高齢者を差別するのか、という批判が渦巻いている、あの後期高齢者に私自身もついに辿り着いた。やはりなにがしかの感慨を覚える。少年時代、病弱に苦しんだ体験から健康には人一倍関心が強い。高齢者になってもなお健康を維持するためには何が必要か。本人の心遣いという意味での自己責任はもちろんだが、これまでとは異質の医療改革と健康教育が不可欠である。医療改革では健康維持に努力している者が報われる「健康保険料の一部返還請求権」の新設、一方、健康教育では「いのちと食と健康」のあり方を三位一体式に捉えて小学生の頃から教育し、実践すること、などを提案したい。これは病人を減らし、健康人を増やす医療改革・健康教育にほかならない。
▽ 対談<「老いの壁」と向き合う>
養老孟司(東大名誉教授)さんと中川恵一(東大付属病院放射線科准教授)さんとの対談(毎日新聞・09年11月11日付)を以下に紹介する。題して<「老いの壁」と向き合う>。2人は東大医学部での師弟関係にある。対談の日付は4か月も前のことだが、対談の内容は決して古くはない。むしろ未来へ向かって開かれている。 対談内容(要旨)は次の通り。
*生活態度と身体が大事 中川:100歳以上の長寿者が2009年9月現在で4万人を超えた。そのうち86%が女性で、なぜ男性が少ないのか。生活態度に原因がある。 養老:年を取り、独り暮らしになったとき、女性の方が圧倒的に長生きだ。 中川:男性は家事をせず、身体を動かすことが少ないから。若いころは脳だけあればよいと考えていたが、だんだん身体が大事だと考えるようになった。現在65歳以上の女性はほとんど90歳近くまでは長生きできる時代になった。ただ日常生活が普通にできる健康寿命は女性が79歳、男性が73歳、その後は介護の問題が出てくる。 日本の寝たきり人口は現在、約400万人、65歳以上の認知症が約200万人いる。寝たきりにならないためのヒントがあれば・・・。 養老:やはり身体を動かすこと。そもそも身体がちゃんと動くことが基本で、それができない場合には何か考えてあげなくてはいけない。
<日本の高齢者、医療費に関する補足データ> ・日本人の平均寿命=2009年現在、女性が86.05歳で世界1位、男性が79.29歳で世界4位。 ・65歳以上の高齢者人口=現在全体の20%超の高齢者が2050年には40%になるとみられている。 ・国民の医療費=1人当たりの生涯医療費は平均2200万円。もっとも費用がかかるのが70代〜80代半ばで、75〜79歳では年間平均250万円かかる。 (参考)通院が多い乳幼児期(0〜4歳)でも年間平均約100万円 ・メタボの医療費=全国健康保険協会によると、生活習慣病の一つ、メタボ(メタボリックシンドローム=内臓脂肪症候群)の人にかかる年間医療費は、メタボ以外の人に比べて多く、男性1.4倍、女性1.6倍(朝日新聞3月11日付)。
*人生全体は一個の作品 養老:ナチスの収容所から奇跡的に生還し、その体験をまとめた『夜と霧』を書いた精神科医のビクトール・フランクルは、人生の意義について「他人が人生の生きがいを発見することを手助けするのが自分の天職だ」と言っている。余命幾ばくもない状況で、収容所のベッドで寝ている人間に、どういう意味があるかという問いかけに、「その人が自らの運命に対してどういう態度を取るか、そのことが、周りの人間が生きるために、いかに大きな意味を持つか」と書いている。これを「態度的価値」というが、人が生きる意味をどこまで考えてきたかによって、人生の最後の価値が決まってくると、彼は言っている。 日本では修行という言葉がある。修行とは社会的に何の意味もないことをすること。千日修行してもGDP(国内総生産)は増えない。でもそれをやり通した人が一個の作品になる。修行とは人生を一個の作品と見るときの立場である。 人は生まれて、必ず死ぬのだが、その全体を一個の作品とみれば、みっともない死に方はできないと考えるようになるのだ。
