2009年4月に3段式ロケットを発射し、5月には2回目の核実験をした後で、北朝鮮の開放や改革について考えるのは現実的でないように見える。南北朝鮮の関係は、ほとんど毎日のように悪化の一途をたどっている。2005年末以来、北朝鮮が社会主義新保守主義の時代に入ると、強硬派正統主義が驚くべき速さで戻りつつある。強硬派正統主義は、自力更生と大衆運動を強調し、前には推進されていた市場活動を取り締まり、過去十年のほとんどどの時期よりも厳しく、反帝国主義闘争を強調している。外交政策はそれと同期して、近年の進展を撤回し、合意を取り消し、軍事挑発を加えて、公式メディアはどぎついレトリックを増している。しかし、改善の希望はないのか?将来の選択を理解するには、現在にいたった出来事を検討、評価することが有益である。(Japan Focus特約)
社会主義社会の内部構造についての基本認識から予想できたように、2000年の南北朝鮮首脳会議後の改革と2002年7月に北朝鮮が採用した措置は、平壌の指導者たちにとってますます危険で厄介になった国内情勢を作り出した。改革は多くの失敗と欠陥をさらけ出した。劇的なハイパーインフレを起こし、少数の生産者(農業)のための自由化に重点を置き、一方、多数(工業)は、従来の計画経済の非効率な指導の下に置かれたままであった。しかし、これだけでは、なぜ改革が広がるのではなく、いま抑制されているのか理解するのに十分ではない。
重要なことは、比較的短期間に北朝鮮の人々は、多くは初めて、国家の庇護の外に生活があることを発見した。彼らは突然、お金の力を認識した。その価値は、それ相応に変わり、世界のほとんどが当然と考えるものに近づいた。彼らは、お金は暮らしを支えだけでなく、権力、健康でさえ買え、政治的な動機で便宜を計らう国家とは違って、お金は大体では、公正であることを理解した。経済管理と政治指導の社会体制は、時代遅れに見え始めた。おおむね平等主義的な社会がいったん、急速な多様化を経験すると突然、勝ち組と負け組が生まれ、多くの答えの見つからない疑問が生じ、個人的野心が湧き上がる。
さらに悪いことに、北朝鮮の開城にある南北共同の工業団地数で、数万人の若い北朝鮮の女性が日常的に超近代的な韓国の労働環境の恩恵を経験する機会を持った。それがいかに大きく彼らの考えを変えたか、またどのような話を家に持ち帰ったかは想像できる。いつもの職場(ほとんどが男性の)での韓国人との交流の影響については言うまでもない。北朝鮮の人々にとって有名な行楽地であった金剛山は、南からの階級の敵を満足させる金儲けの場所になってしまった。
韓国人はお金を支払い、北朝鮮の人はサービスを提供した。チュチェ(主体)や先軍という誇り高い超民族主義的イデオロギーとは、どれほどかけ離れているか。さらに悪いことに、南からの観光バスは、景色はいいが、大部分は孤立した山に入るだけでなく、開城という人口密度の高い町にも入った。文化交流として、それは超現実的であった。仕事に出かける北朝鮮の人は動物園にいる動物のように見つめられた。彼らができることは見返して、怪訝に思うだけであった。
南の人々とそのような接触をした北朝鮮の人々のすべてが、沈黙を守ったとは信じ難い。それは他の旧社会主義諸国での多くの忘れられた話の一つである。政権の反対者だけでなく、強い信念の持主は特に、そうした屈辱をやめさせるように要求した怒りの請願書を上部に出した。従って、地方からの報告が平壌に殺到しているに違いない。新しい種類の犯罪の話、負け組の不満が増大していること、勝ち組の見境のない振る舞い、この誇り高い社会主義社会がなぜ、金持ちの南のいとこに対して、そんなふうに自分たちを卑しめるのか尋ねる。地方の役人は、彼らに向けられた怒りで不満を抱き、上部にそれを伝える者もいるであろう。北朝鮮の公文書がいつの日か公開された時に、これについてもっと知ることになるであろう。
