知人の清水秀男さんから以下のような08/12月のメッセージ「除夜の鐘に思う」が届いた。「 煩悩、特に怨念について思いを巡らしてみました」とある。清水さんからは毎月メッセージをいただいているが、「除夜の鐘に思う」は年末年始にふさわしい内容なので、その大要を紹介し、末尾に私(安原)の感想を述べる。
▽煩悩の三毒 ― 貪、瞋、痴
12月31日大晦日の夜は、寺院では108煩悩を取り去り、新しい清浄な気持ちで、新春を迎えるべく、その数だけ「除夜の鐘」が打ち鳴らされる。「除夜」は、「旧年を除く夜」という意味だが、私(清水)は煩悩の闇を取り除く夜という意味に解釈している。 煩悩とは身心を乱し、苦しめ悩まし、智慧を妨げる心の働きである。
108煩悩の内容については諸説あるが、108なる数字はインドでは数が非常に多いことを意味するので、人間はいかに多くの煩悩を抱えているかを示している。その中でも三毒と言われる代表的根源的煩悩として、強い執着・激しい欲望(貪:とん)、怒り・怨(うら)み・憎しみ(瞋:じん)、道理に暗い愚かさ(痴:ち)があげられる。
▽怨みをすててこそ怨みはやむ
釈迦の肉声に最も近い経典の一つといわれる『法句経』の中で、釈迦はつぎのように言っている。 「実にこの世においては、怨(うら)みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」
この釈迦の教えを象徴する出来事が日本にある。それは、浄土宗の開祖 法然の父の遺言である。その遺言は、仇討ちが武士の身だしなみとされていた時代において、まさにこの釈迦の教えを体現した感銘深い内容であり、この父にして法然ありきという感がする。 美作国(岡山県)の豪族であった法然の父は、敵対する武士の夜襲に遭い、瀕死の重傷を負い、臨終に近いことを悟り、9歳であった法然を枕元に呼び、つぎの様に最期の諭(さと)しをした。 「親の仇は討つではないぞ。親の仇を討つために敵に遺恨を晴らすことになれば、汝も遺恨を受けることになり、この世に遺恨が尽きることはない。汝は俗世間を逃れて出家し、迷いと苦悩の世界から脱する道を求め、多くの人を救って欲しい」
この遺言が法然の一生を決定づけ、遺恨を晴らすことなく仏門に入り、すべての人が念仏により救われる道を説き、貴族を中心とした仏教を民衆のものにしていった。
▽怨みの連鎖 ― テロ、殺人、戦争
怨みは大なり小なり人間である限り抱く煩悩である。仏教学者の故高神覚昇師は、怨みとはちょうど人間の心臓につき刺さった棘(とげ)のようなものであり、ゴミが眼に入ると思わず眼をこするが、こすればこする程、眼の中に深く入っていくように、棘(怨み)も取り除こうと悶え、あせれば余計心の底に深く入って残っていく、と表現されている。 怨みを、人生上の問題として一生抱えながら苦悩する人や怨みにより自分自身を傷つけ、健康を損なう人もいれば、ひいては怨みの連鎖により、政治・宗教・社会問題に広がり、殺人や幾多の戦争にまで結びついていることは歴史が証明している。 今年多く起こった無差別殺傷事件、いじめ、父母殺人、テロ、民族間・宗教間の闘争も何らかの怨念がベースにある場合が多い。
▽怨みのしがらみから抜け出すには
ではこの蔦(つた)のように複雑にからまった怨みのしがらみから、いかにしたら抜け出せるのであろうか。 釈迦は『法句経』で一つの解決策を示している。 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである、と覚悟をしよう。― このことわりを他の人々は知っていない。しかしこのことわりを知る人々があれば、争いはしずまる」
釈迦の言葉を私(清水)なりに味わってみることにする。 "人間は必ず死を迎えることは永遠の真理であることをまず認識しよう。自分が怨みを抱いている憎い人間もいつかは死ぬ、その自分もいつ死ぬか分からぬ運命にある。過去の怨みをいつまでも抱いたり、報復する時間があるくらいなら、今与えられた時間を精一杯、悔いのない生き方をし、安らかに死を迎えたいものである。安らかな死を迎えるためにも、相手により過去深く傷つき、怨みの檻の中に閉じ込めていた重く頑(かたくな)な自分の心を開け放ち、自由になろうではないか。それと同時に、自分も知らず知らずのうちに人を傷つけ、怨みを抱かせた多くの人がいるに違いない。怨みを捨てるには、傷つけられた相手をゆるすと共に、傷つけた相手にもゆるしを乞わねばならない。相手をゆるした時、はじめて自分もゆるされる。そして各人が自分も含めてすべての人を、思いやりをもってゆるせるようになった時、争いは終息し平和が訪れる。"
