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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2008年07月07日17時30分掲載
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ブラジル農業にかけた一日本人の戦い
<8>お金より家族より、夢と仲間を選んだ 和田秀子(フリーライター)
■「これから」というときに、やられてしもうた…
コチア青年たちの“夢の集大成”として、1986年に開発がはじまったバイヤ州バヘイラスの「戦後移住者団地」。ここでは、ファゼンデーロ(大農場主)を夢見て集まった37名が、電気もガスも水道もない陸の孤島のなかで、来る日も来る日も開拓し続けていたことは、すでに第7章で述べた通りである。
しかし“開拓”と一口に言っても、農業に従事したことのない私たちにとって、その労力は想像し難いものだ。ましてや、「戦後移住者団地」の耕地面積は2万1000ヘクタール(JR山手線内側の面積の約3.5倍)とケタ違いのスケール。そのうえ、長年“不毛の大地”として、放置され続けていた荒れ地を、いったいどのように開拓していったのだろうか―。
「いっぺんには開けませんよ。仲間たちで分担して、1年目は3000ヘクタール、2年目は5000ヘクタールと、だんだん広げていったんです。4年目くらいから、少しずつ収穫できるようになってねぇ。そりゃあ、嬉しかったですよ、はじめて植え付けに成功したときは…。」 そう言って横田さんは目を細め、さらにつぶやくように続けた。 「だけど、これからというときに、やられてしもうてねぇ…」
ほどなくして、彼らの夢を吹き飛ばした要因は、低金利農業融資の削減や、コチア産業組合の経営不安、そして80年代後半に襲った干ばつ、さらには、米国の食糧増産戦略に至るまで、複雑に絡み合っていた。
■「戦後移住者団地」が売りに出される!?
しかし、そのなかでも大きな痛手となったのが、金利の暴騰であった。60年代後半から70年代のブラジルは、諸外国から資金融資をどんどん取り付け、“奇跡のブラジル”と呼ばれるほど高度成長を遂げていたが、その返済がいっこうに進んでいなかったところへ、国際金融市場で利子が急騰。外債がたちまち膨らんで、返済不能に陥ってしまった。そこで国債を乱発した結果、未曾有のハイパーインフレを引き起こし、これが金利の暴騰を招いたのだ。
農業従事者は、作物を作れば作るほど損をする、というバカげたスパイラルに巻き込まれてしまった。“セラード”の開拓資金として、あちこちの銀行から融資を受けていたコチア産業組合も、膨れあがった金利のため、たちまち経営が立ちゆかなくなっていた。
「俺たちは、ただ土地を開拓することだけに専念してたから、組合がどんな状況に陥っていたかなんて、ぜんぜん知らなかったんだよねぇ」 と横田さんが言うように、入植者たちの多くは組合の窮状を知らず、組合の勧めのまま融資を受け(なかには土地や家を担保に入れてまで)、ただ純粋にセラード開発に取り組んでいた者がほとんどだった。
間もなく、生き残りをかけた組合は、さまざまな事業を縮小、あるいは中止していく。そのなかのひとつが、横田さんらが心血を注いで開拓していたバイヤ州バヘイラス「戦後移住者団地」からの撤退であった。横田さんらが知らぬ間に、サンパウロ州内の酒造会社に、売却する計画が進められていたのである。
■整地された畑を前に、植え付けできない辛さ
コチア産業組合の本部で、「戦後移住者団地」売却の決定が下されていた1990年の10月、何も知らされていない横田さんは、全国拓殖農業協同組合連合会の招請によって、日本各地の農業高校や農業大学に講演に出向いていた。
「日本に行ったのは、9月末の畑の整地時期でね。それから40日ほどしてバヘイラスに帰ってきたら、植え付けを待つばかりの畑に、まだ植わっていない。『どうしたのか』と仲間に聞いたら、『組合が融資してくれないから植え付けができない』と言うんです」
これを聞いた横田さんは、血相を変えてバヘイラスを飛び出し、一人で夜通し四輪駆動車をぶっ飛ばして、1700キロ離れたサンパウロの組合本部に乗り込んだ。
「畑が整地できているのに、どうして植え付けのための融資を出さないんだ! 」 と、横田さんが上層部に問いただすと、「組合の危機を乗り切るためには、『戦後移住者団地』を売却するしかない」という答えが返ってきたという。 売却に出されていた額は、なんと1ヘクタールあたり100ドルという安価。開拓するためには、少なくとも500ドルはかかっていたというのに、である。
「今すぐ日本に飛んで資金を借りてくるから、「戦後移住者団地」は全部俺に売ってくれ!さもなくば、ここで灯油をかぶって火を付けて自決するからな!!」 横田さんは、そう言って啖呵を切った。むろん脅しなどではなく、本気で自決するつもりだったのだ。
■お金より家族より、夢と仲間を選んだ
横田さんは、「組合に対して借金があったのでは、対等に交渉ができない」と考え、サンパウロ州に持っていた5つの農場のうち4つを売却。その資金で、バヘイラスの「戦後移住者団地」で開拓していた自身の土地を確保して、組合との交渉に臨むことを決意した。
このときすでに、「戦後移住者団地」を見切って出て行くものも少なくなかった。もともとサンパウロ州に土地を持っていた入植者などは、早々に切り上げて戻っていったのだ。むろん、それが賢明な選択であった。
しかし、横田さんには、それができなかった。サンパウロ州に戻るどころか、そのサンパウロ州の4つの農場を売ってまで、バヘイラスの「戦後移住者団地」に残ったのだ。
奥さまには泣きつかれた。子どもたちには、「パパイ(ポルトガル後でパパの意)は、狂ってる!」となじられた。それも当然だ。サンパウロ州の農場は、横田さんと奥さまで築き上げてきたものだったのだ。
もし、この時点で速やかにサンパウロ州に戻っていれば、今日のような苦難はなかったかもしれない…。なぜ、そこまでして―。その理由を、横田さんに尋ねてみた。
「そりゃそうですよ。バヘイラスには、今まで30年以上かけて築いた財産を売っぱらって、家族で入植してきた人たちが何人もいたからね。そこの息子が、泣きながら言うんですよ。『横田さん、俺は何にも悪いことしてないのに、なんでこんな目に合うんだ。ここを手放したら、オヤジが苦労して築いてきた財産が、全部吹っ飛んじまう!俺は、ぜったいここを出て行きたくない!』ってねぇ。あのときは本当に辛かった…。私はこの団地の責任者だったから、そんな彼らをほっといて、出て行けなかったですよ」
■委任状を手に、バブル崩壊後の日本へ…
いったんは、「横田には売れん」と渋っていた組合の上層部も、横田さんのこうした覚悟を知って、ついにはバヘイラスの開拓団地に関する日本側との交渉権を、すべて横田さんに一任することを承諾した。 つまり、横田さんが日本から融資を取り付けることができれば、組合から開拓団地を買い取ることができるというわけだ。 このとき、上層部に書かせた委任状を手に、横田さんはすぐさま日本に飛んだ。時は、バブル崩壊後の1991年。日本は、“失われた10年”に突入したばかりのころであった。(つづく)
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開拓団地の惨状を伝える当時のサンパウロ新聞





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