人間は自力のみで生きていると思うのは錯覚である。客観的事実として太陽、地球、自然の恵みを受けて、しかも他人様のお陰で生き、生かされているのである。この理(ことわり)を認識できれば、「お陰様で」という他者への感謝の心につながっていく。この感謝の心は「もっともっと欲しい」という独りよがりな貪欲に対する自己抑制としても働く。 「いただきます」、「もったいない」と並んで「お陰様で」を日常生活の中で復活させたい。一日一回でいいから、また口に出さなくても、心(こころ)でいいから「お陰様で」を唱えてみてはどうだろうか。気分がさわやかになることだけは確実といえよう。
▽「お陰様で」という感謝のこころ
「お陰様で」は、今の自分のいのちが遠い祖先のいのちにつながっており、それに対する感謝の心の表れであり、これが原意(本来の意味)である。 自分の両親から10代先までの祖先にさかのぼってみれば、一体何人のいのちが自分のいのちにつながっているか。自分の両親は2人、両親の親は4人、その4人の親は8人というわけで、計算上は合計でざっと2000人を超える。20代先までさかのぼれば、全部で約200万人である。これだけの膨大な人々のいのちがあって、そのお陰で今ここに自分が存在している。この事実に思い至れば、多くの人に支えられて生かされ、生きていることに「お陰様で」と感謝の念を抱かずにはいられない。
ところが自分に少し自信のある人の場合、人のお世話にはならない、自分一人の自力(じりき)で生きてみせると、頑張っている例が少なくない。そういう心構えで人生を送ること自体は必要だが、事実認識としては錯覚であり、独りよがりの思い込みにすぎない。この現世に自分一人で生きている者は誰一人いない。 早い話、あなたの今朝の食事は何だったか。パン食で、自分で稼いだお金で買ってきたのだから、人の世話になってはいない、といいたいのだろうが、そこが誤解である。 パンを自分で焼いたのか。最近はそういう人も増えてはいるらしい。それはそれで結構な話である。ではパンの原料の小麦(粉)は自分で植えて育てたのか。自分で小麦を粉にしたのか。多くの消費者はそうではないだろう。
一方、自分で稼いだお金といえども、決して万能ではない。お金が利(き)く人間社会から隔絶された絶海の孤島での独り暮らしを想像してみれば、分かりよい。1万円札を山と積み上げても、何の価値もない。ただの紙切れでしかない。孤島では人と人との相互依存関係が存在しないからである。お金(かね)も相互依存関係という網の中でのみ役に立つのである。
以上の理由から「いただきます」、「もったいない」、「お陰様で」という三つの日常用語を身につけ、広めていくことがいかに大切であるかが理解できよう。「いただきます」の感覚が日本社会に広く浸透し、定着すれば、日常的な大量の食べ残しなども「もったいない」仕業(しわざ)と気づき、食事ができるのも他人様(ひとさま)のお陰であり、そこに「お陰様で」と感謝する心が湧いてもくるし、同時にモノを大切に扱う心も広がってくるだろう。 こういう意識革命が少しずつでも進めば、もう少しゆとりのある日々の暮らしを味わうことができるのではないだろうか。
▽ 戦国時代のエピソード ― 自己管理能力の欠如
「お陰様で」などの日常用語に無頓着であるために見舞われる悲劇も少なくない。今から400年以上も昔の戦国時代、小田原を本拠地とする北条一族の滅亡のエピソードを思い出したい。 4代目の氏政(1538〜1590年)があるとき食べ残しをしたのを見て、父の氏康(1515〜1571年)がこう言って息子を諫(いさ)めた。「あゝ、わが一族も息子の代でついに亡びるか。自分の腹ひとつ測(はか)れないようでは、一国一城の経営ができるはずはない」と。
