63回目の終戦記念日「8.15」がめぐってきた。靖国神社参拝にこだわる者、平和への祈りに頭を垂れる者、毎年のことながらそれぞれの風景を描いている。「平和=非戦」、「守る平和」を誓うのは自然のことのように思えるが、ここでは新しい「平和=非暴力」という視点から平和をとらえ直してみる。そこから見えてくる光景は、戦争とは直接関係ないはずの日本列島が実はすでに「戦場」となっているという現実である。その戦場から脱出するためには従来の「守る平和」を克服して「つくる平和」への転換を図ることが不可欠となってきた。
▽終戦記念日と大手5紙の社説
8月15日の「終戦記念日」に大手5紙の社説は何をどう論じたか。見出しと要点のごく一部みを紹介する。
*朝日新聞=終戦から63回目の夏 「嫌日」と「嫌中」を越えて 中国の5大学の学生を対象にした06年度の世論調査では、「日本を主導する政治思潮」を聞く質問に対し、53%が軍国主義と答えた。自由主義は18%、平和主義は9%しかなかった。
*毎日新聞=終戦記念日 日本独自の国際協力を 内向き志向から抜け出して 平和学の第一人者、ノルウェーのヨハン・ガルトゥング教授は、日本人は7年間の占領期間を通じて米国と「特別な関係」を作り出し「日本は米国に選ばれ守られている民」と考えるに至ったという。手厳しい指摘ではないか。確かに日本の対米依存は骨がらみだ。
*読売新聞=8月15日 静かな追悼の日としたい 追悼施設の問題に一日も早く決着をつけ、国民が一致して静かに戦没者を追悼する8月15日となってほしい。
*日本経済新聞=平和の尊さをだれが語り継ぐのか 不戦の誓いを新たにする日である。先の大戦では日本人は軍人・軍属、民間人合わせて310万人が死亡した。 63年が経過し、もはや戦争があったことも知らない世代が増えている。過去をきちんと学び、現在の平和の尊さを知るべきだろう。
*東京新聞=終戦記念日に考える 人間中心主義に帰れ 人間のための社会経済システムや社会保障体制が一刻も早く再構築されなければならない。人間を雇用調整の部品や在庫調整の商品並みに扱ったのでは資本主義の敗北で、未来があるとも思えない。
▽日本は本当に平和を享受しているのか
以上、5紙の社説の要点を一読して分かるように、それぞれが異なる視点から多様な論説を試みている。多様性は尊重すべきであるが、読み直してみると、その多様性の中に共通項が伏在していることが分かる。それは「平和とは何か」であり、「平和への祈り」である。 ここで、平和とは何か? と改めて問い直してみたい。日経新聞は「現在の平和の尊さを知るべきだ」と書いている。日本の現状は平和だという認識に立っている。しかし本当に日本は現在、平和を享受しているのだろうか。
一方、毎日新聞社説で見逃せないのは「平和学の第一人者、ノルウェーのヨハン・ガルトゥング教授」に言及している点である。しかしあえいえば、同教授(注)に学ぶべきは彼の平和論であろう。社説にそれへの言及がないのは惜しい。 (注)ガルトゥング教授は、平和の実現に必要な諸条件を探求する「平和学」の創始者として世界的に知られる。1930年ノルウェーのオスロで生まれ、オスロ大学で数学と社会学の博士号を取得、59年にオスロ国際平和研究所(PRIO)を創設した。アメリカ、ドイツ、スイスの大学のほか、わが国では国際基督教大学、中央大学で平和学を講じた。
世界平和学の先駆的業績として知られるガルトゥング教授著/高柳先男ほか訳『構造的暴力と平和』(中央大学出版部、初版1991年)に学びながら、平和とは何かを考える。 同教授の平和論の特質は、構造のなかに組み込まれている「構造的暴力」という新しい概念をつくったことで、これによって平和概念を拡大させた。つまり平和とは単に戦争がない状態(=消極的平和)であるだけでなく、構造的暴力がない状態、すなわち内外の政治、経済、社会構造に起因する貧困、飢餓、病気、抑圧、疎外、差別などがない状態(=積極的平和)をも意味していることを明らかにした。
▽平和観の再定義 ― 「平和=非暴力」・「つくる平和」へ転換を
いいかえれば同教授は平和観の再定義が必要であることを唱えた。この再定義に従えば、もちろん非戦(戦争という究極の国家的暴力がない状態)は平和にとって基本的に重要だが、それだけを指しているのではない。 人間性や生の営みの否定ないしは破壊が日常的に存続している状態、例えば自殺、交通事故死、凶悪犯罪、人権侵害、不平等、差別、格差、失業、貧困、病気、飢餓―などが存在する限り平和とは縁遠い。 さらに貪欲な経済成長による地球上の資源エネルギーの収奪、浪費とそれに伴う地球環境の汚染、破壊が続く限り、平和な世界とはいえない。 いいかえれば以上のような多様な暴力を追放しない限り、平和とはいえないことを強調したい。
「日本は平和だ」という認識は依然として少なくないが、これは「平和=非戦」という平和観に立っている。「平和憲法9条(戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認)のお陰で日本は戦争をしないし、海外派兵によって銃で他国の人を殺したこともない」、あるいは「憲法9条を守り、あくまで平和を守ろう」― など表現は様々だが、「平和=非戦」という認識にこだわった平和観である。
