新自由主義破綻後の世界経済のあり方を探るロンドン金融サミット(G20)が金融の規制・監督の強化路線を打ち出したのに続いて、我が国では「北朝鮮のミサイル発射」をめぐる「戦争ごっこ」で、誤情報騒ぎも織り込んで右往左往する始末となった。 ここは冷静さを取り戻して、仏教の「無心」の境地から観察すれば、見えてくるものは何か。企業経営、経済運営ともに「慈悲の心」、「利他と感謝」、「少欲知足」がキーワードとして浮かび上がってくる。
臨済宗妙心寺派第31代管長の故西片担雪老大師の『碧巌録提唱』(09年2月、岡本株式会社=岡本哲治社長=明日香塾編集発行・非売品)を手がかりに新自由主義破綻後の企業と経済のあり方を考えてみたい。 序文に稲盛和夫・京セラ創業者が「人間が最も大切にしなくてはならない倫理観や道徳心が希薄化し、様々な問題が引き起こされている昨今、本書はそのような現代の社会を、より善いものにしていくにあたり、必ずや貢献するものと考える」と記している。 岡本社長の解説によると、「『碧巌録』は唐から宋の時代に活躍した高徳の禅師の言行録から百話集めたもので、今日なお日本の禅宗では宗門第一の書」とされている。 『碧巌録提唱』は1983年から10年間に行われた提唱を収録したもので、上・中・下の3巻で1600頁余に及ぶ大著である。そのうちごく一部を以下に紹介し、私(安原)の感想を付記する。
▽無心とは空のコップ、そして慈悲の心
私は無心ということを説明するのに、空のコップのたとえ話をする。私たちの心というものは、憎い可愛い、惜しい欲しいという泥水がいっぱい詰まったコップのようなもので、もう何も注ぎ込むことはできない。しかしその泥水を捨て切ってコップをきれいに磨き上げれば、ビールなどが即座にたっぷりと注ぎ込むことができる。 同じように本当にきれいな無心状態になると、森羅万象がことごとく、たちまち私たちの胸の中へ入ってきて私たちと一つになることができる。自他一如だ。相手と自分が一つになるのだから、相手の痛みが自分の痛みになり、相手の悲しみが自分の悲しみになっていく。相手の喜びは自分の喜びになってくる。 無心とは、そういう相手と一体となった慈悲の心である。「仏心とは大慈悲心是れなり」。無心になることによって、そういう大慈悲心を自分のものとすることができる。
〈安原の感想〉地球も人間も「慈悲の心」を渇望 仏教、特に禅では無心は日常用語といえるほどに馴染みが深い。しかしこの無心なるものは、本当のところ何であるかが一般にはつかみにくい。頭では分かったつもりでも、身体で会得するのが難しい。ここでの「無心とは慈悲の心」という説法には「なるほど」と頷(うなず)くことができるが、その実践となると、これまた容易ではない。 しかし地球も、世界も、国も、社会も、人間も、この「慈悲の心」を渇望しているのではないか。
▽世界の軍事費の1%を回せば、飢えを救える
アフリカでは干魃(かんばつ)がひどい。子供たちがどんどん飢え死にしている。アフリカの飢えた子供たちを救えという運動が起こっている。アフリカ人口の3分の1、数百万人が餓え、死に瀕しているという。ただ世界の軍事費の1%を回せば、その人たちを救うことができるという。正論である。世界では1分間に130万ドルの軍事費が使われている。一方では1分間に30人の子供が飢え死にしているという報告がある。
〈安原の感想〉「戦争ごっこ」に右往左往しているときか 地球上の飢餓人口は約10億人で、6人に1人は飢えていることになる。この飢餓に日本は無縁かというと、実はそうではない。生活保護費を打ち切られて、食べ物がなく、最近、餓死した悲劇があった。 その一方で巨額の軍事費が浪費されている。世界全体で年間約120兆円、うち米国一国だけで半分強を占めており、日本は年間約5兆円だ。ベトナム戦争で米国が敗北して以来、軍事力は無力化している。にもかかわらず軍事力に執着し、浪費を続けている。 その世界の軍事費のわずかに1%といっても、1兆円を超える金額である。「北朝鮮のミサイル」を口実にした「戦争ごっこ」に右往左往して、血税を浪費しているときではないだろう。
