米軍基地・普天間をどうするかという議論は、沖縄現地の鋭い、それでいて広範な深い闘いのなかで日米安保体制をどうするのだ、という議論と運動に深まってきている。そもそも日米安保とはいかなるものか。ピープルズプラン研究所の武藤一羊さんに、歴史的経過を押さえながら読み解いていただいた。武藤さんは“普天間基地「移設」でなく「閉鎖」“と提起して普天間をめぐる市民運動のひとつに流れを作り出している方でもある。これから3回にわたり掲載する。第1回は「第1次安保から第2次安保まで」、第2回は「冷戦の終わりからガイドライン安保まで」。第3回は「米軍再編と鳩山政権誕生」なおこの論考は、「新しい反安保行動を作る実行委員会」が9月22日に行った集会の武藤さんの報告をもとに、手直しいただいたものである。本稿はピープルズプラン研究所のウェブサイトと同時掲載になる。(日刊ベリタ編集部)
◆サンフランシスコ講和条約の発効
60年安保50年との話ですが、私は記念日というのはあまり好きではないのです。なにか記念行事をやって終わりになるというイメージがありますので。 しかし強いて記念日を問題にするとすれば、私は1960年ではなくて、1952年4月28日から考えた方がいいのではないかと思います。1952年と言うのはご承知のとおり、サンフランシスコ講和条約が発効した年、4月28日がその日です。そのとき私は、まだ学生で、東大の時計台前で全都の学生が集まって、講和安保両条約発効に抗議する集会が開かれ、私は急にその議長をやることになって、そのせいで退学処分になりました。その日以来大学には帰っていないのですけれども、そういう意味でこれは記念日的にいうと私にとって大事な時でした。
まあそれは個人的なことですが、戦後の日本を考える場合に、いくつか大きな選択の時と言うのがあったと思いますけれど、その第一の選択の時と言うのがその頃だったと思います。つまり、占領が45年から52年まで7年間弱続くのですけれども、その占領を一体どういう終わらせ方をするのか、それが決められるのがその時期で、その後の日本の進路を決める非常に重要な時期でした。 単独講和(片面講和)か全面講和かというのが、50−51年の政治的争点で、全面講和を求める運動が社会運動、政党や知識人などが協力して展開されました。アメリカが準備した講和条約は、いわゆる「自由世界」の国だけとの講和で、ソ連を除外することになる、独立を回復した日本は冷戦のなかでアメリカ側につくことを決定する講和になるということで、単独講和、片面講和だ、それにたいして全面講和を求めるという運動でした。
しかし吉田茂の率いる日本政府とアメリカはその片面講和を推進し、押し切った。それが1951年に調印されたサンフランシスコ講和条約ですね。講和会議にはインドやビルマは来ませんでした。中国は、中華人民共和国が成立していましたから当然北京政府と講和するのが当然でしたけれども、アメリカは台湾の国民党政府を全中国を代表する正統政府としていたので、これは認めない。かといって、台湾を中国代表として招待するのは、中華人民共和国を承認していたイギリスが認めない。そこで講和会議にはどちらもよばなかった。日本が侵略で最大の被害を与えた中国とは講和しなかったのですね。 サンフランシスコでは。そういうへんな講和なのですけれども、そのサンフランシスコ講和条約には、調印後90日以内には米軍は撤退すると書いてあるのです。
◆第一次安保条約の成立
ところがこの講和条約と同時に日本政府は第一次の日米安全保障条約に調印したのです。この条約によって日本はアメリカ軍の無期限駐留を受け入れることになりました。そしてこのときなされたもうひとつの重大な決定は、沖縄を切り離し、米国の軍事植民地として差し出したことですね。これは本当にあっさりと切り離した。 このいきさつについてはいろんなことが書かれています。沖縄をアメリカが支配するよう天皇がマッカーサーに頼みこむという醜いことも背景にありました。いずれにしても、この講和・安保両条約の調印が、戦後日本の進路を決定するもっとも重要な行為でした。この決定によって戦後の日本が、いわゆる自由陣営、冷戦の一方の極であるアメリカ側に立ち、米軍を駐留させることになった訳です。そして沖縄を切り離し、将来はアメリカ合衆国のもとで信託統治にするかも知れないということを決めた訳です。 沖縄はアメリカにとっては日本の一部というよりも、アメリカが自国の兵士の血を流して獲得した領土、征服した土地という考えがあるのです。アメリカが太平洋戦争における最大の戦闘をやって、アメリカ人の血を流して取った土地だという考えがあるのです。アメリカ軍部の本音は、沖縄をグアムのような属領にすることだったけれど、国務省がそれには同意しなかったので、日本の残存主権があるとした。しかし実際は沖縄を完全にアメリカ軍の支配下に置き、軍事基地として思うがままに使うことにしました。この沖縄の米軍拠点化を条件にして、日本は非武装でよろしいというのがマッカーサーの「東洋のスイス」論ですね。ですから、21世紀になった今日に直結するすごく重要なことがその時に決められていた。
しかしこの講和条約へ行く過程で、講和条約の後アメリカ軍が日本本土に居残る場合、どういう条件で居残るのかということについては、日本政府と米国との間に駆け引きがあった。その問題を鋭く追及したのは、豊下楢彦さんですね。どういう駆け引きかというと、いずれにしてもアメリカ軍は居座るけれども、それは日本からお願いして残っていただくのか、アメリカが残りたいと申し入れて、それを日本が認めるのか、をめぐる駆け引きなのです。 これはどっちでも良いように見えるけれどそうではない訳です。日本の外務省は、向こうが頼んできたから認めるということとして交渉するつもりだったのを、天皇ヒロヒトが、外務省もマッカーサー司令部も通さず、講和条約の交渉窓口であったダレスと直接交渉して、日本から駐留を頼んだという風に持っていくように工作して、それが功を奏したというのが豊下さんの議論です。それが正しいかどうか、私は判断する資格がありませんけれど、いずれにしてもこうした複雑なプロセスのなかでできたの が最初の安保条約ですね。