多くの点で、北朝鮮はいまだ特異な社会である。しかし、経済の貨幣化や外部の情報へのアクセスなど一部の側面で、ゆっくりだが着実に東欧の旧社会主義諸国のようになりつつある。1989年に、こうした外見的には安定した社会主義国家がすべて数週間で崩壊するとは誰が考えたであろうか?北朝鮮は外部からは強く、頑丈に見えるが、内部的には、ゆっくり崩壊しつつある。確かに、これは時間がかかる。だが、プロセスは始まっている。速度が遅くなることはあり得るが、止まることはない。
一つの理由は、社会主義は道徳的優越性を前提に打ち立てられているということである。これは、国家がそのイデオロギー的原則を破らない限りにおいて、厳しい困難があっても、回復力を非常に強くさせる。金正日は1995年に情勢を正しく分析し、次のように書いた。「いくつかの国で社会主義が崩壊したことについての最も重大な教訓は、社会主義の腐敗はイデオロギー的腐敗で始まり、イデオロギーの最前線での崩壊は社会主義の全面的崩壊で終わる」。しかし、イデオロギー的腐敗は起きている。東欧で示されているように、道徳的優越性という偽りの主張は、重い負債になり得る。強みは突然、弱みになる。実際、平壌の指導者たちは人心を失いつつある。
金正日は今、時間の歯車を巻き戻そうとしているようだ。現在、2000年から2004年の間の政策の完全な逆転が起きている。2001年1月、労働新聞で金正日は「事態は60年代とは違っている。そのため、過去にやっていたようなやり方をしてはいけない」と書いた。しかしながら、2009年3月には彼は、当局者は「50年代や60年代にやっていた同じ仕事のやり方を発揮して、大衆を精力的に指導しなければならない」と述べた。この後ろ向きの行進を図表にできる。北朝鮮の公式メディアが「社会主義」「チュチェ(北朝鮮の公式的国家イデオロギー)」「先軍」という言葉を使う頻度は2004年から2009年に倍増した。
(朝鮮中央通信の記事で、1997年から2008年の第4四半期と2009年の第1四半期における「社会主義」「チュチェ」「先軍」という言葉が使われた数) <A href="http://japanfocus.org/data/4589_image001.gif" target="_blank">グラフ1</A>
新しい流行り言葉には、「一心団結」「集団主義」「自力更生」「精神力」がある。現在では、2002年1月にPeople’s Koreaが、金正日は「外国貿易は資本主義のメカニズムと原則に従って行われるべきという事実」を指摘したと報じたことは信じられないほどだ。
ミサイルと核実験 安定を回復させる
経済改革で起こされた、ゆっくりではあるが着実な社会の崩壊で、北朝鮮指導部は対抗措置を取った。彼らは、遅くとも2005年から国内の安定を回復させようとしてきた。しかし、道徳の低下と高まる社会の個人主義を非難する「ある女学生の日記」のような映画、長い髪や西側の服装に反対する運動、それに汚職と過度な市場取引に反対する戦いは、うまくいっていない。
上記のように、過去の社会的変容が逆戻りする可能性はない。しかし、内部的圧力が体制の変化を起こすのに十分なほどに高まるのにどれほどかかるかは不明である。東欧はこの点に達するのに数十年かかった。遅くなる理由に留意することが重要である。一つは、1980年代末までは改革を抑えるソ連の粘着的力があった。この要素は、米国とその同盟国の圧力をそれに相当するものと見なさなければ、北朝鮮の場合は欠けている。ゴルバチョフが介入しないことを明らかにするとすぐに、1968年の「プラハの春」が東欧全体で繰り返され、今度は成功した。政権に対する外部の圧力は、強迫観念を作り出し、従って、その国に軍事に駐留することにより変革を直接的に防ぐのとは非常異なるが、影響は似ている。国際的関心がない中で、北朝鮮がどのように発展するのか見ることは興味深い。
神のように尊敬され、崇拝された父なる指導者の存在という、朝鮮民主主義人民共和国政府の以前の強みは、継承が公式に解決していないため、体制には不利になりつつある。金正日は自己犠牲的な病人としてテレビに現れ、平壌は次に何が起きるかについてうわさと不安定であふれている。金正日は、第7回党大会が整然とした権力継承の場所となり得る2012年まで生き延びられるのか?
