日本でもファンが多いシェークスピア劇。妖精パックが活躍する喜劇「夏の夜の夢」に、英国の名女優ジュディ―・デンチが女王役で出演中だ(3月20日まで)。デンチの姿を一目見ようと観客が駆け付けたのは、オープン後まだ日が浅い、ロンドン南部にあるローズ・シアターだ。劇場開設前、資金不足などトラブルに見舞われ、地方自治体が巨額資金を投入する羽目になったため、地元民の反発が根強い。新築の木の匂いがいまだ新鮮な劇場内で喜劇を満喫しながらも、一体いつまでオープンしていられるのかなと一抹の不安も感じる一夜となった。(ロンドン=小林恭子)
―満席の劇場
午後7時過ぎ―。ロンドン南部のキングストンにある、一昨年にオープンしたばかりの劇場「ローズシアター」に続々と観客が集まってきた。舞台の外にあるバーは、座席に着く前の一杯を楽しもうという人で一杯で、体を移動するのもやや困難なほどだ。約900席のローズ・シアターは3月20日まで、すべての席が売り切れだという。
それもそのはず。英国で最も著名な女優の一人と言われるジュディ―・デンチが、シェークスピアの喜劇「夏の夜の夢」に出演しているからだ。演劇に詳しくない人でも、米映画「007」シリーズで、情報機関のトップ「M」役を演じている短髪の女性といったら思い出すだろう。映画「シェークスピア・イン・ラブ」ではアカデミー賞の助演女優賞を受賞している。
制作は演劇、オペラ、映画界で幅広い経験を持つ、ピーター・ホール。ホールは、シェイクスピアの生地、ストラトフォード・アポン・エイボンを拠点にする劇団「ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー」の創始者でもある。芸術監督(兼劇場の運営者)はこれまでに数多くのシェイクスピア劇を手がけた、スティーブン・アンウィンだ。
そうそうたるメンバーが参加するローズ・シアターだが、オリジナルの同名の劇場はテムズ川南岸バンクサイドにあった。ここでは16世紀、シェークスピアの初期の作品が上演されていた(現存していない)。
舞台の幕が開くと、まもなくして、デンチ扮する妖精の女王タイターニアが登場する。思わず観客席からため息がもれる。映画の画面でしか見たことがないデンチの生身の体がすぐ目前にあるのだ。スターの威力であろう。
物語はアテネの街と近郊の森で展開する。アテネとは言われるものの、実際は戯曲が書かれた16世紀のイングランドの様子をほうふつとさせる。女王タイターニアも後の絵画などで見られるエリザベス女王にそっくりだ。年老いた女王が妖精たちにかしづかれ、魔術にかかって、奇行に至るというのも、エリザベス女王を暗喩・笑っているようにも見える。エリザベス女王がこの芝居を観たかどうかは不明だ。
登場人物は、貴族の男女や職工たち、妖精の王オーベロン、そのお仕え役の妖精パック。オーベロンがパックを使って、登場人物たちに「目を覚ました相手にたちどころに恋をする」魔法をかけ、悲喜こもごものドラマが生じてゆく。
「あー、私の愛する人よ!」デンチ扮する女王が、巨大な馬のぬいぐるみをかぶった職工ボトムをいとおしそうに抱きしめ、会場から笑いが漏れる。パックが魔法を間違えて、二人の男性が一人の女性に同時に求婚する羽目になり、ドタバタ劇が展開する。舞台の前には「クッション席」があって、思い思いのクッションを持ち寄った子供たちが親と一緒に座り込む。椅子に座るよりはやや疲れるが、舞台にぐっと近づけるので、ドラマの迫力が増す。
劇中劇の中で、剣を自分の体に刺して死んでゆく職工が、命が尽きる様子を大げさにスローモーションで見せるので、子供たちも大人も大笑い。私も久しぶりに大声をたたて、思い切り笑ってしまった。
―将来は?
