在英バイオリニストのデービッド・ジュリッツさん(52歳)は、2年前、バイオリンと空っぽの財布を手にロンドンの家を出て、世界中をバスキングして回った。路上でバイオリンを弾きながら、通りがかりの人が恵んでくれるチップを生活費にしながら、50都市を旅した。室内楽オーケストラ「ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズ」のコンサートマスターという本職を持ち、BBCの音楽フェスティバル「BBCプロム」でソリストとして演奏したこともあるジュリッツさん。バスキングの目的は発展途上国の子供たちに音楽を学ぶ機会を与えるための募金活動だった。「ミューズクオリティー」というチャリティー団体を立ち上げるための第一歩だ。ミューズクオリティーが主催する世界バスキング・ウィーク(6月8日ー14日)幕開けに先駆け、ジュリッツさんの旅の体験談の一部を紹介する。(ロンドン=小林恭子)
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50歳目前になって、これまでとは何か違ったことしてみたいなと思ったのがきっかけです。今でなければできないことーそれがチャリティーのために世界中をバスキングして回ることでした。
バスキングのアイデア自体は2分でできたもので、こんな風に物事が進むと思ったんです、つまり
1.楽器とリュックサック、空っぽの財布を持って家を出る
2.近くの地下鉄の駅に行ってバッハを演奏する
3.次に進めるほどのお金が集まるのを待つ。
妻のジェーンには、バスキングから戻って来たら、一生寝床にお茶を運んでくると約束し、子供たちには絶対にひげを生やしたり、体臭を匂わせたり、サンダルの下に靴下を履いて帰ってこないという条件で、バスキングの旅に出ることを承認してもらいました。
旅に出る前に、一体どんなチャリティーのために演奏をしたらいいのだろう、と考えました。ベネズエラのエル・システマや南アフリカのバスケードという音楽チャリティーのプログラムについて、すごいなあと以前から思っていました。どちらのチャリティーも児童を対象とした音楽教育の振興を目的としていて、音楽を学ぶだけでなく演奏できるようにすることに力を入れていました。音楽教育は人生で何かを成し遂げるためのスキルを教えるものだ、という見方をしていました。
それで私は、発展途上国で同様のプロジェクトを始めようと思っている先生たちを応援できないかと思いました。既存の音楽プロジェクトはいろいろあったんですが、音楽プログラムを始めるという最初の大きなハードルを越えるために、先生たちを支援するチャリティーというのはほとんどなかった。そこで、ミューズクオリティーはこれを専門にしようと思ったのです。
―バスキングの旅の開始
西ロンドンにある自宅を出たのは2007年6月9日です。友人が作ってくれた真新しいバイオリンを持っていきました。自宅近くの駅前でバイオリンを弾くと、近所の人たちがずいぶん集まってくれていて、たくさんチップをくれました。
現実に直面したのは英国を出てからです。チューリッヒではアマチュアのオーケストラによるコンサートを聴きに来た人たちを前に演奏したのですが、あまりうまく行きませんでした。20分間演奏して、2スイス・フラン(2009年5月現在、約175円)だけ。ここのコンサートホールで前に演奏した時は、この400倍ぐらいの収入があったのに。ベルリンもあまり良くなくて、1日に平均11ユーロ(同約1,464円)。ライプチヒでは2時間で284ユーロを稼げたのですが、これは、ピアノの腕が立つ、当時の英国大使が自宅で私が演奏する募金集めのコンサートを開催してくれたからです。室内でバイオリンを演奏できるなんて、なんて贅沢なことだったかと後で思ったものです。宿泊費を節約するために、よく駅構内や列車の中でも寝ましたよ。
欧州の次はアフリカに向かいました。そこでミューズクオリティーが支援することになる音楽プログラムの参加者たちに会えたのですが、ほんの少しの資金でいろいろなことができるものだということを実感しました。
ウガンダのカンパーラ、南アフリカのケープタウンやソウェトでやって、オーストラリアに向かいました。バッハの好きな人がオーストラリアには多いことを初めて知りました。EBAYで自分を売る(誰かの自宅でコンサートをする権利を売る)こともやってみました。シドニーでは通行人の一人が私にバイオリンのアドバイスをしてくれました。「お金を稼ぐんだったら、もっと音符を長く弾かなきゃ」。
シンガポールに行った後はインドに渡るつもりでしたが、必要なビザを持っていなかったので台北に飛び、その後ひとまずは英国に戻りました。イングランド地方南西部ドーセットで開かれる、バートン・ブラッドストック・フェスティバルの監督をしているんです。
―日本へ
8月末からはまたバスキングツアーの開始です。香港は路上ミュージシャンにとってやりにくい場所だと話に聞いてはいましたが、実際、その通りで、最初の2,3日は警備員のような人たちに追いかけられながらの演奏でした。そのうち、バスキングにちょうど良い場所を見つけて演奏をしていたら、泊まる場所を提供してくれる人に出会って、2週間後に再度戻ってきてプライベートなコンサートで演奏し、非常に良い募金活動ができました。上海でも警備員に追いかけられながらの演奏です。天安門広場ではバスキングはまずいだろうと知人に脅かされていました。とりあえず、写真撮影のためにバイオリンを箱から出してポーズをとりました。
東京の代々木公園では、周りはロックバンドのアンプのきいた演奏があって、とてもシュールな環境での演奏となりました。
そのあとはソウル、香港、ブエノスアイレス、リオ、ベネズエラ、北米(バンクーバー、トロント、シカゴ、ボストン、ニューヨーク)・・・全部で24カ国、50都市を回りました。最も稼いだのは米スタンフォード大学でのバスキングで1時間480ドル(約4万6000円)。最も少なかったのは、サンタモニカで、3時間で10ドルでした。
―学んだ5つのこと
ツアーで私が学んだ5つのこととは
1.無視されるのは非常に簡単だ。コンサートホールの外が一番やりにくい場所でした。
2.どんなに宣伝に力を入れてもこれをお金に結びつけるのは至難の業だ。
3.世界にたくさんの良い人たちがいる。バイオリンケースの中に約1000ポンド(約15万円)の現金を入れて持ち歩いていましたが、一度も窃盗・強盗にあったことがありませんでした。
4.音楽は人の人生を変える、特に自分のアイデンティティーを見つけようとしている子供にとっては。音楽はいつも私を正気に戻してくれました。どんなにつらい日でも、1時間でも演奏していれば、またやるぞという気持ちがわいてきました。
5.最後に。家庭ほど素晴らしい場所はない。「簡単なアイデア」というものは存在しない。
―世界バスキング・ツアーを続けるために集めたお金:1万3000ポンド(旅費、食事、洗濯代、たまにビール代、約196万円、2009年5月計算)
―ミューズクオリティーのために集めたお金:2万5000ポンド(約377万円)
Musequality のウェブサイト
http://www.musequality.org/roundtheworld.html 「ニューズマグ」掲載分から編集・転載
http://www.newsmag-jp.com/archives/1298
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