まだ20代の3男が、少し名前を変えて、(金正日の誕生日の216という)非常に象徴的な数字の選挙区で選出され、国家や党の階層でポストを与えているというのが事実だったとしても、これは弱さ、不安定、パニックといった状況に付け加わるだけである。そのような世襲が、完全で大規模なイデオロギー的準備と確固とした実権の構築なくして、うまくいくと考える北朝鮮の専門家はほとんどいない。強化された国防委員会が、うまくいけば、集団的指導部の場として権力を握るであろう。
だが、金日成の孫への権力移譲の進行役としては、それは失敗するであろう。父の息子として数年間、統治した後に、独立したイデオロギー的立場を強めようとしている金正日の最近の試みは、時間的に遅すぎる。彼がいま死んだら、彼は太陽ではなく、月として記憶されるであろう。父親とは違って、息子を十分に明るく輝かせることはできないであろう。彼はしようとするかもしれないが、無駄であろう。世襲は2009年には前より、ありそうに見える。だが、目標が第3の偉大な指導者を作りあげることなら、持続する可能性は低い。ほとんどの専門家は、金日成の孫が次の最高指導者になったとしても、彼の役割はその2人の前任者の役割とは大幅に違ったものになるであろう、という点で一致する。
2006年10月の党創立記念日前の最初の核実験と2009年4月の金日成の誕生日前のミサイル実験の間には2年半があった。しかし、数週間後、平壌は残る数少ないカードの一つを切った。今度は目立つような縁起のいい行事の日ではなかった。外交政策の観点からは、それは無駄であった。もっと重要なことに、2009年5月の核とミサイルの実験は、中国がメンツを失うことなく、国際社会に自制を要請することをほとんど不可能にしている。
北朝鮮は、対外関係のゲームのために貴重なカードを投げ出し、ただ一つ残る同盟国を怒らせた。一番いい説明は、核実験は主に国内的な理由からだというものである。もしそうなら、北朝鮮の国内情勢は極めて緊張しているに違いない。主な目的は米国の注意を引くためという考えは、一般的であるが、説得力がない。この目的は4月のロケット発射で既に達成されている。確かに、北朝鮮はワシントンの関心を必要としていることは分かっている。けれども、クリントン国務長官が7月に叱ったような、手に負えない子供としてではなく、近隣諸国や米国と対決的協力という有利なゲームを続けさせるためである。
西側の大きな失敗
かつて驚くほど希望に満ちた展開であったものが失敗したことは、国際社会の失敗でもあった。2002年後半、米国はイラク侵攻の準備をしていた。従って、自己改革をする、ならず者国家が成功することは、ブッシュ大統領が最も望んでいないことであった。EUはバランサーとして動けず、ベルギーと北朝鮮の間で外交関係が結ばれた1年そこそこの2002年11月に、EUは北朝鮮に対する開発援助への制限を発表した。
日本では保守派が、金正日が2002年9月の小泉首相との首脳会談で、以前は否定していた拉致を異例な形で認めたことと5人の拉致被害者の解放を、国内の政治的目的のために使った。2002年7月の改革に資金を提供するために北朝鮮へ大規模な経済援助をするのではなく、拉致問題が完全に解決するまで、経済協力を縮小した。北朝鮮のエリートの間で、これが金への評判にどのように影響を及ぼしたか想像できる。
国際援助団体が北朝鮮内でかつてない自由な動きが許され、市場がより大きな影響を与え、北朝鮮の人々が内外での経済セミナーで西側から学ぶことに興味を示していたという事実に西側は満足することもできた。しかしながら、われわれが北朝鮮で示した洗練さより、ギリシャ人がトロイで示した洗練さの方が上であった。さらなるアクセス、さらなる透明性、さらなる情報、さらなる譲歩を要求したことを、平壌はデータマイニングと政権変革を狙った無遠慮な試みとみなした。このため、国際組織は活動を制限され、そのほとんどは国外に追放された。
重要な点は、改革派を支援できなかったということである。自生的改革には、国内の促進者が必要である。これらは大きな危険があり、指導部に方針を堅持することを確信させるために、時々いくつかの成功例を示さなければならない。しかし、われわれは、北朝鮮の改革派にチャンスを与えなかった。ワシントンは「ピグミー」との対話を拒否し、悪い行いに褒美を与えなかった。それは、北朝鮮の強硬派に、改革は国家の敵であるかのように見える論拠を次々と与えた。北朝鮮が海外に口座を持つ銀行のひとつである、マカオのバンコ・デルタのケースは多くの例の一つにすぎない。
