仏教経済学の特色は三つある。第一は仏教経済学は宗教そのものというよりは社会・人文科学の一角を担うものと考えていること。仏教思想にみる宇宙・現世の真理を応用し、生かす経済学、すなわち仏教経済学と捉える。第二は知識としての仏教経済学ではなく、変革を実践していくための仏教経済学ということ。世直しのための新しい経済学ともいえる。第三は既存の経済学(自由市場原理主義、ケインズ経済学など)を批判する視点に立つ経済学であるということ。 もう一つ付け加えれば、仏教経済学は特定の教科書がまだ出来上がっていない。だからこの「やさしい仏教経済学」は私(安原)の構想する仏教経済学といえる。先達の構想、業績に学ぶところ大なるものがあることはいうまでもない。 以上のような趣旨で「連載・やさしい仏教経済学」を始める。随時掲載していく。「やさしい仏教経済学」と名づけたのは、質に配慮しながら表現はできるだけやさしく、という願いからである。 1回目は〈食事前の「いただきます」とは〉。
「仏教経済学ってなに?」と疑問に思っている人が少なくないことは十分承知している。ただ駒澤大学仏教経済研究所が設立されてからすでに40年余にもなる。仏教経済学を論じている著作として、シューマッハー著/小島慶三ほか訳『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫)があり、原文(英文・1973年刊)の著作は世界的なベストセラーにもなった。インターネット(グーグル)で検索してみると、総検索件数は「仏教経済」約190万件、「仏教経済学」約70万件で、決して少ない件数ではない。
▽ 「いただきます」は日本の文化
日常の暮らしの中でとかく大切なことを見逃してはいないだろうか。毎日の暮らしの中で心掛ければ、もっとこころ豊かな生活を身につけることもできる日常用語が少なくない。「いただきます」、「もったいない」、「お陰様で」の3つである。『広辞苑』(岩波書店)によると、以下の説明が付いている。 *いただきます=出された料理を食べ始めるときの挨拶の言葉 *もったいない(勿体ない)=神仏などに対して不届きである。過分のことで畏(おそ)れ多い。そのものの値打ちが生かされず無駄になるのが惜しい。用例「捨ててはもったいない」 *お陰様で=相手の親切などに対して感謝の意を表す挨拶語 しかし以上の広辞苑の説明は十分とはいえない。
ここでは「いただきます」についてその本来の意味を考えてみたい。 まず「いただきます」とは何をいただくのか。食事をいただく、と多くの人は考えているが、それだけでは十分な説明にはなっていない。正しくは動植物の生命(いのち)をいただくのであり、それに感謝する言葉である。 さらにもう一つ、折角いただいたいのちを大切にして、生かしていくという意味も込められている。できることなら「世のため人のためにお役に立ちたい」と考えることである。利他主義の実践ともいえよう。
「いただきます」に相当する英語は何だろうか。正解は、そういう英語はない、である。あえていえば、Everything looks so delicious.であろうか。しかしこの表現では日本語の「いただきます」に本来込められているいのちの尊重、感謝の心は浮かび上がって来ない。そういう意味でも「いただきます」は日本人の心であり、文化であると再評価し、大いに広めていく必要がある。
私(安原)のささやかな体験を紹介したい。10年以上も前、曹洞宗の開祖、道元(1200〜1253年)の建立になる永平寺(福井県)を訪ねた折りのことである。次々と観光バスで乗り込んでくる観光客を相手にお坊さんが仏教講話を始めた。その内容は次のようであった。 「皆さん、食事の前にいただきます、と言うでしょう。この意味はお分かりですか」と。あえて手を挙げて答えようとする者はいなかった。やがてお坊さんは言った。「動植物のいのちをいただくという感謝の気持ちの表れです。肉や魚はもちろん米や野菜にもいのちがあります。そのいのちをいただいて、そのお陰で人間は自らのいのちをつないでいる。だから食事はお陰様で、有り難い、という感謝のこころでいただくものではないでしょうか」と。 私が「なるほど」と思い、注目したのは、この話を聞いた観光客たちの人波が老若男女を問わず、真剣な表情で大きく何度もうなずいていたことである。私はここに日本人のこころがあり、日本の文化があると納得した。
▽ いのちを尊重し、感謝すること
このような「いただきます」の深い意味を理解することは、次のような認識と実践につながっていく。 (1)人間だけでなく、この地球上の動植物も含めた「生きとし生けるものすべてのいのち」を認識し、尊重すること。 (2)人間は動植物など他のいのちあるものとの相互依存関係の中で生かされていることを理解し、他者への感謝のこころが芽生えてくること。
ところが第二次大戦後のモノとカネの拡大を追求する高度経済成長時代、さらに飽食、つまり食べ物がありあまる中で多くの日本人はこの「いただきます」という言葉がもつ深い意味(含蓄)が理解できなくなってしまった。食べ物のいのちに無頓着になれば、やがて人間のいのちの軽視へと走るのは避けがたい流れである。20世紀末以降、いとも簡単にいのちを奪う凶悪犯罪が目立つのは、以上のことと決して無関係ではないだろう。
ここで「いただきます」に関連して食べ残しの問題を考えたい。 家庭の台所ごみの中の残飯、さらにファミリーレストランなど外食産業での残飯は日常的光景である。お客の半分の人が食べ残しをするというデータもある。この食べ残しは何を意味するのか? 何よりもいのちの軽視である。 食べ残しを平然と行う人は、「いただきます」の含蓄が分からないだけでなく、食事前に唱えたこともないのだろう。食べ物にはいのちが宿っていることを考えれば、食べ残しはそのいのちを粗末にすることである。
仏教に不殺生戒、つまりいのちあるもののいのちを奪ってはならないという戒めがある。しかしそのいのちをいただかなければ、人間は自らのいのちをつないでいくことができない。これは大きな自己矛盾である。どうしたらいいのか。 まず必要以上のいのちの殺生をしないことである。むさぼる貪欲(どんよく)を否定し、「これで十分」と心得る知足(足るを知ること)に徹する必要がある。もう一つ、だからこそ感謝のこころを抱いて食べ物のいのちをいただくという姿勢が大切となる。
▽ 「有り難う」と言ってみよう
いのちを軽視すれば、人や自然と共に生きるという「共生」の感覚も薄らぐ。また人や自然に対して「お陰様で」、「有り難い」という「感謝」の気持ちをもつことができない。最近、若者に限らず大人からも「有り難う」という感謝のことばをあまり聞かなくなったように思うが、どうだろうか。
東京・日比谷公園脇のホテルで開かれた結婚披露宴に招かれたことがある。最近は仲人を立てない結婚式が増えており、この披露宴も仲人のいない自作自演であった。新婚夫婦の紹介も、お互いに相手の「人と為(な)り」を語り合うという方式で、そのとき新婦が次のセリフを口にしたのが気に入った。 「お父さん、お母さん、二人が出会ってくれて有り難う。そして私を生んでくれて有り難う。そのお陰で夫となる彼と出会い、今ここに私と彼がこうして手を取り合っている」と。
これは感謝の気持ちの見事な表現である。今日薄らいでいる感謝のこころを日常生活の中にどのようにして取り戻していくか、いいかえれば人間のこころをどのようにして回復するかが大きな関心の的になって欲しい。日常生活の中でもっともっと「有り難う」を表現するようにしたい。口に出して言えないのであれば、こころでつぶやくだけでもいいではないか。これも不言実行のひとつである。
(つづく) *本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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