2009年5月3日は日本国憲法施行以来62年目の憲法記念日である。大手5紙の憲法社説を読んだ。その憲法社説の中で注目に値するのは、「25条の生存権保障は自前の規定」、つまり米国から与えられたものではなく、「日本国産」という指摘である。この25条と9条(戦争放棄、非武装)は車の両輪として平和憲法の基軸となっている。自衛隊の海外派兵が恒常化しつつある今、それに歯止めをかけるためにも従来の米国依存型の安全保障政策を脱した自前の平和をどうつくっていくかが大きな課題となってきた。25条と9条に軸足を置いて、憲法社説を手がかりに考える。
▽大手メディアが憲法記念日に論じたこと ― 護憲派と改憲派と
まず5紙の09年5月3日付社説の見出しはつぎの通り。 *東京新聞=憲法記念日に考える 忘れたくないもの *朝日新聞=憲法記念日に 貧困、人権、平和を考える *毎日新聞=憲法記念日に考える もっと魅力的な日本に *読売新聞=憲法記念日 審査会を早期に始動させよ *日本経済新聞=日本国憲法を今日的視点で読み返そう
5紙社説の主張を護憲派か改憲派か、という二分法でくくれば、東京、朝日は護憲派であり、一方、読売、日経は改憲派といえる。しかも読売、日経ともに2本社説のうちの一つで憲法問題に言及しており、自説を繰り返す社説となっている。毎日は憲法論議よりもソフトパワー論を展開している。 東京、朝日、毎日3紙の社説の内容は後述することにして、ここでは読売と日経の要点を紹介する。
〈読売新聞社説〉 2年前、憲法改正の手続きを定めた国民投票法が成立した。国民の手で憲法を改正するための画期的な法律である。 国会は、改正論議を、サボタージュし過ぎているのではないか。
海賊対策にあたる海上自衛隊のソマリア沖派遣や、北朝鮮の弾道ミサイルへの対処の論議を聞けば、集団的自衛権は「保有するが、行使できない」とする政府解釈が、自衛隊の実効的な活動を妨げていることは明らかだろう。 与野党ともに、憲法審査会を早期に始動させるため、取り組みを強めるべきである。
〈日本経済新聞社説〉 私たちは2001年の米同時テロの後、集団的自衛権の行使を禁じた政府の憲法解釈を見直し、多国籍軍後方支援法の制定を求めた。今日風にいえば、海賊法を包み込む形で、自衛隊の国際活動を包括的に定めた一般法である。国連平和維持活動(PKO)参加の根拠となっている国際平和協力法も吸収する。
安倍政権が検討し、福田政権が無視した集団的自衛権をめぐる解釈見直しは当然だろう。
〈安原の感想〉 改憲を迫る読売、日経 両紙ともに改憲派としては従来から一貫している。しかも集団的自衛権(日米は日米安保によって軍事同盟を結んでおり、米国が攻撃された場合、日本が直接攻撃されなくとも、日本が軍事的に米国を支援すること)を積極的に容認する立場である。 軍事力によって紛争を打開できないことは、米軍がイラクからの撤退を余儀なくされている事実からも明らかだが、そういう現実は見えないらしい。
▽東京新聞 ― 「25条の生存権保障は自前」を強調
東京新聞社説の内容(要旨)は以下の通り。
寒空の下のテント村が思い出させたもの、“北”をにらむミサイルが忘れさせたもの…いずれも憲法の核心です。いまこそそれを再確認しましょう。
◆生存権の保障は自前 「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(日本国憲法第二五条第一項)― 第二項は国に社会保障、福祉の向上、増進を命じています。 改憲論者から押しつけと攻撃される憲法ですが、生存権を保障したこの規定は衆院の審議で追加された自前の条項です。 第一三条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については(中略)国政の上で、最大の尊重を必要とする」となっています。
現実はどんな状態でしょうか。 OECD(経済協力開発機構)のデータによる、いわゆる貧困率は先進国中で第二位、金融広報中央委の調査では、一九八〇年代に5%前後だった貯蓄ゼロ世帯が二〇〇六年には23%に増え、三千万人が何の蓄えもなしにその日暮らしをしています。
