瀬戸内海・鞆の浦の景観を「国民の財産」と認定した広島地裁判決が大きな波紋を広げている。争点は歴史的景観の保護か、それとも車社会の利便性重視かであったが、原告側が訴えた「景観の保護」に軍配が上がった。高く評価すべき歴史的判決である。 排ガスを大量に撒きながら自家用車が走り回る車社会そのものがすでに時代遅れである。そういう車社会は、なかでも歴史的景勝地には似合わない時代の到来と受け止めたい。観光地を車で忙しげに回っているクルマ依存症の人々が少なくないが、殊に歴史的景勝地であれば、ゆっくり歩きながら、その文化的価値を玩味したい。歩く価値の再生を今回の判決は示唆している。
▽新聞社説は「鞆の浦」判決をどう評価しているか
広島地裁(能勢顕男裁判長)が09年10月1日言い渡した判決「瀬戸内海の景勝地・鞆(とも)の浦(広島県福山市)の埋め立て・架橋計画は認めない」について大手5紙の社説はどう主張したか。まず各紙社説の見出しを紹介する。 *毎日新聞(10月2日付)=鞆の浦判決 町づくりに景観生かせ *日経新聞(10月2日付)=景観損ねる公共事業にはノーと言える *東京新聞(10月2日付)=『鞆の浦』勝訴 ポニョも喜んでいる *読売新聞(10月3日付)=「鞆の浦」判決 景観保護と地域振興の両立を *朝日新聞(10月5日付)=「鞆の浦」判決 景観利益を根付かせたい
5紙社説の要点をごく簡単に紹介すると、以下の通り。
〈毎日社説〉=鞆の浦の埋め立て・架橋計画について、広島地裁が原告住民の訴えを認め、県知事に埋め立て免許を出さないよう命じた。「景観利益の保護」を理由に公共事業を着工前に差し止めた初めての判決だ。ひとたび景観が破壊されれば「これを復元することは不可能」と判断した。「動き出したら止まらない」とされてきた開発行政のあり方に一石を投じるものとして評価したい。 町づくりの主人公はあくまで住民である。景観か利便性かの二項対立に終わらせず、判決を契機とし、新しい発想で議論を深めてほしい。
〈日経社説〉=近年、景観を守ることへの社会的関心が高まっている。判決はその流れを一歩進め、民間の高層建築などだけでなく公共事業も景観保全のため中止の対象になる場合があることを法的に認めた。私たちの価値観にも沿ったものとして評価したい。 判決は鞆の浦の景観を「国民の財産というべき公共の利益」と認める一方、渋滞解消など事業の必要性については「調査・検討が不十分」と断じた。そのうえで景観への損害と事業によって得られる利益を比較し、事業は不合理であり行政の裁量権の逸脱にあたると結論づけた。
〈東京社説〉=鞆の浦。昨年大ヒットした宮崎駿監督のアニメ映画「崖(がけ)の上のポニョ」の舞台になった。その海や町並みの歴史的景観価値が司法のお墨付きを得た。ポニョもきっと喜んでいる。 歴史的景観価値の重要性は、世界遺産ブームを見れば明らかだ。ドイツ・ドレスデンのエルベ渓谷は、架橋のために世界遺産の登録を抹消された。観光価値だけではない。ソウル市の中心を流れる清渓川は、上を覆った高架道路を取り外し、暗渠(あんきょ)から自然河川に復元されて市民の憩いの場になった。景観重視は世界の流れだ。
〈読売社説〉=鞆の浦の街路は、車がすれ違えないほど狭い所が多く、観光客の車などで混雑が深刻だ。人口は減り、高齢化も進んでいる。 県と市の開発計画は、港を横切る海上のバイパス橋で交通難を解消し、湾岸の埋め立て地に観光客用の駐車場やフェリーふ頭を整備し、地域の活性化を図ろうというものだ。 山側にトンネルを通す代替案もあるという。「歴史的、文化的価値を有する国民の財産」である景観を保全しながら、地域を振興させていく。難しい課題だが、これを実現するために、自治体は計画を再検討することも必要ではないだろうか。
〈朝日社説〉=政権交代の結果、「いったん動き出したら止まらない」といわれてきた大型公共事業の見直しが進行中だ。今回の判決はそうした流れを加速させることにもなるだろう。市民には敷居が高いと批判されてきた行政訴訟が様変わりしたことにも注目したい。公共事業を事前に差し止める訴えができるようになったのも、司法改革の一環で行政事件訴訟法が改正されたからだ。住民の意思を早い段階から行政に反映させるために、こうした仕組みをもっと活用したい。 開発重視から景観保全へ。かけがえのない景観は地元を潤す観光資源にもなる。
