11月4日。今朝は、この秋一番の冷え込みだった。 昨日は、テヘランにしては珍しく、朝からの雨が終日降り続き、深夜には暴風雨になった。このままもう一日雨が続けば、明日のデモも中止かな、などと淡い期待が胸をよぎったが、一夜明け、朝の目覚ましがなったときには、まぶしい朝日がカーテンの隙間からこぼれていた。
今日、11月4日、イラン暦アーバーン月13日はアメリカ大使館占拠記念日である。1979年、イスラム革命が勝利したその年、急進派学生たちが、「スパイの巣窟」とされたアメリカ大使館を急襲、占拠し、大使館員らを444日間に渡って人質にとった。それ以来、この日は反米、反覇権主義の記念日となり、また、学生の日ともされている。
毎年この日には、保守派の学生たちが旧アメリカ大使館前に集い、「アメリカに死を」、「イスラエルに死を」のお決まりのスローガンが叫ばれる。そうした官製デモには興味はないが、今年は違う。9月に行なわれた「世界ゴッツの日」同様、改革派が便乗デモを呼びかけているのだ。 しかし、改革派は場所を発表していなかった。恐らく、これまで集合場所や行進ルートを事前に発表したことで、治安部隊や体制派市民に先を越されてきた経緯から、今回あえて未発表にしたものと思われる。体制派はもちろん旧アメリカ大使館前に集合することになっているが、改革派のデモは、恐らく市内のいくつかの中心的広場で分散して行なわれることになるだろう。旧アメリカ大使館にも近く、これまでのほとんどのデモの舞台となってきたハフテティール広場ならハズレはないだろうと目星をつけ、家を出た。
朝のバスは込んでいる。新型インフルエンザはイランでも広がりつつあるが、満員のバスの中でもマスクをつけている人は一人もいない。僕は持ってきたマスクをつけようとしたが、あろうことか耳に回すゴムが片方切れていた。下駄の鼻緒が切れたような嫌な気分だった。 しかし、実際、今日のデモはそれほど恐れるには価しない、と僕は自分に言い聞かせる。記念日といっても、平日だ。仕事のある一般の人が参加できる時間帯じゃない。改革派のデモの規模は、1ヵ月半前のゴッツの日ほど膨れ上がることはないだろう、と考えた。
20分ほどでバスはヴァリアスル広場に近づいた。繁華なこの広場には、平日の午前中にふさわしい人出が見られたが、店という店は破壊や焼き討ちを恐れて軒並みシャッターを降ろしている。そして、街路の至るところに5人、10人のグループで警備にあたる治安部隊の姿があった。
目指すハフテティール広場まであと1キロほどだというのに、道路は車両通行止めで、バスはこれより先には進めないという。バスや車を降りた人々の群れが、歩行者天国となった広い道路を、ハフテティール広場へと流れてゆく。
そのときだった。若い男女5、6人のグループが、改革派のシンボルであるピースサインを高々と掲げ、「ヤー、ホセイン!ミールホセイン!」(※)と叫んだのだ。次の瞬間、周囲の数十人が、その次の掛け声ではさらに多くの人が、そして、声は瞬く間に水の波紋のように広がり、あっという間に1千人近い人たちが一斉に声を上げた。
大地を揺るがすような叫びの中で、僕はひとり、呆気に取られて立ちすくんでいた。 こんなに多くの人が、という驚きと同時に、この国の失業率が20%近いことを思い出した。職を持っていたとしても、イランでは多くは個人経営で、決まった時間に出社しなければならないサラリーマンは少ない。デモは休日でなければ盛り上がらないということは決してないのだ。
行く手に小さな小競り合いが見えた。そこは北からの道路がぶつかるT字路で、やはりこの先のハフテティール広場を目指す人の流れが次々と合流していた。治安部隊が展開し、そこで人々の流れを食い止めていた。ハフテティール広場行きをそこで阻止するつもりらしい。