◆社会の階層化が進む 貧困層が急増し「富める者はますます豊かに、貧しい者はますます貧しく」なり、社会が分断されつつあるのです。貧困が親、子、孫と継承される社会の階層化も急速に進みつつあります。 誰でも働いてさえいれば食べていける状態が崩れ、最近は働く場さえ次々なくなっています。仕事を失えば住まいもなくなって路上に放り出され、たちまち生命の危機に瀕(ひん)します。 「個人として尊重される」どころか、モノのように扱われ、捨てられているのです。
景気回復は当面の最大課題ですが、雇用、福祉制度の見直しも同じく急務です。雇う側、使う側の視点から雇われる側の視点へ、効率、コスト優先から人間らしく生きる権利の最優先へ ― 憲法第一三条、第二五条の再確認が必要です。
桜前線が北上し、派遣村の余韻が消えかかったころ、今度は「北朝鮮ミサイル」のニュースが注目を集めました。政府は対応策を積極的にPRし、危機感をおおいにあおりました。 その効果でしょうか、一般道路を走る迎撃ミサイル運搬のトレーラーや、首都の真ん中で北の空をにらむミサイルの映像にも、違和感を覚えた人はさして多くなさそうです。北の脅威、迎撃などの言葉が醸し出す緊迫感は、憲法第九条の存在感を薄れさせました。
◆現実に流されない覚悟 自民党を中心に広がった幻想のような改憲論が沈静化したいまこそ、憲法に適合した政治、行政の実現を目指したいものです。 それには、国民の一人ひとりが「忘れたくないもの」をはっきりさせ、目まぐるしく動く社会の現実に決して流されない覚悟を固めなければなりません。
〈安原の感想〉 憲法25条、13条、9条の三位一体的実践を 東京新聞社説の最大の眼目は、国民の生存権を保障している憲法25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という規定は、敗戦直後の憲法草案作成の段階で米占領軍から押しつけられたものではなく、衆院の審議で追加された自前、つまり日本国産の条項 ― ということである。この点は大いに力説されるべきである。 もう一つ大事なことは、この25条と13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については(中略)国政の上で、最大の尊重を必要とする」、さらに9条(戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認)は三位一体として相互に連結させてとらえ、理解し、生かすべきだという点である。
25条と13条の理念を生かすためには9条を改悪させてはならないし、逆に9条が改悪されて海外派兵を恒常化させる「軍事国家」になれば、25条と13条の空洞化が進む。米ブッシュ政権との連携で「小泉改革」の名の下に強要され、破綻したあの新自由主義路線が目指したのが9条の改悪であり、25条と13条を蔑(ないがし)ろにすることであった。 9条改悪は踏みとどまってはいるが、日本列島上に悲惨な現実をもたらし、事実上の空洞化が進んだ25条と13条の理念をどう取り戻し、生かしていくかは今後に残された大きな課題である。
▽朝日新聞 ― 「25条は先進的な人権規定」と指摘
朝日新聞社説の要点を以下に紹介する。
昭和初期。漁業の過酷な現場で働く若者の姿を描いた小林多喜二の小説「蟹工船」が発表されたのは1929年。金融大恐慌が始まった年だった。日本でも経済が大打撃を受け、都市には失業者があふれ、農村は困窮して大陸への移住も盛んになった。 そうした社会不安の中に政治テロや軍部の台頭、暴走が重なり、日本は戦争と破滅へ突き進んでいく。
この過去を二度と繰り返したくない。繰り返してはいけない。日本国憲法には、戦争をくぐり抜けた国民の思いが色濃く織り込まれている。 「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」。憲法25条のこの規定は、連合国軍総司令部(GHQ)の草案にもなかったものだ。後に文相を務めた森戸辰男議員らの要求で加えられた。 だれもが人間らしく生きる権利を持つ。政府にはそれを具体化する努力義務がある。当時の欧米の憲法にもあまりない先進的な人権規定だった。
転機を迎えているのは日本だけではない。世界の戦後秩序そのものが大きく転換しようとしている。そんな中で、より確かな明日を展望するために、やはり日本と世界の大転換期に誕生した憲法はよりどころとなる。