*「死の現実感」失う 中川:今のお話しは「老い」を考える重要なヒントだと思う。態度的価値は他者が存在するから意味がある。高齢者は、これまで大家族の中で自分の生き方を家族に示すことができたが、今はできない。核家族化と、病院で亡くなる人が85%という時代になったから、子どもたちが老いや死を間近でみることが少なくなってしまった。 人は死んでも生き返るか、という質問を小学生にしたところ、3分の1が「生き返る」と答えたという。日本人は、死の現実感を失ってしまった。そして、日本では死に直結するイメージを持つのは、癌(がん)だけだ。死を意識することがないと、癌を知ることが難しい。例えば癌で死なないためには検診が特効薬で、欧米では8割近くが受けているが、日本では2〜3割だ。 養老:近代医学は病気を何とか治すと言ってきた。でも年(年齢)は治らない。だれもが自然に年を取っていく。そもそも「老いの壁」に対処するという考え方自体が間違っている。(中略)親が年を取って病気になるのは仕方のないこと、これを問題と考えないことだ。今の人は、人生が終わるとは思ってはいない。だから若いうちから年を取っていくことについてきちんと考えて貰いたい。
*尊厳を持って生きる 中川:老いを他者にどう伝えていくか。そのためには尊厳をもって生きていることが大事なのだと思う。 養老:人生って何だという青臭い問いかけを時々しなければいけない。その中に死ということも入っている。死ぬために生きているわけではないが、時間的には最後に死ぬので、死ぬために生きているということになる。死について現代人の議論はあまりに底が浅くなっている。死や老いについてもう少し考える必要がある。介護の議論ではどうしても制度論になって、外からの介護を考えてしまう。でも一番大事なことは介護される側がどう思っているかである。それが欠けている。 中川:かつての大家族の中では、自然に考えることができたが、今はできなくなっている。 養老:やはり社会を作り直すしかないね。
<安原の感想> 2人の対談を読んで、やはり見逃せないのは、次の指摘である。 「人は死んでも生き返るか、という質問を小学生にしたところ、3分の1が生き返ると答えたという。日本人は、死の現実感を失ってしまった」と。 たしかに「死の現実感を失ってしまった」というほかない。今さらながら命を粗末に扱うテレビドラマの影響も小さくはないだろう。
もう一つ、交通事故死などに対する無感覚を挙げたい。交通事故死者数は年々減少し、2009年には前年比251人減の5772人(警察庁調べ・事故から30日以内に死亡)と過去最少となった。とはいえ、年間6000人近い人が取り返しのつかない命を失っている事実を重視したい。負傷者は年間約100万人を数える。その中には再起の難しい人も含まれていることは容易に想像できる。 こういう「明日は我が身」という現実に多くの人は無感覚すぎるとはいえないか。あの世へ送られてから気付いても遅すぎる。 しかも自殺者は年間3万人の大台乗せの状態が続いている。凶悪犯罪で命を落とす悲運のニュースをメディアは毎日のように伝えている。人間の尊厳の否定につながる悲惨な死の日常化が逆に死の現実感を失わせる背景になってはいないか。
▽少年時代の病弱な日々から立ち直って、いま後期高齢者
私(安原)は子供のころ、虚弱体質で病気に苦しんだ。小学4年生(敗戦の前年1944年=昭和19年)から中学2年生にかけて毎年冬になると、重度の関節リウマチで2か月近い寝たきり状態に悩み、長期欠席を余儀なくされた。 そこで健康第一と考えて、父の薦(すす)めもあり、高校1年の春から毎朝、冷水摩擦(タオルこすり)を始めた。冬になって雪が降りしきる朝でも、戸外の井戸端(地方の田舎のことで、当時は屋内の上水道はまだ敷設されていなかった)で、上半身を裸にして続けた。冷たくて辛(つら)かったのは、雪よりも寒風であった。それでも一日として怠ることはなかったように記憶している。風邪も引かず、薬のお世話にならず、高校3年間、1日も欠席することはなかった。