▽鞆の浦の歴史的景観価値のイメージ
以上の社説を読む限り、いずれも鞆の浦の景観について判決が打ち出した「歴史的、文化的価値を有する国民の財産」、「国民の財産というべき公共の利益」、「景観利益の保護」という判断を高く評価している。東京社説の「歴史的景観価値の重要性は、世界遺産ブームを見れば明らかだ」という指摘からも分かるように、それが21世紀の時代の要請とも合致しているという認識を共有するときである。 そのためにもここで改めて、鞆の浦の歴史的景観価値とは何か、そのイメージを整理しておきたい。
各紙の記事からつぎの諸点を挙げることができる。 ・万葉集にも詠まれた景勝地であること。大伴旅人の「吾妹子(わぎもこ)が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」など8首が万葉集に残っていること ・古くから「潮待ちの港」として栄え、江戸時代に寄港した朝鮮通信使が「日本で最も美しい」とたたえた港町であること ・階段状になった船着き場の雁木(がんぎ)、常夜燈、波止、船の修理をした焚場(たでば)、船番所という、近世の港を特徴づける五つの要素すべてが残る日本で唯一の港であること ・対岸の島々が織りなす瀬戸内の穏やかな風景は、盲目の箏曲演奏家・作曲家、宮城道雄(1894〜1956年)の代表曲「春の海」のモチーフになったこと
以上のように列挙してみると、世界遺産の選定に影響力を持つとされるユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議」(イコモス)が「国際的な文化遺産の宝庫」と折り紙を付けて、埋め立て・架橋計画の中止を求める勧告を2度も決議しているのも「なるほど」とうなずける。
そもそも広島県、福山市による埋め立て・架橋計画はなぜ持ち上がったのか。各紙社説も指摘しているが、ここでは読売社説を引用する。 「鞆の浦の街路は、車がすれ違えないほど狭い所が多く、観光客の車などで混雑が深刻だ。県と市の開発計画は、港を横切る海上のバイパス橋で交通難を解消し、湾岸の埋め立て地に観光客用の駐車場やフェリーふ頭を整備し、地域の活性化を図ろうというものだ」と。 要するに鞆の浦の交通渋滞を緩和し、車社会の利便性を高めるために湾岸埋め立てや架橋が必要だというもので、これに対して「鞆の浦の景観を守ろう」という反対運動が広がった。
▽景勝地に車社会は似合わない(1) ― 利便性にこだわるのは疑問
画期的な判決後の展望はどうか。毎日社説はつぎのように指摘している。「町づくりの主人公はあくまで住民である。景観か利便性かの二項対立に終わらせず、判決を契機とし、新しい発想で議論を深めてほしい」と。 この主張は、景観の価値保存と車社会の利便性をどう両立させるか、議論してほしいと言っているにすぎない。どうすべきかという具体的な提案はない。昨今の各紙の新聞社説の多くは、材料の提供や分析はあっても、ではどうしたらいいのかという改革のための提案が少ない。肝心なところを逃げている。これでは多様なメディアのなかで「主張する新聞」としての存在価値は低下していくほかないだろう。
結論を先に言えば、私(安原)は歴史的景勝地に車社会は似合わない、と考える。こういう視点がメディアの多くに欠落している。有り体に言えば、景勝地では車社会としての石油文明の利便性を高めることにこだわるのは疑問、と言いたい。 広島地裁判決文はつぎのように指摘している。 ・道路整備効果について 調査は不十分である。県知事がコンサルタントの推計結果のみに依拠して、埋め立て架橋案の道路整備効果を判断するのは、合理性を欠く。 ・駐車場の整備について 駐車場確保を目的として埋め立てをしようとするのは、鞆の景観の価値をあまりに過小評価し、これを保全しようとする行政課題を軽視したものというべきである。