〈安原の感想〉 戦後秩序の大転換と平和憲法の存在価値 25条が国産であることは東京新聞よりもくわしく言及している。「連合国軍総司令部(GHQ)の草案にもなかったものだ。後に文相を務めた森戸辰男議員らの要求で加えられた」、「当時の欧米の憲法にもあまりない先進的な人権規定だった」などである。 いくらグローバル化の時代とはいえ、やはり国産ものは重要である。まして市場で売買される一商品ではなく、平和・人権にかかわる文化遺産ともいうべき貴重な思想であれば、なおさら大切に育んでいきたい。
私が注目したいのは次の指摘である。「世界の戦後秩序そのものが大きく転換しようとしている中で、より確かな明日を展望するために、やはり憲法はよりどころとなる」と。 今日の歴史的大転換期における平和憲法の大きな存在価値に着目した指摘と受け止めたい。着眼点は評価するが、できることならもっと掘り下げた分析と展望が欲しかった。東京新聞の感想でも指摘したが、25条と9条とを相互連関のもとで把握し、生かし、実現していくという視点を曖昧にしたままでは、平和や人権を饒舌に語っても空しく響く。
▽毎日新聞 ― 「ソフトパワー論」がよい素材
毎日新聞社説の眼目は以下の通り。
駐日米大使に、ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授が任命されるという。 今日の憲法問題でもっとも鋭い争点となっている「集団的自衛権」の行使の是非も、もともとは日米同盟の強化に不可欠のものという文脈で登場してきた。その最も有力な論客が米国の大使として日本に赴任する意味は小さくない。
「国の安全」という問題に限定しても、問題は山積している。とりわけ、世界的なパワーシフトの中で、従来の日本の安全保障政策でよいのか、再考する必要がある。ナイ教授が提唱する「ソフトパワー論」自体がよい素材であろう。
ブッシュ前政権はハードパワー(軍事力など)を過信してイラク戦争に突入し、世界の信望を失った。クリントン米国務長官は今後はこれにソフトパワーを加えたスマートパワーを米外交の基礎とすると表明した。強制力でなく人権重視の価値観や文化的魅力によって相手の自発的協力を引き出そうというのだ。
米国で「G2」論が台頭していることにも注目すべきだ。米中による世界経済運営論である。米国のアジアにおける2国間関係で優先順位ナンバーワンは日本から中国に移ったのではないか。北朝鮮が核とミサイル開発を手放そうとしない現状では、米国との同盟が日本の安全に不可欠なのは明らかだ。しかし、追随するだけでは日本は国際政治の脇役に追いやられ国益を守れない。
ソフトパワーが問われているのは米国よりむしろ日本であろう。
〈安原の感想〉 なぜ自前の平和論を語らないのか 東京や朝日の社説と読み比べて感じることは、毎日は「なぜ自前の平和論を語らないのか」である。ソフトパワー論の提唱者、ジョセフ・ナイ教授が駐日米大使になるからといって、彼ににじり寄ることはないだろう。いつまで米国産の安全保障政策に依存しているのか、という思いが消せない。 軍事力中心のハードパワー論が沈没状態に近いことは今さら論じるまでもない。だからつぎはソフトパワー論の登場だ、と単純に考えるのはいかがなものか。図式的に言えば、片やハードパワー論があり、その対極に日本国の平和憲法(平和的生存権を説く前文のほか、9条、25条など)が存在している。ソフトパワー論はその中間に位置しているのかどうか、いささか疑問である。
重要な点は、クリントン米国務長官のスマートパワー論が米軍の在外軍事基地、日米軍事同盟を前提にしていることである。オバマ米大統領は核廃絶を長期目標として打ち出したが、在外米軍基地の完全撤去、軍事同盟の解消を展望するところまでは進んでいない。こういう事情を考えれば、ソフトパワー論はハードパワー論にソフトな味付けを試みる程度のものとはいえないか。 軍事同盟を土台にした米国産の安全保障政策から自らを解放しないかぎり、変革のスピードの速い時代に取り残される懸念が強い。見据えるべきは平和憲法9条と25条の歴史的意義とその存在価値である。これ以外に毎日社説見出しの「もっと魅力的な日本」になる道筋は考えにくい。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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