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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2010年03月06日00時01分掲載
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【テレビ制作者シリーズ】(10) ふとした言葉が伝える心模様を描き出す信友直子ディレクター(エフ・エフ) 村上良太
昨年12月6日、「おっぱいと東京タワー〜私の乳がん日記〜」と題するドキュメンタリーが放送されました。フジテレビ「ザ・ノンフィクション」です。ディレクター信友直子さんが自分の乳がん体験を描いた記録です。独身で45歳の信友さんはその頃、悪運の連続でした。43歳で子宮筋腫、44歳ではインドの列車事故で骨盤骨折、そして今回の乳がんと3年連続で病気や怪我に襲われます。列車事故から丁度1年目の日に乳がんが見つかり、さすがに運が尽きたかもしれないと恐怖で一杯になったそうです。
「10年ぐらいしか生きられないとしても子どもがあるわけじゃないし・・・でもやっぱり死ぬとなると怖い」
信友さんは話題作をたくさん作っており、受賞歴もあります。華々しい日々の後 、襲い掛かる試練の連鎖。過去に取材した誰かから呪われているのかも・・・とすら思ったそうです。 このドキュメンタリーはそんな信友さんが自己回復を遂げる物語です。しかし真のテーマは病気からの生還でなく、心の成熟でした。大切な役割を果たすのが母・文子さん(80)です。広島県呉市の実家から看病と世話のため文子さんが上京してくるのです。母は病院の窓から東京タワーが見えたと言います。 「東京タワーを見た。消灯じゃなく、点灯したのを見た」
何気ない言葉も命について語っているかのようです。寄り添ってくれる母の存在の大きさに信友さんは初めて気がつきます。
リンパ腺にがん細胞が転移しているかどうか検査する日。リンパ腺に転移していれば他の臓器に転移している可能性が高く、生存の望みが少なくなります。結果は転移なし。文子さんは言います。
「万歳。東京タワーも祝うてくれてる。」
88歳の父・良則さんは携帯電話からの娘の報告を聞いて、安堵して泣いていました。 しかし、ここまではドキュメンタリーの序盤でしかありません。
一安心した信友さんですが抗がん剤治療と乳房の部分的な切除をしなくてはなりません。むしろ手術で胸の形がどうなるのか、抗がん剤治療によって髪が抜けたらどうしよう・・など、一女性の心配事に関心が移っていきます。文子さんに小型ビデオの操作を覚えてもらい、風呂場で抜けていく髪を撮影してもらいます。手術に臨んでは胸を記念撮影してもらいます。
直子「目が覚めたらおっぱいの形が変わっている」 文子「そう思わんの」 直子「でも覚悟しとかんといけんでしょ」 文子「裸で歩くんじゃあるまいし・・・」
文子さんはふと一人娘を生んだ時の話をします。難産で震えが来てしばらく意識を失っていたそうです。その母は娘の髪が抗がん剤で抜けていくのを撮影しながらも、常に平常心で接し、不安を表に見せませんでした。広島の実家は退屈だと思っていた信友さんでしたが母の存在の大きさに気付き、その見方が変わっていきます。乳がん体験を通して信友さんは「強がりじゃなく、精神的に健康になった。‘足る‘を知った。幸せのハードルが低くなった」と言います。
信友さんは1980年に東京大学文学部に入りました。専攻は英米演劇。尊敬する作家は向田邦子でした。ドキュメンタリーの制作に携わる前、ドラマ制作の仕事をしていた信友さんは学生時代から戯曲やシナリオに触れてきたことで、豊かな言葉やシーンを引き出すドラマ的想像力を持っているのでしょう。
■障害者の芸人に迫る
フジテレビ・ノンフィックス「青山世多加(せだか)」(1995年7月5日放送)も信友さんらしい作品です。この番組では重度身体障害者の漫才師「ホーキング青山」(青山世多加)がライブ活動を始めた修業時代を描いています。車椅子の天才ホーキング博士にちなんで芸名をつけたというホーキング青山。両手両足の関節は変形しており、第一級の身体障害者です。電動車椅子のレバーを唇と顎で操作して通常の歩行者より早く移動します。信友さんはホーキング青山を描く事で身体障害者=同情すべき存在、という既成概念を壊すものが描けるのではないかと思いました。彼はデビュー公演で自虐的なネタを披露します。