この平和観にこだわると、「平和を守る」という認識にとどまる。現在の平和をいかにして守るかという感覚ともいえる。しかしこの「戦争さえなければ平和だ」、「平和を守ろう」という受け身の消極的な平和観は旧型の平和観である。 今日、多様な暴力を追放し、真の意味での平和を実現させるためには「平和=非暴力」という認識に立ち、「平和をつくっていく」という能動的、積極的な平和観に立脚する必要がある。これが21世紀型の新しい平和観である。
▽日本列島は多様な暴力に満ちて、すでに「戦場」である
「平和=非暴力」という新しい平和観に立って日本列島を見渡すと、そこには多様な暴力が日常化し、政治、経済、社会に構造的に定着した「構造的暴力」に満ちていると診断することができる。
まず「平和=非暴力」という今日的平和観は、わが国でいえば、平和憲法のお陰で戦争がなく、平和であり続けたという思いを一面的認識として退ける。 日本は戦後、日米安保体制下で何度も事実上参戦してきた。特に昨今の米軍主導のアフガン、イラク戦争では「人道支援」という名の自衛隊派兵が行われたし、新テロ特措法によってインド洋で米軍などに現在石油補給を行っているのは、まぎれもない参戦である。石油補給という後方支援がなければ現代戦は遂行できないからである。 何よりも在日米軍基地は米軍の出撃基地として機能している。手厚い「思いやり予算」によって米軍基地の戦闘能力を手助けしているのが日本政府である。
つぎに大型地震・台風などに伴う人災、多発する凶悪犯罪(秋葉原での17人の無差別殺傷事件など)、年間3万人を超える自殺、年間5000人以上の交通事故死(多いときは年間1万7000人の死者を出した。累計の犠牲者数は50万人を超えているのではないか。まさに交通戦争死といえる)、生活習慣病など病気の増加、300万人前後の失業と雇用不安、企業倒産の増加、貧富の格差拡大、人権抑圧などまさに構造的暴力は後を絶たない。 これでも日本は平和といえるのかという疑問符を投げかけるほかないではないか。
東京新聞社説の「人間を雇用調整の部品や在庫調整の商品並みに扱ったのでは資本主義の敗北で、未来があるとも思えない」という指摘は、昨今の市場原理主義の負の側面、つまり企業レベルの構造的暴力をついている。
軍事力を行使して戦死者を出す修羅場のみが戦場ではない。多様な暴力によっていのち、安心、平穏、平和が破壊されている日本列島上の地獄のような現実も、戦場と呼ぶ以外に何と呼べばいいのか。これがガルトゥング教授に学ぶべき今日的な平和観とそれに基づく診断である。
▽憲法の平和理念を取り戻し、生かすとき
日本列島を暴力の地獄から「非暴力=平和」の極楽へと転換させるためには何が必要だろうか。何よりも憲法の平和理念を取り戻し、それを現実に生かしていくときであろう。 具体的には以下の条項の理念をどう生かしていくかである。
*憲法前文の平和共存権と9条の戦力不保持と交戦権の否認 前文には「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とある。恐怖とは戦争という暴力であり、欠乏とは貧困、飢餓などの暴力である。 平和共存権と9条の戦力不保持を生かすためには核兵器廃絶と大幅な軍縮と同時に日米安保体制の解体が必要である。安保体制は平和のためではなく、「世界の中の安保」をめざして、地球規模での戦争のための暴力装置となっていることを見逃すべきではない。何よりも日米安保体制は、憲法前文の平和共存権と9条の戦力不保持の理念と根本的に矛盾している。つまり憲法の平和理念を事実上空洞化させている。
*13条の個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重 「立法その他の国政上、最大の尊重を必要とする」と定めてあるにもかかわらず、現実には空文化している。
*25条の生存権、国の生存権保障義務 周知のように「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」となっているが、貧困、格差の拡大、病気の増大、医療の質量の低下、社会保障費の削減 、税・保険料負担の増大― などによって生活の根幹が脅かされている。この現実をどう変革するかが大きな課題である。
*27条の労働の権利・義務 「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」とあるが、現実には失業者のほかに非正規労働者があふれている。適正な労働の機会を保障しないのは、「労働は義務」という憲法規定からみて憲法違反ではないのか。
いずれにしても旧来の「平和=非戦」、「守る平和」観、つまり「現在日本は平和だ」というお人好しの平和観にこだわる限り、現実を変革し、未来への展望を切り開くことは難しい。ここは21世紀型の「平和=非暴力」、「つくる平和」観に立脚点を置き換えて憲法の平和理念を生かす方向で、平和を創っていくときである。 しかも8月の終戦記念日は5月の憲法記念日と深く連結している。この2つの記念日を分離しないで、密接不可分の関係として「平和と憲法のありよう」をとらえ直す必要もあるのではないか。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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