プロテクターで身を固めた治安部隊は、10人ほどの単位で行動し、騒ぎの場所へゆっくりとにじり寄っては、デモ隊を後退させる。時おり乾いた空砲が聞こえるが、催涙ガスはまだ使われず、衝突も起きていない。しかし、誰か一人でも投石を始めれば、一気に騒乱が始まる緊迫した空気に満ちていた。退路を確保しながら、しばらく様子を見る。カメラを出せるような空気ではない。イラン人ですら、カメラ付き携帯を手で隠すように撮影をしている。デモの取材では小型のデジカメですら目立ってしまう。高画質のカメラ付き携帯を買わなければと痛感した。
道路の向こうで、一人の青年が治安部隊に取り押さえられた。その途端、辺り一帯から、「ウォー」と鬨の声が上がる。この声には、いつも戦慄と武者震いを覚える。身も心も高揚して、一緒に雄叫びを上げたくなる。もし彼らと声を合わせることが出来たなら、恐れはそのまま勇気へと変わり、きっと、怖いものなど何もないという気持ちになるに違いない。この戦慄と興奮は、麻薬のような恍惚感を人に与える。僕はこの感覚を得たいがために、恐怖を押し殺してまで、またデモの只中に足を運んできたのではないかとさえ思う。もしかしたら、多くの人がそうなのかもしれない。
それからまもなくして、治安部隊の前で後退する人の流れとともに、僕はヴァリアスル広場に戻った。そこもすでに多くの改革派市民であふれ、あちらこちらからスローガンの合唱が聞かれた。 腕時計を見ると、すでに11時半近かった。とっくに職場に着いていなければならない時刻だ。旧アメリカ大使館はもちろん、ハフテティール広場でさえ、この様子ではたどり着けそうもないのは明らかだった。騒乱の前に立ち去らねばならない悔しさと安堵の両方を抱えながら、僕は市バスに飛び乗った。
バスはテヘラン市街を南北に貫くヴァリアスル通りを北へ向かう。行く先々で、気勢を上げる人々の姿を路上に見た。治安部隊との衝突も始まり、催涙ガスに逃げ惑い、互いにタバコの煙を掛け合う人々の姿もあった。
バスは治安部隊のバイク部隊と何度もすれ違う。彼らは無線で連絡を受けては、市内のあちこちを転戦しているようだ。そんなバイク隊の一つが僕の乗ったバスの脇を通り過ぎようとしたとき、道路の向こうから彼らに向けて一斉に投石が始まり、バイク隊も特殊な銃で応戦を始めた。イラン人の乗客たちもさすがに焦って、「ドアを閉じろ、早くバスを出せ!」と運転手に向かって口々に怒鳴っている。
突然、バスの後部半分の女性エリアから、改革派学生の愛唱歌「ヤーレ・ダベスターニーエ・マン(学友たちよ)」の合唱が始まった。溌剌としたその歌声を聞きながら、僕は思った。この混乱はこの先まだまだ続くだろう、と。この国がこれまで、国民と体制の団結を内外に誇示するために行ってきたパレードや官製デモは、今、分裂と反体制を叫ぶ場として、変化を求める市民に絶好の機会を与えている。こうした官製デモやパレード、セレモニー、記念日に類するものは、それこそ年に10回以上ある。その一つ一つが危険な暴発をはらんだものなら、はたして政府はその全てに、正しく対処してゆけるのだろうか。
※ ホセインは預言者ムハンマドの孫であり、シーア派3代目イマーム。シーア派イスラム教徒にとって抵抗と殉教というイデオロギーの象徴的存在。ミールホセインは、先の大統領選挙の結果に異議を唱えた改革派候補、ムーサヴィー元首相のファーストネーム。
*本稿は出版社めこんのホームページに掲載の「大村一朗のイラン便り」の転載です。
http://www.mekong-publishing.com/iran/iran.htm#26
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