事実、豊臣秀吉の小田原攻略の際、数カ月の籠城の末、城主となっていた氏政は自刃、5代目の氏直は高野山に籠居させられ、ここに北条一族は滅亡の悲運に泣いた。秀吉の軍門に降るかどうかをめぐって城中で優柔不断な長評定に明け暮れたことから、だらだらと会議を続けることを「小田原評定」と形容するようになった。 ともかく自分の腹ひとつ測れないことは自己管理能力の欠如そのものであり、今日の激しい変化の時代を生き抜くことはむずかしい。 今日風にいえば、この息子(氏政)は主体性に欠ける「ぐうたら人間」であり、そういう人間の人生は悲劇に終わる可能性が大きいことを物語るエピソードといえよう。これは21世紀に生きる我々が学びとるべき教訓であり、過去の単なるエピソードではない。
もうひとつ、指摘したいことは、食べ残しをする者には地球的視野が欠落していることである。 地球総人口約67億人のうち10億人が飢えに苦しんでいるというデータ(国連の推計)もある。7人に1人の割合で食事もろくにとれないわけである。地球規模に視野を広げて、こういう地球上の不幸な現実に心が届けば、安易な食べ残しは恥ずかしい仕業だと気づくはずである。さらに大量の食べ残しは資源の無駄な大量浪費であり、それがひいては地球環境の汚染・破壊に手を貸していることに気づけば、無神経な食べ残しは心苦しいことと思うはずである。
食事に関連して一つ提案したい。それは企業の採用試験の改革案で、受験生を食事に誘ってその食べ方を観察するという手法はどうか。食べ残しをするような輩は、人間として性根も据わっていないし、やがて企業を倒産に追い込む可能性があるだろうからもちろん不採用である。私が社長なら、そういう採用試験に切り替えたい。
参考までにいえば、アメリカの発明王、企業家として知られるトーマス・エジソン(1847〜1931年)も食事の仕方で人物を見分けていた。技術者が「自分の腕には自信がある。雇って欲しい」と訪ねてくると、エジソンは決まって食事に誘い、あるひとつのことを観察した。 「あるひとつのこと」とは、何か? それは調味料の使い方である。味見をしないで、無造作に塩や胡椒を振りかけたりすると、不合格とした。なぜか。そういう人は思いこみや惰性に囚(とら)われて行動するタイプで、発明の才能はもちろん、新しい工夫も期待できないという判断からである。思いこみや固定観念に縛られている人は独創的なアイデアに欠けるということだろう。
▽ どのようなご利益が期待できるか
以上、「いただきます」、「もったいない」、「お陰様で」と食べ残しがもつ意味について指摘した。これをしっかり理解できることが、いわゆる人間力、すなわちしっかり人生を生き抜く力であり、同時に教養でもある。教養は単なる知識ではない。知識を日常の暮らしに、仕事に、さらに社会に活かす実践的な能力のことである。
さて「いただきます」などの精神が日常的に復活、普及し、同時に食べ残しを控えるようになれば、どのようなご利益(りやく)を期待できるだろうか。以下の四つにまとめたい。 (1)人間はもちろんのこと、動植物のいのちも尊重できるようになり、思いやり、やさしさが身についてくること。 (2)人間は動植物、自然との相互依存関係の中で生かされ、生きていることを自覚できるようになり、共生のこころ、感謝のこころが豊かになってくること。 (3)自己管理能力、いいかえれば自己責任感を鍛え、自律心、自立力、さらに「もうこれで充分」という知足(足るを知る)の知恵を育むことができること。 (4)地球環境問題を含む広大な地球的視野に立って、「地球はわが家」(注)という正しい認識をもつて、中道、すなわち道理に合った道を進むことができること。
(注)「地球はわが家」について=「環境と発展に関するリオ宣言」(1992年6月リオ・デ・ジャネイロでの第1回国連環境開発会議=第1回地球サミットで採択)は前文で「我々の家庭である地球の不可分性、相互依存性を認識する」とうたっている。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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