▽利益とはお客様の満足料だ
日本でも指折りのスーパーの社長さんが、雑誌の対談記事で立派なことをおっしゃっておった。その中で「利益とは、お客様の満足料だ。お客様の満足度に応じて利益が出てくる。お客様にその満足を得ていただくために従業員が努力したのだから、その利益は従業員にあげるのだ」と。 普通、利益というたら、仕入れと販売との差額を、サービスをした当然の対価であると受け取る場合が多いけれども、「利益とはお客様の満足料だ」とサラッと言い切っておられた。競争の激しいスーパー業界で、その会社は売上高は日本一ではないが、利益ではなかなか奮闘しているということだ。こういう社長さんに率いられたら、ますます発展するだろうなと思いながら、その記事を読んだ。 与えることのできる量の多い人ほど、徳の高い人と言えるのではないか。与えるというても、物を与えるのではなしに、人間的な何かを与えることのできる人、それが徳のある人と言うことができるのではないか。
〈安原の感想〉仏教経営の真髄は利他と感謝 「仏教経営」なるものを心掛けている企業経営者は実は少なくない。「利益はお客様の満足料」という利他と感謝の心こそが仏教経営の真髄である。最近「企業の社会的責任」論議が活発になっているが、その核心はやはり利他と感謝である。これは企業経営に限らず、もっと広く経済全体の運営にも当てはまる。 ところがその道理をわきまえず、手前勝手な私利中心の企業経営と経済運営に執着したのが、世界金融危機、大不況とともに破綻したあの新自由主義路線であり、その波に乗って悪用した企業群である。ごく当然の破綻であった。
▽「少欲知足」の教えが力を持ってくるに違いない
戦前の日本は、貧乏は恥ではなかった。貧困に打ち勝つことこそ美徳だった。そういう昔人間からみると、今の日本の繁栄はまさに幻影ではなかろうか。まだ使える物を捨てて、修理できる物を修理しないでポイ捨てだ。昔でも物は最後には捨てられたが、必ず土か水に還って再生された。 ところが現在の化学製品の多くは、土にも水にも還元しないで、汚染、公害の元凶となる。ゴミや廃品が出るのは、物が完全にそのはたらきを果たしていないからだと思う。 「少欲知足」(しょうよくちそく)と申します。時節因縁が熟して、また「吾れ唯だ足ることを知る」の教えが力を持ってくるに違いないと思う。だいたい人間というものは、シンプルな生き方をするうちに、本当の安心感、安心立命、静かな喜びが生まれてくるものである。
〈安原の感想〉シンプルな生き方と質の改善・充実 貪欲、強欲そのものの新自由主義路線が破綻した後の経済のあり方はいかにあるのが望ましいか。それは少欲知足であり、シンプルな生き方のすすめである。これは経済運営でいえば、成長主義にこだわらず、ゼロ成長で十分と考える立場である。 経済成長はモノやサービスの量的拡大を意味するだけで、質の改善・充実とは無縁である。経済成長は人間でいえば、体重が増えるだけの意味しかない。米国に次いで世界第2位の経済大国・日本はすでに成熟経済であり、量的拡大に偏するのは良策ではない。大不況克服を名目とする成長主義の視点からの景気対策一本槍は時代感覚がずれている。 むしろ温暖化防止、雇用創出、貧困克服などを織り込んだ日本版グリーン・ニューディールのような質的充実策が必要である。これこそが今日的「慈悲の心」、「利他と感謝」、「少欲知足」の経済版ではないかと考える。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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