青山「4月に障害者年金が初めて入りまして月20万円ぐらいもらえます。これ泥棒でしょ?どう考えたって税金泥棒ですよ。働かないでもらっているわけですから。障害者で苦労しているというほど苦労していないですよ。で、年金で何をしたかと言うと最初にビデオを2台買いました。何をしたいかというとAVを見たかったんです。レンタルビデオ屋は段になっている。高いところには届かない。だからどうするかというと、店員さんを呼ぶわけです。届かないとタイトルを言わなければならない・・・」
デビュー公演は成功裏に終わりましたが、彼は疑います。障害者だから好意的に反応してくれたのではないか?・・・と。先輩芸人も「ユーモアのある障害者で終わるな」と激励します。 彼の才能を伸ばしたのは母・ノブコさんでした。息子を同情すべき存在として別格に扱うのでなく、同じ人間として常々苛烈な言葉を交わしています。
母「(食事は)いつも食べないで残す。すぐお腹一杯になる。電話でしゃべっているうちにお腹が一杯になっちゃうのね。それなのにすぐご飯とか言うのよ。」 青山「俺のかみさんかよ」 母「かみさんなんか、一生もてないわよ。あんたみたいな人に。 これだけのことをやってくれる人がどこにいるのよ。猿でも飼えって言っているのよ。アメリカで身障者の方を介護する猿っていうのをテレビで見た事があるのよ。見ていたら冷蔵庫から物を出したりっていうのを猿がやっているわけ。すごいのよ、それが。やっぱりその方も手や足が不自由な女性の方だったの。で、猿がちゃんと、身の回りのものを持ってきたり、スプーンをくわえさせたりするのよ。早くこういうのを・・・」 青山「だけど、猿に気をつかうの嫌じゃないですか。」
こうした言葉の応酬でパンチのあるドキュメンタリーになっていました。
■拉致問題も独自の視点から
信友さんには拉致問題を扱った番組もあります。1997年8月3日「ザ・ノンフィクション」で、「海に消えたわが子よ〜北朝鮮拉致疑惑と親たちの20年〜」を放送しました。1997年は「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」が結成され、横田夫妻らが署名活動をしていた頃です。親たちの平均年齢は70歳を越えていました。当時は疑惑の段階でしたが、脱北者から拉致の証言が出てきていました。信友さんはソウルで脱北した元北朝鮮工作員から話を聞き、拉致があったと確信して日本での取材を進めます。日本海側で人々が忽然と消息をたったのは1977年から78年にかけてでした。信友さんは子どもが拉致された横田家、増元家、市川家、地村家を訪ねます。
印象深いのは拉致された増元るみ子さんの父・正一さん(74)が「婚約の段階やなかったんです」と信友さんに語るシーンです。るみ子さんは交際相手の市川修一さんとともに海岸で拉致されました。正一さんは新聞に二人が「婚約関係」と書かれたことについて抗議しているのです。
「婚約段階ではなかったんです。・・・新聞にこないだけったいなこと書いてあって。婚約してどうのこうの。わしは新聞社に抗議したんですよ」
正一さんは20年後の今も娘の結婚について案じているのです。
正一「結婚の許しはまだ出しておりませんから。」 信友「るみ子さんって、お父さんの中では24歳のままですね」 正一「・・・でももう年でしょう、44歳になりゃね、もうもらい手がおらんから修一くんと一緒にさせるしかないでしょう」
日常と非日常が交錯する興味深い言葉だと思いました。ふとした言葉を手がかりに、心模様を描いていくのが信友さんのドキュメンタリーのように思えます。センセーショナルなタッチの取材でなく、丹念に非日常の中の日常を追いかけたドキュメンタリーです。
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信友直子ディレクター
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