◆第一次安保条約の条文
こちらからお願いしたのか、向こうから頼まれたのかという観点から読んでみると、第一次安保条約には非常に変なことが書いてあります。日本はまだ武装解除されているので自衛権を行使する有効な手段を持たない。それだから「日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する」とある。ですからこちらからお願いするという形になったと読めます。 ところがそのすぐあとが、「アメリカ合衆国は、平和と安全のために、現在若干の自国軍隊を日本国内及びその附近に維持する意思がある」とあり、つまりアメリカも置いて欲しいという含みを入れてあるのですね。それで、第一条に「アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する」。訳が分からない。日本は「許与し」つまり頼みを聞き入れてやると日本が上に立つような表現ですね。そしてアメリカ合衆国がこれを「受諾する」というのです。「許与」することを受け入れてやるというのでしょうか。訳の分からない玉虫色の条文です。これが第一次安保条約です。
この第一安保はサンフランシスコ条約とともに日本のその後の進路を決める性格のものでした。そこでできた関係というのは、日本とアメリカの外交関係というものではなくて、むしろ日本国家というものの中にアメリカを取りこむ、そういう関係になった。それが一番はっきりしているのが自衛隊の存在で、これは朝鮮戦争の開始とともにアメリカがつくらせた軍隊で、日本の国軍ではない。警察の予備部隊という名目をつけたけれど、「予備」というの意味は、朝鮮戦争をやっていた米軍の後方を固める予備兵力だったのですね。
「間接侵略」という言葉が当時導入されました。それは、朝鮮半島では直接侵略、その後方の日本国内で起こる「暴動」などは間接侵略という位置づけで、それにたいしては米軍が出動できる、その米軍とともに日本における暴動や蜂起と戦う予備兵力という性格のものです。日本全体が朝鮮戦争の最前線の後方として位置付けられていて、その前提の上で、講和条約が結ばれ、「間接侵略」には米軍の出動を認める第一次安保条約が調印され、自衛隊の前身である警察予備隊はすでにつくられていたわけです。 一方では沖縄永久占領を前提に平和憲法がつくられたわけですが、他方では平和憲法と矛盾するアメリカ軍と連動する軍隊が育てられる。つまり、戦後日本国家は、憲法による単一不可分の主権が存在するのではなくて、安保と自衛隊という姿で、アメリカ帝国が内部に入り込んだ仕組みとして成立したのです。
◆第二次安保条約の締結と冷戦
1960年に安保改定が行われます。来年はその50周年というわけですが、改定された新安保は、1952年に行われた選択を訂正するんじゃなくて、その延長線上にあったわけです。1952年安保では受け身であった日本が、もっと主体的にアメリカの冷戦体制に参加するというのを決めたのが60年安保条約です。
岸内閣によるこの新安保条約の締結は巨大な安保闘争を呼び起こしました。しかし、この条約をよく読んでみますと、第六条に「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合州国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」と書いてある。日本の安全に寄与する、極東における国際の平和及び安全の維持に寄与する、この二つがアメリカ軍が日本に居るあるいは居られる根拠なのです。その前の第五条は後半に「前記の武力攻撃及びその結果として執った全ての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定にしたがつて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない」とあり、在日米軍の行動が国連憲章に従って行われなければならないこと、しかもそれは限定的な目的のためである、と定めているのです。今から見るとすごくいい条約じゃないかと思えるぐらい、縛りをかけているのです。法律的にはこの条約が今現在存在する有効な条約なのです。
実際にはその後日本はどんどん深く冷戦に加わって行きます。アメリカの当時の考えは、日本を再武装させる。そして核武装は絶対許さないし、独自の軍事的判断や兵力投入も許さないけれど、自衛隊を育成して、対ソ核対決、中国封じ込めというアメリカの戦略に組み込んでいくということですね。そうして、65年以降ベトナム戦争が激化して、アメリカは勝ちみのない侵略戦争の泥沼に入っていく中で佐藤・ニクソン共同声明で日本の軍事的分担の引き受けと引き換えに沖縄返還をきめ、アメリカ軍の利益を傷つけない仕方で主権を日本に帰すということをやっている訳です。それが72年の沖縄協定ですね。
こうして52年の合意というものに、どんどん中身が追加されていく。1980年代になって新冷戦と言われる米ソの核対決が極端なところまで達して、核戦争の恐怖が世界中を覆った。ソ連のアフガニスタン侵攻が一つの契機なのですが、その中で日本では中曽根政権ができる。その直前に米軍と自衛隊の共同作戦を「相互運用性」の確立で容易にしようと「日米防衛協力指針」、第一次の「ガイドライン」というものが作られています。そして、中曽根は訪米で日本は浮沈空母であると宣言する。 こうして52年に作られた体制を基盤にしながら、日本は冷戦の最前線に位置づけられ、自衛隊は米軍を補完する本格的な軍隊として増強されていく。(続く)
(ピープルズ・プラン研究所)
ピープルズ・プラン研究所のウェブサイトは:
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