メディアの伝えるところによると、TBS系テレビドラマ「水戸黄門」で女忍者として活躍した女優の由美かおるが近くレギュラー役を引退する。今年11月に還暦(60歳)を迎えるというが、その彼女が引退記者会見で「生涯青春を突っ走っていきたい」とみずみずしい容姿を印象づけた。 彼女にとって青春とは「チャレンジ(挑戦)していく情熱」だそうで、そういう生き方には大いにあやかりたい。希望を見出しにくいこの21世紀初頭にあって、青春、すなわちチャレンジ(挑戦)とはどういうイメージ、行動スタイルなのか、を考えてみたい。
葵(あおい)の印籠を掲げて「この紋所(もんどころ)が目に入らぬか」のセリフで悪を懲らしめるという筋書きのドラマ「水戸黄門」は、寿命の長いドラマである。「単純な結末の分かっているドラマのどこがおもしろいの?」という声も聞くが、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)ものは、筋は単純と決まっており、だからこそおもしろいという見方もあるのだ。 由美かおるの入浴シーンも200回を超えて話題を呼んだが、それはそれとして今年11月に還暦を迎えるそうで、しかもプロポーションも上から86/58/86と抜群で、15歳の時から変わっていないそうだから、恐れ入るというよりは感銘深いものがある。
▽ 青春とは心の持ち方 ― 理想を失うとき初めて老いる
さて彼女の引退記者会見(4月上旬)で、私(安原)の印象に残ったのは、ドイツ生まれのアメリカの詩人、サミュエル・ウルマン(1840〜1924年)の詩『青春』を引用しながら、次のように語ったことである。 「チャレンジしていく情熱があれば、『青春』なんだというのは、今の私にぴったりで、生涯青春を突っ走っていきたい」と。 私が大学で経済学講座を担当していたころ、この詩『青春』を披露したことがある。意欲的な学生たちにはなかなか好評だった記憶がある。参考までに以下、『青春』の一節を紹介する。(宇野収・作山宗久著『青春という名の詩』・産業能率大学出版部から)
青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方をいう たくましい意志、ゆたかな想像力、炎える情熱を指す。青春とは人生の深い泉の清新さをいう 青春とは怯懦(きょうだ)を退ける勇気、安易を振り捨てる冒険心を意味する ときには二〇歳の青年よりも六〇歳の人に青春がある 年を重ねただけでは人は老いない 理想を失うとき初めて老いる
上記の日本語訳の原文(英文)はつぎの通りである。 Youth is not a time of life; it is a state of mind. It is a matter of the will, a quality of the imagination, a vigor of the emotions; it is the freshness of the deep springs of life. Youth means a temperamental predominance of courage over timidity of the appetite, for adventure over the love of ease. This ofen exists in a man of sixty more than a boy of twenty. Nobody grows old merely by a number of years. We grow old by deserting our ideals.
「百歳の童(わらべ) 十歳の翁(おきな)」という言葉がある。たしかに青春は年齢とは関係ない。昨今のようにどちらかというと、高齢者が元気であるのに若者たちに青春が縁遠いようにみえるのはいかにも情けない。還暦間近でありながら、由美かおるは青春への意欲に少しも衰えをみせない。 年齢はさておいて、青春とはどういうイメージなのか。もう一度由美かおるの青春観に戻ると、彼女は「チャレンジしていく情熱があれば、青春なんだ」と想いを語っている。つまり青春とは、チャレンジ(挑戦)である。高齢といえども挑戦意欲があれば、なお青春であり、若年にして挑戦意欲を失っていれば、すでに老いたり、というべきである。
▽ 挑戦の歴史的事例(1) ― 哲学者・ディオゲネス
歴史上の具体例を挙げてみたい。 古代ギリシアの哲学者ディオゲネス(前400ごろ〜323ごろ)にまつわるエピソードがある。彼はギリシアの都市(ポリス)の制度、組織、秩序を否定し、自然のままで生きることを理想とし、ぼろをまとい、乞食の格好で樽の中で暮らしていた。犬のように生きたことからキニク派(犬儒派)と呼ばれた。