「死生学」の権威、上智大学名誉教授のデーケン神父は、人間の生涯最後の仕事は、憎んでいた人をゆるしていくことだと言われる。怨みなど微塵(みじん)もなく捨て去り、すべてをゆるし続けていくこと。そして、むしろ怨みを自分にとっての肥やしとして生かし、感謝しながら、只今の瞬間を悔いなく100%生き切ること。
▽自らを制すれば、人は怨みを抱かない
水に流すという言葉がある。水に流すとは本来「禊」(みそぎ)を表し、水で穢れや罪を洗い清めることを意味し、ゆるすというニュアンスに近いものがある。 除夜の鐘の音を聞きながら、この一年の行いの至らなさ、愚かさ、自分の持つ煩悩のしぶとさに気づき、省みるとともに、他をもゆるす寛大な心を忘れず、水に流すものは流し、リセットし、闇を光に転じ、心新たに新年を迎えたいものである。
最後に釈迦の言葉を味わいながら、今年の締めくくりとしたい。 「わかち与える人には功徳が増大する。みずからを制するならば、ひとが怨みをいだくことは無い。善い人は悪を捨てる。情欲と怒りと迷妄を捨てるが故に、煩悩の覆いをのがれる」 (注) 上記文中の法句経を含め釈迦の言葉は(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫)から。
▽〈安原の感想〉― 「非暴力・平和」を求めて
いくつか紹介されている釈迦の言葉で、特に注目したいのは「わかち与える人には功徳が増大する。みずからを制するならば、ひとが怨みをいだくことは無い」である。 私流に翻訳すれば、以下のようになる。 人に怨みを抱かせないためには、怨みを抱かせるような行為を止めることである。そのためには自らを制御しなければならない。できることなら分かち与えることである―と。
この釈迦の教えをどう実践するか。21世紀最大のテーマであるテロを具体例として考えてみたい。例の「9.11テロ」(2001年9月11日米国を襲った同時多発テロ)への報復として、つまりその怨みを晴らすためにブッシュ米大統領はまずアフガニスタン攻撃を開始し、さらに03年3月イラク攻撃に走る。その名目は「対テロ戦争」である。しかしここで見逃してはならないのは、つぎの事実である。
*もう一つの「9.11テロ」 1973年9月11日南米チリのアジェンデ政権(民主的に選ばれた社会主義的政権)が軍部の蜂起によって倒され、大統領は官邸で射殺され、大統領支持派の多数の市民が捕らえられ、銃殺されるなどの犠牲者が出た。背後で暗躍したのが米CIA(中央情報局)とされている。もう一つの「9.11テロ」として知られる歴史的事実である。 *米軍事力による犠牲者は数知れない 第二次大戦以降、米軍の軍事力行使あるいは米国製兵器(米国は世界最大の兵器輸出国)の使用による犠牲者数は数千万人にのぼるともいわれ、数知れない。うち米軍のベトナム侵略(1975年米軍敗退で終結)でベトナムの300万人が犠牲となった。 *ブッシュ大統領の情報誤認による先制攻撃 ブッシュ大統領は08年12月、米テレビニュースのインタビューで「(在任中の)最大の痛恨事はイラク情報の誤りだった」と語った。イラクでの大量破壊兵器は存在しないにもかかわらず、存在するという誤った情報のもとに先制攻撃に踏み切ったことを指している。そう思うなら、誤認が明らかになった時点でなぜ米軍を撤退させないのか。真相は中東の石油確保、戦争で稼ぐ米国「軍産複合体」の利益 ― などが念頭にあったからではないだろうか。
以上の事実が物語るものは、巨大な軍事力を振りかざす米国家権力こそが地球規模で破壊と殺戮をもたらしており、世界最大のテロリスト集団ではないかということである。「9.11テロ」(2001年)よりも10年以上も前から海外各地の米国大使館が襲われるなど米国向けのテロは多発していた。それは米国主導の地球規模でのテロ、暴力への怨みであり、報復であろう。 以上ような怨み、報復の連鎖を断ち切るには何よりもまず米国が覇権主義に基づく外交・軍事政策を止めて、転換させることである。いいかえれば非暴力の世界をどう構築し、共有していくか、非暴力という功徳をどう施すか、である。その視点と行動を欠いては暴力の連鎖に終止符を打つ手だては期待できないだろう。 (注)仏教語の功徳とは、現世・来世に幸福をもたらすもとになる善行
年の瀬を迎え、除夜の鐘に耳を傾けながら、私(安原)なりに非暴力・平和のありようを思案してみたい。せめて日本列島から暴力を追放し、非暴力・平和が広がることを祈念したい。そのことが世界の非暴力・平和にも貢献することを信じたい。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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