2005年9月の6者協議で画期的合意が結ばれた数週間後、同銀行は米国財務省に資金洗浄の疑惑から圧力をかけられ、厳しい問題に直面したばかりではなく、北朝鮮は数ヶ月間、現金で国際ビジネスをしなければならなくなり、国際金融システムを通じて衝撃を与えた。約束された軽水炉は提供されず、1990年代に平壌の関心を核兵器からエネルギーへそらせようとして作られたKEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)は、解散した。テロ支援国家のリストから除外する速度は恐ろしく遅く、また北朝鮮に新たに膨大な要求が加えられた。
双方とも、これに関する2007年2月の合意を違って解釈し、米国のバラク・オバマ新大統領は北朝鮮に関心がないことを示唆した。これがすべて真実というわけではないということをわれわれは知っている。しかしながら、米国の戦略は、枠組み合意が結ばれた後の1994年の場合のように、崩壊を望みながら、慇懃に無視することのように見える。軽水炉は提供されないことになっていたと暗示するものがある。本当かどうかは別にして、現在、平壌で米国を信用しようと提案して自分のキャリアを危険にさらす間抜けな者はほとんどいない。多くの北朝鮮の人々にとって、米国は強硬策だけを真剣に取り上げるようにみえる。
非自発的な保守派同盟
2005年までに、原形での改革は成し遂げられないことがはっきりした。そして、北朝鮮社会は崩壊し始めた。何かしなければならなかった。明らかに、改革の範囲を広げることに反対するという決定がなされた。特に、9・11テロ後の新たな国外情勢とその影響、とりわけ、サダム・フセインのイラクに対する戦争のためであった。そのため、改革を撤回することが残された選択であった。しかし、一つのジレンマがあった。改革は金正日の責任であり、たぶん彼の主導で始められたのであろう。個人化された独裁制の弱みは、指導者は無謬であるとされていることだ。指導者を基礎にした体制では、指導体制の正当性と全体の体制を損なうことがないよう、誤りを認めることはできない。さらに、経済的自由を抑えることは比較的容易であるが、それをまず与え、それから奪うことは非常に危険である。
従って、改革はゆっくりと次第に元に戻され、好ましくない副作用は広がり続けた。この複雑な情勢の中で、北朝鮮は2008年初めに韓国の新しい保守的な現実主義の政策が提供した機会を喜々として利用した。それは、平壌の社会主義的新保守主義を脅かしていた状況を終わらせた。10年間続いた金大中と盧武鉉の両大統領の太陽政策は、北朝鮮を無防備にした。この事実は韓国では適切に理解されていない。北朝鮮の体制は圧力に耐えるように作られている。しかし、一貫して友好的な行動に対しては、守りをほとんど持たない。北朝鮮が終局的に崩壊した時に、これは2000年から2007年の間の関与政策の長期的結果となるであろう。しかしながら、これは種をまいた人が収穫する人ではないことがよくあるという、繰り返される歴史の皮肉である。
保守派の李明博大統領が2008年初めに政権につき、リベラルの支配が終わると、彼は前任者が北に与えた支持は非効率で、考えの甘い、無条件なものと見なし、それをやめた。安堵の溜息をついた後、平壌の新保守主義派の指導部がしなければならないことは、彼が信念を貫くように、時々、彼を怒らせることであった。南の寛大さに恩恵を受けた人々は和解を進めることを支持する可能性のある人々であり、賢明にも沈黙を守った。李は統一に反対する者、ファシスト、狂人、ゴマすりだとされた。彼は、2000年6月15日と2007年10月4日の南北朝鮮首脳会議の合意を破り、旧宗主国の日本と協力し、「米国の戦争挑発家」の側に付いていると非難された。下のグラフは北朝鮮の宣伝マシーンの機敏な反応を示している。
(1997年から2008年の第4四半期と2009年第1四半期での「傀儡」「裏切り者」という言葉のあるKCNAの記事の数) <A href="http://japanfocus.org/data/3296_image002.gif" target="_blank">グラフ2</A>
同時に、包囲されているという北の精神構造は、敵の軍事演習、空中偵察、人権や宇宙の平和的利用に対する外交的攻撃が言及されることで、強化された。そのような情勢下で一般の北朝鮮の人々は、社会主義を弱体化させるものはなんでも除去されなければならないとしぶしぶ受け入れなければならなかった。彼らは、商売をする代わりに、国家機構でのキャリアをあきらめることはいとわなかったかもしれないが、国家への裏切り者になることはできなかった。数十年間の民族主義的宣伝の結果、政権の安定は独立に等しいもので、個々人の経済的福祉以上であると信じ込ませた。現在の韓国政府は無意識に、北朝鮮の指導部に何人かの人的スケープゴートを含む改革者を次から次への殺す口実を与えるのを助けた。
改革と開放に未来はない?
