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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2008年11月27日10時22分掲載
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中国
サハロフ賞の中国人権活動家・胡佳氏(下) 私は生涯、仏教の「慈悲」通りに人を助けていきたい
2007年4月、胡佳が100日あまりの長い軟禁生活から解放され、香港で夫婦二人で本誌の張潔平記者に話をしてくれた。しかし北京に帰って再び軟禁され、逮捕された。このときの彼の口述による心の軌跡は彼の真実の姿である。
──あなたは何度も軟禁されていますが、最初に軟禁されたのはいつですか。それはなぜ?
最初の軟禁は2002年の静かな夜でした。そのとき私達は冬服をたくさん着て河南省上蔡県に行き、エイズ患者を見舞いました。私たちは一番最初に北京から入った人間でした。そこは冬でも暖房すらなく、患者には小さな子供も老人も、中年の人もいます。エイズにかかった子供は本当にかわいそうでした。私達が入っていくと子供達は顔だけ向けて、こうやって見るんです。彼らは頭を上げる力すらないのです。
▽エイズ患者を助けたために軟禁に
私達が持っていった服はみんな北京で寄付されたもので、ウールの玩具もありました。その年、北京では8日続けて大雪に見舞われました。私は列車を降りて河南省の村に行き、その足で4人の環境保護ボランティアを連れて村に入りました。服はまだ届いていなかったのです。翌日、私たちは拘留されました。河南省公安庁の国家安全保衛隊と現地のエイズ予防弁公室の人です。軟禁という方法で全身を調べられ、フィルムを全部感光されました。上蔡県賓館で軟禁され、入口には警官がいて出ることができませんでした。
それから、中国の警察といえば、ご存じのように恐怖感をつくるのがうまいでしょう。問題は重大だと言うのです。拘留する者はきっと拘留するとも言いました。拘留の最も重要な理由は、エイズは国家機密だからというものでした。
──そんなことになって恐ろしくはなかったですか。
2002年8月24日、私の友人が突然失踪しました。とっさに、国家安全部門によって拘留されたと思い、すぐに『TIME』や『ニューヨークタイムズ』に連絡しました。28日間、私は毎日体を洗い、きれいな服に着替え、心の準備をし、出かけたときに捕らえられました。心の準備を完全にしておいて捕まえられたのはこれが初めてでした。投獄されれば警察に殴打されたり拷問されたりするかもしれない。たしかに恐怖です。
でも恐怖などどうということはありません。子供のころよくケンカをしていました。中学生のとき、女子学生がよく侵入してきた変な人に乱暴されていました。私はそいつらとケンカをしたのです。たいていの女子学生とは知り合いではありませんでしたが。自分が殴られてもそいつらのじゃまはできる。何回ケンカしても負けっぱなし、負けてもまたケンカする。気分よかった。もし何もしないでいたら、良心の呵責に耐えられなかった。
──その後もよく自宅軟禁されていますが、どういう状態だったのですか。
うちには携帯電話やPHS、固定電話もありますが携帯やPHSは受信できなくなりますが、切断はされません。大勢の友人達の話では、PHSがずっと話し中だったというのですが、実際には電話はかけていなかった。携帯も番号が使われていない状態でした。番号を変えてもすぐにわかってしまいます。電話は傍聴されて人間関係を調べられます。
わが国は監視がいちばんきびしいと思います。私は間違いなくリアルタイムでバックされている人間の一人です。家のネットが3か月も遮断されたこともあります。これは本当に怖い。私はネットで外の世界と連絡をとっています。まさに高智晟弁護士救出活動のピークのころでした。ネットが遮断されて10数日後、妻にGPRS無線を買ってきてもらったのですが、カタツムリのように遅くて、電子メールで連絡するのが大変だった。 国保の仕事は人を監視することです。24時間、外出させない、人も入れない。でも私は241日間(2006年3月から07年2月)ずっと大忙しでした。友人は私を休ませようとし、音楽でも聞いてリラックスするように言いましたが、何一つできず、本の1冊も読めず、毎日、高智晟、李喜閣、万延海らのために、電話をかけたりメールを送ったり、忙しかった。
当時、金燕は9月30日から11月14日までタイとインドを訪れていました。北京の友人は私も一緒に行くように言いました。私が嵐の最前線にあって状況はきわめて危険だったからです。でも、私は行けませんでした。高智晟弁護士の娘、格格、陳光誠の妻、袁偉静から電話があり、行かないでほしいと言われたからです。