日経社説は、つぎのように書いている。 判決は、渋滞解消など事業の必要性については「調査・検討が不十分」と断じた ― と。要するに交通渋滞の解消を目指す架橋工事や駐車場設置のための埋め立ての効果を認めない判決ということだろう。いいかえれば、歴史的な景勝地で排ガスをまき散らしながら自動車を乗り回す時代ではもはやないという趣旨の判決とも読みとれる。
現下の自家用自動車中心の車社会の展望については、私はその終わりが始まりつつあると認識している。その基本的背景として我が国の総合交通体系をどう再編成していくかという課題がある。具体的には現在の車中心の交通体系から鉄道、バス、路面電車、自転車、徒歩などを組み合わせた新しい交通体系に改革していくことである。
自家用車中心の社会が時代遅れになってきたのは、その弊害が大きすぎるからである。地球温暖化を進める二酸化炭素(CO2)の排出量が交通手段の中で最多であること、交通事故による死傷者数は年間100万人(うち死者は約6000人)を超えていること ― などのためだけではない。石油エネルギーが枯渇に向かいつつあることも軽視できない。 車依存症のため、多くの人があまり歩かなくなって、寝たきり候補者が増えている。将来の寝たきりを希望する人は居ないはずで、自分自身の健康のためにも、日常的な徒歩を重視したい。
厚生労働省によると、09年9月15日現在の100歳以上の高齢者数は、4万399人(男性5447人、女性3万4952人)と初めて4万人を突破した。 男性の最高齢者、木村次郎右衛門さん(112歳)は、「定年退職後は90歳ごろまで田畑を耕す生活を送り、現在は毎日、縁側で自転車をこぐ動作を100回続けている」と伝えられる。「足を使って元気な毎日を」がモットーであり、車依存症への警告と受け止めたい。
▽景勝地に車社会は似合わない(2) ― 歩いて文化価値を玩味しよう
景勝地における歴史的文化的価値も歩きながら玩味する時代とはいえないか。 例えば小樽市の運河は観光価値としても名高い。私が訪ねたのは20年も昔だが、運河を景観として残すか、それとも埋め立てして道路を拡幅し、自動車時代に備えるかをめぐって大論議の末、運河を残すことになったと聞いた。その運河のお陰で観光都市として成長している。
詩人、作家として著名な島崎藤村(1872〜1943年)の生地、馬籠(まごめ・長野県)も訪ねてから15年以上も経つが、藤村の記念館がある通りは車走行禁止であったことが印象に残っている。自由に車が走れるようでは今頃は閑古鳥が鳴いているのではないか。 天下の景勝地として多くの人が訪れる上高地(長野県)にしても同じである。観光バス以外の車は乗り入れ禁止となっている。だからこそ魅力を保ち続けているのだろう。改めて訪ねてみたいと思案している。
鞆の浦は居住者が多いという点では小樽市と似ている。上高地などと同類として観察するわけにはいかないだろう。しかし私(安原)事になるが、車が乱暴に走り回るような鞆の浦には魅力を感じないし、訪ねる気もしない。 実を言うと、私は鞆の浦には何度も訪ねたことがある。JR福山駅からバスで鞆へ行き、町内を歩きながら歴史的景観を含めて名所を回る。それほど広い街ではないので、車に頼る必要はない。歩くことで十分堪能できる。観光客も歩くことを原則にして、街への出入りはバスに限るような手だてを工夫する必要もあるのではないか。その方が景勝地としての価値も一段と高まるに違いない。
テレビで見る限り、広島県や福山市の埋め立て・架橋計画の担当者は「事業は続行」と判決後もこだわっているが、何のためなのか。名目は「車利用の利便性」で、実体は公共事業につきものの政官業三者による癒着と利権構造が仮にも絡んでいるとすれば、将来、「歴史的景観」転じて、見向きもされない「廃墟」と化す恐れも少なくないことを指摘しておきたい。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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