ある日のこと、マケドニアのアレキサンダー大王(前356〜323年。遠征軍を率いて、ギリシアとオリエントを含む空前の大帝国を建設したことで知られる)が樽に近づいても、あぐらをかいて平然としている。大王は驚きと憐れみの面持ちで話しかけた。 「私はアレキサンダー大王だ」 「私はディオゲネスだ」 「なにかしてやれることはないか」 これに対するディオゲネスの返答が振るっている。彼はこう言った。 「ちょっと脇へどいてほしい。あなたがそこに立っているために日陰になるからな」
時の君臨者に向かってこういうセリフが吐けるのは、気概であり、挑戦であろう。この瞬間、乞食と大王とが対等の地位に立ったといえる。ディオゲネスはその精神が自由であったからこそ挑戦できたのではないか。しかも大王によるいわば「上からの恵み」を拒否したところがいい。自分自身のライフスタイルに関する自主管理能力は見事というほかない。 大王は「自分が帝王でなかったら、ディオゲネスのようになりたい」と語ったともいわれる。この大王のセリフはいささかうまくできすぎた歴史の小話だが、かりにそれが真実であれば、ディオゲネスの生き方は大王の価値観に強烈な刺激を与えたことになる。
▽ 挑戦の歴史的事例(2) ― 幕末志士・高杉晋作
もう一つ、日本人の生き方にかかわる歴史的事例を挙げたい。 歴史に名をとどめた人物は「なるほど」とうなずかずにはいられない辞世の句を遺している。私の好きな一例は幕末長州藩志士、高杉晋作(1839〜67年)の「おもしろきこともなき世をおもしろく」である。 知友が見守る中で、こう書いて息絶えたというが、ここには混乱、激動、変革の幕末期を精一杯「おもしろく」生き抜いた男の生き様がよく映し出されている。
この辞世をおもしろいと思うのは「楽しきこともなき世を楽しく」ではなく、「おもしろく」と表現したことである。なぜ「おもしろく」なのか。 「おもしろく」には危険をもあえて辞さない挑戦の気概がこめられている。理想、ロマン、志、さらに未完成のものを新たに創出していく未来志向をうかがわせる。一方、「楽しく」は、安全地帯に身を置いた保守、受け身、消費を連想させる。すでに出来上がっているものを楽しむ姿勢であり、過去・現在志向が強い。ここには挑戦への気概はうかがえない。
高杉晋作がこれを意識して「おもしろく」と言ったかどうかは不明である。ただ高杉はそれまでの武士集団とは異質の農民、町民も参加させた奇兵隊(「奇」は新奇、異質の意)を創設したことで知られる。しかも幕藩体制という既存の秩序をたたき壊すことに挑戦し、新しい日本を創造すべく生きたことは、29歳という短い生涯(31歳で暗殺された坂本龍馬と違って病死)だったとはいえ、この上もなくおもしろい人生で、悔いはないという心情を辞世の句に読みとることができる。
▽ 21世紀版「青春」のイメージ ― 利他の実践
さてこの21世紀初頭における「青春」のイメージはいかなるものだろうか。挑戦への意欲、情熱を欠いては青春とはほど遠いことはいうまでもない。ただあえて指摘すれば、「挑戦」をスローガンに掲げて無闇に頑張ればいいという姿勢では高い評価はつけにくい。いくら「挑戦」といっても、間違った方向に突っ走られては、傍(はた)迷惑であり、犠牲者が累積、という悪しき結果を招くことにもなりかねない。だから挑戦意欲にも方向づけが必要ではないか。 今日的挑戦の特質を一つだけあげれば、それは利他のこころであり、「世のため、人のため」という利他主義の実践である。
というのは昨今の風潮として、私利優先・自分勝手な発想・生き方が依然として目立つからである。自民党の小泉政権時代に顕著だったあの保守的な新自由主義(=自由市場原理主義、私利優先主義、エゴイズム=利己主義)路線は弱肉強食のすすめであり、貧困・格差の拡大、自殺者の増大など悪しき負の遺産が大きすぎる。この路線は世界金融危機とともに破綻したが、消滅したわけではない。あちこちで再生の機会をうかがっている。 この私利優先主義への執着者たちは挑戦のつもりだろうが、その再生を歓迎できないことはいうまでもない。だからこそ今求められているのは、利他のこころであり、その挑戦的な実践といえよう。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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