袁偉静のプレッシャーは大きく、常に人と連絡をとりたがっていました。格格は13歳の少女です。連絡をとったところ、家のことを話してくれました。私は、外の世界に訴えることが高弁護士を救うことだと改めて伝えました。あの日警察に捕らえられなければ、これを続けていたでしょう。もし私が格格や袁偉静だったら、やはり訴える人を求めたでしょう。どんなに外の人の助けがほしいかわかります。こんな単純な役割でも、自分の都合で離れるわけにはいきません。一縷の望みは残しておかなければなりません。これは彼女たちの命が闇の中にあったとき、誰かの電話は一縷の光明となり、彼女達の希望の光となるのです。
──あなたは最初、ボランティアでしたが、どうしていろんな事にかかわるようになったのですか。
陳光誠のことは06年6月11日、彼が刑事事件で拘留されてから全面的にかかわりました。目の前のこうしたことに私はかかわらければならない。正直言って、私は政治がわかりません。いまになっても政治の意味がわからない。政治になったものは政府のことだ。エイズも政治になった。環境問題も政治になった。庶民の基本的権利も政治になった。私は政治にはどんな興味もない。政党に入るとか、政治の綱領を考えるとか、それも興味がない。私がほしいのは公正、自由でしかない。
天安門事件がきっかけで、私は仏教を信仰するようになった。仏教には、殺生、淫売、妄言、窃盗、飲酒を禁じる五戒があります。私はこの点がとてもよいと思い、あの事件以来、肉を口にするのをやめました。校門で女子生徒がいじめられているのを見て、私は助けなければならないと思った。天安門事件で学生が警察に弾圧されるのを見ても、エイズ患者が医療を受けられないのを見ても同じです。 私は性格が弱くて感じやすい。だから他人が苦しんでいるとそれをはっきり感じてしまいます。仏教の核心は慈悲です。私は生涯この言葉通りに人を助けていきたい。
──軟禁に対してあなたはどう対応しましたか。
私は3種類の軟禁をされました。一つは外出すると8人に跡をつけられ、どこにでもついてくる。彼らとけんかになるところでした。2005年のある日、車を運転していたら、彼らがずっと後ろからついてきていました。そこで突然Uターンして道路の真ん中に停め、彼らの車のドアを開けて中から力ずくで引きずり出しました。仏教徒としてはしてはならないことですが、こうやって彼らに精神的圧力をかけたのです。あるとき警官が笑いながら話しかけてきましたが、その手はぶるぶる震えていました。
私は粗暴な人間なんです。だから肝硬変になった。私は決して屈しない。相手が一人だろうと5人だろうと、15人、たとえ30人でもです。06年7月10日、私は、陳光誠さんの妻、袁偉静さん(彼女はずっと山東省の家で軟禁されていた)と農業市で一時的に警察の監視から逃れ、陳光誠さんを探しに行きました。11か月の間彼は行方知れずだったのです。
▽山東省で30人に囲まれる
でもすぐに包囲されてしまいました。村の入口を山のような人がふさいでいました。私は袁偉静さんと手をつなぎ、押し合いになり、たちまち30人にかこまれました。この30人に殴られたら、私は救急車で北京に搬送されるかもしれない。しかし、袁偉静さんは彼らのことをよく知っていて、この人は計画出産局の人、この人は郷鎮の幹部、あの人は公安局と、彼女はそれぞれの名前を叫びました。彼らの拳骨が私に振り下ろされようとしたとき、袁偉静さんは体を張って守ってくれたのです。いままで私は女性を助けてきましたが、初めて女性に助けられた。 袁偉静さんは本当に勇気のある人。年は30歳で私より若いけれど、私はお姉さんと呼んでいます。もともと食べたり遊んだりするのが好きな人でしたが、いまは強い女性になりました。だからとても尊敬しています。
──国保警察とはどんな人たちなんですか。
始め、私は警察をとても憎んでいました。彼らは人間ではない、野獣のようだ、良識もない、棒給のためにはおべっかも言う。とくに2月16日、41日間も違法に拘束されたとき、家に帰せと叫んだ。心臓病のある妻の曾金燕のことが心配だった。でも聞き入れられなかった。北京市国保総隊の支部隊長が来ました。彼らの上司です。そのとき私は花瓶を持って自分の頭に打ちつけ、私の血でおまえを汚してやると言った。実はそのとき考えたのは、けがをして病院に運ばれれば、曾金燕がわかるだろうということでした。
▽国保も仕返しを恐れている
でも病院に運ばれませんでした。血がかたまってひどく痛くて夜も眠れませんでした。私に罵倒された国保の役人は無表情でした。こういうランクの人間は自分でも何をやっているのかわかっています。板挟みになってどうしていいのかわからない。彼は自分のやっていることが違法だと知って、いつか報復されるかと心配しています。 彼らはこの社会が民主へ向かって発展しているとわかっています。いつか胡佳が役人にでもなったら自分の後半生がどうなるかと心配なのです。おかしいじゃありませんか。私にどんな仕返しをされるかと心配している。本当にかわいそうですよ。良心があってもこうするしかない。
国保組織は国家の権力部分で、多くの人は高等教育を受け、腕力もある。王超という身長1メートル80の大男がいました。その男は最初、私にひどくあたりました。家に帰せと言っても受けつけない。彼らと2時間やりあったが、その後半月、腕が上がらなかった。彼らは政治犯には手加減をする。政治犯の体に傷が残らないようにね。十数分間ごとに人が交替する。その後、上司が来て、我々が服従したからやめろと。こういう力の駆け引きでは、屈服さえしなければ彼らの負けだ。あいつらはいままで勝ったためしはない。