今想うと、冷水摩擦を自分の身体が求めていたのかもしれない。虚弱体質から立ち直ることができた、その効果には自分でも驚くほかなかった。必要なのは使い古しのタオル1本(1年は保つ)と「継続する意志」であり、すでに半世紀以上も経つが、今でも毎朝励行している。高校生時代と違って、今は屋内の風呂場で裸になって全身を摩擦する。戸外の雪も寒風も関係なく、いわば温室の中での冷水摩擦(乾布摩擦も併用)で、歯を磨き、顔を洗うのと同じ感覚となっている。さわやかな気分を味わうことができるのが何よりの利点である。 お陰様で寝込むような病には今のところ無縁である。「冷水摩擦で長生きできるのか」と聞かれることがあるが、「寿命は授かりものだからわからない。ただ、いのちある限り一日、一日をさわやかに生きたいと念じている」と答えることにしている。
こうして2010年3月の今、後期高齢者(75歳以上)の仲間入りすることとなった。その昔、寝たきり状態であった小学生の頃、枕元で両親が涙に暮れていた情景を昨日のことのように鮮やかに記憶している。「一人息子の寿命もこれまでか」という悲嘆であったに違いない。その両親もすでにあの世へ旅立った。この世の定めとはいえ、やはり寂寥感はいつまでも消えない。 幸い生き長らえているからには多少なりとも「世のため人のため」に我が身として何ができるかを考えないわけにはいかない。そういう想いから以下にささやかな提案を試みたい。
▽ 病人を減らし、健康人を増やす医療改革・健康教育
日本は、依然として世界のトップクラスの長寿国であることは間違いない。今後ともこの長寿国として名誉ある地位を持続できるだろうか。私は「否」と言いたい。従来の政府主導の医療改革は国が負担する医療費の削減が目的で、その結果、患者負担が増大する一方、病人はむしろ増えている。民主党政権下でもこの傾向は変わらない。このままではやがて平均寿命は低下していくのではないか。 さてどうするか。上述の対談で養老さんは結論として「やはり社会を作り直すしかない」と指摘している。その通りであり、問題はどう作り直すかである。そこで以下のような医療改革・健康教育案を提起したい。
<医療改革> ・70歳以上の高齢者の医療費は、高額所得者は別にして原則無料とする。高齢者の前・後期の差別を廃止する。 ・健保本人の自己負担は1割に引き下げるが、糖尿病など生活習慣病は、自己責任の原則に立って自己負担を引き上げる。 ・70歳以下の人で、1年間に1度も医者にかからなかった者は、健康奨励賞として医療保険料の一部返還請求の権利を認める制度を新設する。「健康に努力した者が報われる社会」づくりの一つの柱として位置づける。 ・禁煙の促進も重要で、受動(間接)喫煙で多くの人の健康が害されることを防ぐため、タバコ税の大幅引上げを行う。 ・改革案を国民に説明してから2年の準備期間(自己負担が増える生活習慣病などの対策期間)の後、実施する。
<健康教育> ・「いのちと食と健康」の密接な相互関連について小学生の時から教育する。その健康教育は、いのちの尊重はもちろん、添加物を使わないこと、地産地消(地域で育てた食材を地域で消費すること)・旬産旬消(季節ごとの旬の食材を旬の時期に味わうこと)のすすめ ― など安心と安全を第一とする食のあり方を含む「健康のすすめ学」としたい。 ・次の3つの日常用語を家庭や学校で理解する機会をつくり、日常生活で実践する。 「いただきます」(食事前に唱える言葉で、動植物のいのちをいただいて自分の命をつないでいることに感謝すること) 「もったいない」(モノを無駄にしないで、大切に扱うこと。食べ残しをしないこと) 「お陰様で」(他人様=ひとさまのお陰で生かされていることを自覚し、感謝すること) ・教育担当者として定年退職者、大病体験者、ボランティアなどを積極的に活用する。
以上の医療改革・健康教育策の実現に取り組めば、病人、医療費の削減も可能である。そうなれば高齢社会対策を名目とする消費税引き上げは根拠を失うだろう。
(ご参考)ブログ「安原和雄の仏教経済塾」(08年2月2日付)に「冷水摩擦でカゼを退治しよう 健康のすすめとニッポン改革」と題する記事を掲載している。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
|