誰の誤りにせよ、北朝鮮における経済改革と開放の現在の状態は、粛然とさせるものである。2008年12月から、「革命的大高揚」と呼ばれる大躍進の北朝鮮版が復活させられ、市場原理の創造的適用に取って代わられつつある。北朝鮮の人々は現在の「150日戦闘」のような大衆運動に参加するように求められている。
いろいろな意味で、これは既視感のように見える。われわれは、これを以前見たことがあり、どのように終わるか知っている。労働者を大規模にやる気を起こさせるようとすると、人々を疲れ果てさせ、勢いを失う。個人所有が認められないことで、懸命にかつ能率的に働く、やる気を減退させる。経済政策の決定の官僚化は、誤った資源の配分、自発性と創造性の不足、そして終局的に生産の減少につながる。工業国として、北朝鮮は収益を生み出すために国際的協力が必要であり、発展のためには外国資本と技術の注入が必要である。国際的孤立は、こうした資源のすべてへのアクセスを妨げ、持続不可能である。
北朝鮮の公式データを基にした下のグラフ3は、経済が改革期が終わって以来、いかに縮小しているかを示している。公式のマクロ経済のデータの代わりに、GDPの指標となるものとして、国家収入(毎年の国会期間中に発表される)を理解してみよう。その理屈は、国家が所有する経済では、国家予算は、議会の管理が及ばないとされる「第二」(軍事)経済を引いた国の予算であるということである。
(予算に準じた、北朝鮮における経済成長 成長率はパーセント) <A href="http://japanfocus.org/data/2235_image003.gif" target="_blank">グラフ3</A>
データは、北朝鮮における成長は原則的に可能であることを示している。前提条件の一つは、外国の協力であり、それは平壌と近隣諸国の首都へのメッセージである。北朝鮮が崩壊しない限り、指導部は長期的には、国際的経済協力と新たな市場改革―今回は工業に焦点を当てたものーに戻る道を探るしか選択の余地はない。関連した政策決定のプロセスは、主に国内的なものである。外部世界は、最近の軍事的挑発に強い懸念があるにもかかわらず、一定の条件の下で協力する用意があると信号を送ることで助けることが可能である。
外からの圧力は北朝鮮の恐怖を増すだけでなく、反改革勢力を勢いづけてもいる。明確なビジョンを持った米大統領なら、北朝鮮に対して欲しいものを与え、数年間は安定して、独立し、経済的にうまく行き、政治的に自信を持った偽社会主義体制とうまくやっていける用意があるであろう。これには、拡散しない核を持った主権国家として北朝鮮を受け入れること、外交関係の樹立、朝鮮戦争を正式の終える平和条約の締結、すべての関係国際機関への加盟、融資と外国の直接投資を利用できるようにすることなどが含まれる。
欧州や中国でもそうであったように、良い結果がいずれ起きるであろう。太陽政策を見て、関係改善は既に試みられ、失敗したと言う人がいるかもしれない。しかしながら、そうした試みは南北関係に限定され、東京とワシントンからの非常に異なった政策で損害を受けた。従って、平壌へ協力を提示するうえでの長期で、協調された試みがどのような効果を持つのか、われわれは見守っている。
確かに、西側がそのような受け入れ難いことを受け入れる準備ができているとは想像し難い。われわれ自身の宣伝や当然な懸念に閉じ込められた結果、「悪い行いに報いること」や「悪魔と交渉すること」が想像すらできなくなった。人権侵害や公然と大量破壊兵器を開発している国へ資金を流すことに関与したいと思う理性的な政治家はいない。一方で、北朝鮮の崩壊を待つ以外の現実的な選択肢はほとんどない。外交的承認、経済支援、北朝鮮をASEANプラス3のメカニズムの枠組みへの地域統合など安全保障への創造的方法が探究されるべきである。結局、これは北朝鮮とわれわれに2度目のチャンスを与えることが可能である。双方ともより賢明にそれを使うことを期待しよう。
*ルーディガー・フランク ウィーン大学東アジア研究所教授 欧州気鋭の北朝鮮・韓国専門家。Japan Focusアソシエーツ
<A href="http://japanfocus.org/-Ruediger-Frank/3197" target="_blank">原文</A>
(翻訳 鳥居英晴)
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