芝居が終わり、観客は会場を出て最寄りの駅キングストンまで向かう。やや遠い。速足でも15分はかかろうか。
キングストンはロンドン南部と言っても、郊外という表現が近い感じがする。ロンドンは中心部を「ゾーン1」として、中心部から遠ざかるにつれて、「ゾーン2」、「ゾーン3」と分けている。キングストンはゾーン6になる。はたして、わざわざここまでロンドンの他の地域からやってくる人はどれだけいるのだろう?そんな疑問が思わずわいてしまう。実際、一緒に劇を鑑賞した外国報道陣の何人かから、「遠いねえ」という声を聞いた。
一体、誰を想定観客としているのだろう?
上演前、芸術監督スティーブ・アンウインと報道陣の質疑応答でも、この点が話題になった。「ローズシアターはどこの観客をターゲットにしているのか?例えば、ここをロンドン中心の観劇街ウェスト・エンドの1つ、と見なしているのか?」と聞かれたアンウィンは、一瞬、「うーん」と言葉に窮した。
もちろん、ロンドン中心部からも、近辺からも来てほしいのが本音で、アンウインは特定の観客を対象にしているわけではないと説明する。
キングストンに劇場を作ろうというアイデアが出たのは4年前。2008年1月のオープンまでに時間がかかったのは、アンウインによれば、「英国らしいいろいろなことがあったから」。つまり、資金がなかなか集まらず、集まったと思ったら、最初の算定が正確ではなかったので、見落とし部分(照明費用など)が出たことを地方紙が報道している。その資金繰りの甘さは地元メディアで散々批判された。
結局、キングストンの地方自治体と近場にあるキングストン大学が不足資金を提供し、オープンにまでこぎつけたが、地元民の間では現在でも、「税金の無駄遣い」と批判が根強い。
「この劇場は非常に安くできたんですよ!」とアンウイン氏は報道陣に誇らしげに語った。「一体いくらだったんでしょう?」と聞いてみた。「うーん、細かい数字は分からない」―。
芝居のプログラムとともに、デンチからの「募金願いの手紙」を渡された。「今日もし募金できなければ、どうか連絡先を残してください」と書かれてあった。キングストン自治体と大学からの資金は運営コストの半分を満たすだけのようなのだ。後半分はチケットを売って埋めなければならない。
900席を半分も満たない日がある時、アンウィンは「落ち込む」という。「しかし、これを苦にして自分の手首を切って自殺するよりも、400人は来たんだな、と思うようにしている」。
劇場オープンの3か月前、総支配人的立場にあったピーター・ホールが辞任。頼みの綱として声をかけた先がアンウインだった。資金繰りの状態などにさぞ驚いたに違いないが、それは口に出さなかった
どんな劇場にしたいか、とフィンランドの記者が聞いた。「言葉を大事にしたい。芝居は言葉が一番重要。大がかりなセットやこけおどしはやりたくない。言葉の面白さを大事にしたい」。
アンウインが監督した「夏の夜の夢」は、登場人物たちがエリザベス朝のコスチュームで舞台に現れた。舞台通の知人が言うには、シェークスピア劇がオリジナルの時代の設定で上演されるのは「珍しいーほとんどが、現代風のアレンジになっている」。
とすれば、この世のアンウイン監督の「夏の夜の夢」はオリジナルの戯曲の言葉の面白さ、衣装をできうる限り大切にした演出だったのだろう。
劇場を出て、夜道を駅まで歩きながら、シェークスピアを楽しむ、子供たちの笑顔を思い出していた。さまざまな議論があっても、あんな笑顔を生み出せるのは質の高い芝居しかない。この伝統が次の世代にまでも続いていくには、確かに劇場が必要だー。
スターキャスト、国際的にも知られた演出家、監督、なんといってもシェークスピア。すべてはそろっている。願わくば、地元民の熱い支持がいつか育つようにー。そんな思いで、夜道を歩いていた。(「ニューズマグ」より転載)
(掲載写真はノビー・クラーク撮影)
*ローズ・シアター、公式ウェブサイト
http://www.rosetheatrekingston.org/
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