パリは文学・思想・哲学など本の都市でもあります。しかし、町の書店は疲弊しつつあります。本が売れない。町の書店が消える。人々の集まる場がひとつ、またひとつ失われる。そんな危機が忍び寄っています。書店の実数や売上額のデータは持っていませんが、書店の人々の話では厳しさがひとひしと伝わってきました。
パリ9区のピガール駅に近いvendredi(金曜日)書店は文学・思想・哲学の専門書店です。6畳ほどの狭い店内には天井まで本がびっしり並び、客は2つのはしごを使って本を探します。このような書店が日本ではこの10年ほどの間にほとんど消滅してしまいました。パリでも同じ現象が起きています。金曜日書店の経営者の一人エレーヌ・ミュラーさんはこう言います。
「小さな書店は経営が年々難しくなります。フナック(FNAC)のような大型の量販店が増えたことも原因です。それでも店は続けますよ」
パリの小さな書店は1人か、せいぜい2〜3人で営まれています。それが可能なのは漫画や雑誌は別に専門店があり、小さな書店は基本的に本しか扱っていないことによります。日本の書店が漫画も雑誌もDVDも扱っているのに対し、パリの書店は本だけで勝負しているのです。そのため店ごとに売りたい本をそろえ、本が売れるまで腰をすえて待つことができるのです。しかし、そのように持ちこたえてきたパリの書店も悲鳴を上げています、今年もパリの書店がいくつも閉店するそうです。デジタル文化や映像文化の広がりで本を買って読む人が少なくなっているからです。大型書店やネットで本を買う傾向も強まっています。
同じ9区、Rodier通りにあるVa l’Heur(バレール)書店はベルナデット・レニエさんとパートナーのレミ・ベランジェ氏が営んでいます。創業は1988年。これまで不定期ですが作家を招いて「文学の夕べ」を開いてきました。僕がバレール書店に初めて入ったのは2002年の夏です。ぶらりと入って本を買うと店主のレニエさんがチラシをくれました。作家らしい男の顔写真が印刷されています。
「文学の夕べを開くので来てください」
作家はミシェル・ワルドベルグ(Michel Waldberg)氏。日本で耳にした事のない人物です。せっかくなので「文学の夕べ」までにワルドベルグ氏の本を読んでおこうとワルドベルグ氏の本も買って帰りました。日本で耳にしたことがない作家こそ注目に値するものです。
ちなみに僕が宿泊していたホテルはパリ在住の友達に「パリで一番安いホテルを」と頼んで見つけてもらったバックパッカー向けの宿で、バレール書店と同じRodier通りにありました。ドミトリー(共同部屋)に泊まると1泊3000円ほどで朝食つき。夜はワインに悪酔いした若者のゲロがあちこちにあふれていました。昼間は追い出されてしまうため、夏日の照りつける公園のベンチをはしごして読みふけりました。
ワルドベルグ氏(1940-)には小説「犬の死」や文学評論集「麻痺した言葉」などがあります。シュールリアリズムに詳しい評論家パトリック・ワルドベルグを父に、彫刻家イザベル・ワルドベルグを母に、芸術一家に生まれました。ワルドベルグ氏には美術批評もあり、パリの画廊でも氏の本が飾られているのを見た事があります。しかし、「麻痺した言葉」には中々歯が立たない難しさがありました。
「文学の夕べ」は午後7時から。6時を過ぎると客が集まり始め、対談までの間、中庭でワインを飲み、サクランボやチーズをつまみながら時を過ごします。その夜集まった客は20人ほど。レニエさんは中庭でワインを振る舞い、店内では作家と読者の対話の場を作ります。客たちは通路に立ち、作家と司会者の討論に真剣に耳を傾け、しばしば自ら参加しました。僕はその対談を一言も聞き取ることができませんでしたが・・・。もちろん、こうした作家と読者の場は日本の書店でもありますが、パリの場合は小さな書店でも行っています。また、パリでは書店主が編集者・出版者を兼ねる事が少なくありません。レニエさんのパートナーであるベランジェ氏も出版社を持ち、本を出しています。
バレール書店の「文学の夕べ」に集まる人々は作家アルフレッド・ジャリ(Alfred Jarry 1873-1907)のファンです。ジャリの代表作は戯曲「ユビュ王」(Ubu roi)です。王を殺して王になりあがったポーランド軍人が貴族の大量粛清や重税、ロシアとの戦争など好き放題を破天荒に繰り広げます。革命と戦争の20世紀を先取りしたかのようなストーリーですが、ユビュと言うコミカルな男を主人公に荒唐無稽な喜劇に仕立て上げたところに独創性があります。レニエさんは言います。
「ジャリは私が好きなものの象徴です。Homme de lettres =人文の人と呼ぶにふさわしい作家です。」
ジャリは世界を通念と違った視点から見る事を唱えました。その前衛的な姿勢がアポリネール(詩人)、アンドレ・ブルトン(シュールリアリスト)、ピカソ(画家)、レーモン・クノー(小説家)、ジャック・プレヴェール(詩人、脚本家)、ルネ・クレール(映画監督)、ボリス・ヴィアン(作詞家・小説家)、ジョルジュ・ペレック(小説家)、サミュエル・ベケット(劇作家)、イヨネスコ(劇作家)など20世紀のアバンギャルドの旗手たちに霊感を与えてきたのです。しかし、日本では代表作の「ユビュ王」も長く絶版になっています。
そのほか、バレール書店ではprix nocturne(夜の賞)という賞を仲間の書店や編集者と創設し、絶版になったけれども読む価値のある小説を年一作選んでいます。これは絶版本の再出版を目指す書店と読者による主体的な運動です。書店は単に商品を右から左に流す場ではなく、それ自体が町の文化の拠点なのです。
しかしそんなバレール書店も今、曲がり角に立たされています。本の売れ行きが年々落ちているからです。レニエさんはもう次の展開を始めていました。
「今、新刊書店から古書店に移行しつつあります。現在は両方並べています。今後はインターネット販売も増えていくでしょう。それでもダメなら閉店ということもあります。残念ですが、セラヴィ(C’est la vie)、仕方ありません。」
もし町の書店がなくなったら、地域の人々が本に出会う機会は少なくなります。インターネットでの購買はすでに欲しい本があらかじめわかっている人に向いた方法です。散歩がてら書店にぶらりと入って未知の本を発見する喜びは町の書店にしかありません。そこには一見偶然のように見えますが、書店を営む人間の思いが込められているのです。
村上良太
*ミシェル・ワルドベルグ氏は残念ながら、2012年11月に亡くなった。以下はルモンドの追悼記事。ここでは主に詩人として紹介されている。
http://www.lemonde.fr/disparitions/article/2012/11/06/michel-waldberg-poete-et-romancier-de-l-irreverence_1786440_3382.html
|