2002年から私は彼らと直接やりあい、その後は増える一方だった。通州区の国保、朝暘区の国保、北京市国保もいた。いちばん凶悪なのは北京市国保の本部だと思う。全員が高等教育を受けている。順番に目を殴られ、6回殴られた。あのときは目が見えなくなった。でも私は罵倒し続けた。あいつらは完全に暴力団だ。大学を卒業して1、2年の男に殴られた。そいつはたぶん007の見過ぎだろう。国保がかっこいいと思っているんだ。彼は人を殴る快楽を覚え、権力と体力を存分に使っている。
軟禁されたときにすごいケンカになったこともある。廊下に椅子が飛んだよ。それは、エイズ孤児を支援している小学校の女性教師が浙江省から北京に逃げてきて、うちに来る約束になっていたのだが、警察が威嚇して追い返そうとした。私がいちばん嫌いなのは女性をいじめる人間だ。6人の相手と廊下でやった。私は椅子を持ち上げて窓ガラスをぶっ壊した。とうとう70歳の先生が出てきて、私に言った。こういう隣人がいて迷惑している、こいつを捕まえて監獄にぶち込むなら、毎日ここで何を見張っていたのか、と。
老人の恐怖が極限に達したので、警察も少しおとなしくなった。結局妥協して、彼らは小学校教師を自分たちの車でホテルに連れていき、宿泊代の半分を払ったと言っていた。
そのうち警察とのあいだに「暗黙の了解」ができてきて、相手の限界がわかるようになった。彼らは私が決して屈服しないことを知っている。私も彼らとケンカしても意味がないことがわかった。向こうは人が多いから、物理的に人の自由を制限することができる。私のほうで徹底的にやり合いたいと思ったとしてもね。
──ご両親と奥さんに圧力がかかっているのでは?
両親は私が軟禁されたときの危険を知っています。私が捕まると両親は毎晩泣いていました。両親の苦痛は私よりもずっと大きい。でも、今回241日間の軟禁で、母は落ち着いていました。もっとひどい経験をしているからです。両親が妻と同じようにだんだんと落ち着いてきているので、うれしいです。
でも両親は私のことを支持しているわけではありません。父は、いまやっと安定した状況になったのだ、生活もよくなった、なんで政治に首を突っ込み、お国を乱すようなことをするのかと(胡佳の父は清華大学建築学部卒で、1957年右派で迫害された)。でも、父の情報源はテレビのニュースと中国の新聞だ。女性のほうが男性より腹が据わっていることもあります。母も怖がっていましたが、何事が起きても大丈夫なのです。 ニューヨークでランドリーを経営している叔父がいるのですが、叔父はよく電話で海外の情勢を母に教えてくれます。母の情報源のほうが多い。母は私のやっていることに表面的には理解を示してくれ、道義上の問題も賛成してくれますが、こんな息子であってほしくないのです。私のやっていることは過激だと、捕まえられたらどうするのかと。父はただ「私たちより少しでも長く生きてくれ」とだけ言っています。
金燕ともそうです。06年2月から3月まで私たちはずっと夫婦ゲンカをし、もう別れようかとなりました。そうなんです、天安門事件のことにかかわるのはやめて、エイズNGOのことだけにしてくれと言いました。あなたがやっていることで私たちは仕事にこんなに支障があると、エイズのことにかかわるボランティアたちが巻き添えになっていると。
▽孝行と愛とは両立しない
孝行と愛とは両立しないと思います。私にもどうしようもありません。エイズのことにかかわっているからと言って、天安門事件の障害者たちを見捨てるわけにはいきません。同じように、天安門事件のことのためにエイズ患者を見捨て、環境保護の人々と縁を切るわけにもきません。高耀潔先生にも言われました。そんなにたくさんのことに関わらないでくれと、エイズ患者はあなたを必要としていると。命の危険にさらされている多くの人があなたの呼びかけを待っている、彼らのために薬を得なければならない、自分たちの状況を外に伝えてくれと子供たちが言っている、彼らを支援する資金を得てきてほしいと。
でも、エイズも天安門事件も人権問題も、何もかも私にとって同じように重要なのです。私にとってはみな公平でなければならない。人はバランスを考えろと言うでしょう。でも私にはそういう考えがありません。私はただの一人の人間でしかない。それでもこうしたことに同時にかかわるのは、ただ道義に忠実にするしかないからです。 国保の人が私のことを「ゴマの花は一節ずつ高くのぼる」(エスカレートする、発展していく)と言った。一つの微妙な問題から次の微妙な問題へ、さらに次の微妙な問題へ――環境保護からエイズ問題へ、そしていまクローズアップされているダライラマ、天安門事件障害者から高智晟・陳光誠へ、そして私も共犯の容疑者となったのです。
原文=『亜洲週刊』08/11/9 章海陵・張潔平・李永峰記者 翻訳=納村公子
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