお造りになったものに満ちている。・・・ご自分の息を送って彼等を創造された」(聖書・詩編104)。 聖書は宇宙・自然が神の創造物(被造物)であることを語り教える。人間もその中に含まれていることはいうまでもない。地球の生命は50億年。人間の登場は600〜700万年前にすぎない。その新参者の人間が「神がご自分の息を送って」創造されたものを傷つけてきた。考えてみれば、人間は自らの生存のために被造物を必要とするが、人間以外の被造物はその生存のために人間を必要とはしない。
聖書に学んでいる私たちキリスト者は、この神の創造を想うことが乏しかった、想像力が弱かったと反省せざるをえない。必ずしも自然を共生のパートナーとは受け止めてこなかった。聖書のキーワードは「愛」なのだが、それも人間中心に理解され、他の被造物を愛の対象とは受け止めなかった。その限り、キリスト者は聖書の教えに忠実ではなかったと言わざるをえない。
私は環境問題は人権問題と同じレベルの問題と考えている。つまり弱い立場へのケアーである。先日街角で「動物もつらい時はつらいのです」という動物クリニックの看板を見て納得した。しかし動物は声を出すが、土や水、空気は声を出せない。環境異変の中に、私たちはその叫び声を聞かなければならない。 「人を造ろう・・・そしてすべてを支配させよう」。聖書の最初にある創世記の一節である。この「支配」と訳されている言葉「ラーダー」は、元来王が統治することを表す意味を持っていた。その王は人びとの福祉・平和に責任を負う役割を担う存在と考えられていた。聖書の翻訳の過程で長らくこの「ラーダー」は「rule over;支配する」と訳されてきた。最近使われている「新共同訳・英語版」では「in charge of;役割を担う、責任を負う」と訳されている。人間はすべての被造物をケアーする責任を担うことにより人間らしくあり続けることができる、このことが明確に意識される翻訳になったと思っている。
▽「虫も悲しいんだね!」と ― 虫の視点でも考える
私は20年を超えてフィリピン・ネグロス島の自立支援活動にかかわってきた。砂糖産業の崩壊による飢餓状態から、農業による自立を求める活動を立ち上げ支援してきた。バナナを日本の生協と協力して輸入してきたが、ある時バナナ畑に異変が生じた。日本人がバナナを購入することに気を良くした農民が生産を増加させるため作付け面積を拡大した。そのため連作障害を起こし、生態系のバランスを崩してしまった。 その現地を調査したとき、バナナを販売する生協の専務理事であった兼重正次さんが「虫も悲しいんだね!」とつぶやいた。連作障害で異常発生した「害」虫の駆除を考えていた私には衝撃的な言葉だった。人間中心の視点ではなく虫の視点でも考えること。このことが自然の中で暮らし、自然を共生の相手としなければならない人間に求められているのではないかと気づかされた。
この経験からネグロスの自立活動に新しい一頁が加えられることになった。循環型農業の創造である。ネグロス島の飢餓は砂糖産業依存に起因したもので、違う型でバナナに依存しては何も教訓を生かせないことになる。東洋に根付いている循環思想から学ぶことになった。
「初めがあって終わりがある」という直線的思考。そして経済的、技術的進歩の度合によって優劣が決まる価値観。このダーウィニズム的成長主義が人間の知性を衰退させてきたともいえる。いま、東洋の循環思想の出番ではないかと思う。包括的な平和を目指して、東洋にある宗教者がメッセージを発信することが期待されている。
〈安原のコメント〉― 循環思想に立つ生命中心主義こそ肝要
私(安原)は、上記の前島さんの文章を読んで、中世史家(カリフォルニア大学歴史学教授)、リン・ホワイト(1987年没)の指摘を想い出した。ホワイトは旧約聖書の中の「創造」のくだりに言及して、次のように書いている。 「神は人間の利益と統治のためという明白な目的のために人間以外のすべての存在をお創りになられた。すなわちいかなる自然の創造物も人間の目的に奉仕する以外の目的をもっていなかった。(中略)このようにキリスト教は人類史上でもっとも人間中心主義的な宗教なのである」と。(ロデリック・F・ナッシュ著/松野 弘 訳『自然の権利―環境倫理の文明史』=ちくま学芸文庫、1999年=参照)
ここでは人間は、自然と、そこに生きる人間以外の生き物の支配者として描かれている。多くのキリスト者はこういう人間観を共有してきた。この人間観は、前島さんの「人間と自然は共生のパートナー」、「人間は自らの生存のために被造物を必要とするが、人間以外の被造物はその生存のために人間を必要とはしない」、「人間中心の視点ではなく虫の視点でも考えること」という自然との共生観とは異質である。 同じキリスト者でありながら、天地の違いが浮き出ている。一方は傲慢であり、他方は謙虚である。また一方の人間中心主義に対し、他方は自然を重視する循環思想に立つ生命中心主義(人間と自然双方の生命を上下ではなく、平等対等に認識すること)と位置づけることもできる。地球環境問題に的確に対応するには循環思想に立つ生命中心主義でなければならない。
洞爺湖サミットに参集する欧米の首脳者はキリスト教信仰者である。一人ひとりを〈傲慢=人間中心主義〉派か、それとも〈謙虚=生命中心主義〉派か、に分類してみると、示唆に富む答えを引き出すことができるかもしれない。 はっきりしているのはブッシュ米大統領だろう。〈傲慢=人間中心主義〉派の典型ではないか。いや、正確にいえば、彼は人間を「悪魔」と呼び捨てたりするのだから、自然だけではなく、人間に対しても傲慢である。いいかえれば、彼自身が支配者のつもりであり、生命中心主義とはおよそ無縁な存在である。地球環境問題への正しい対応を期待すること自体、そもそも無理といえるかもしれない。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
|