ある戦争が終わった時、勝った側と負けた側とが認識を同じくすることはあるのだろうか?おそらく、戦闘の規模、衝撃、犠牲者の数などに関して、相当に評価が違うはずである。勝った方は犠牲を実際よりも少なく見るかもしれないし、逆に負けた方は犠牲の大きさを過大に受け止めているかもしれない。勝った側と負けた側は到底、戦争の評価において「合意」には至れないのだー。
・・・ということを頭では分かっていても、第2次世界大戦中、広島と長崎に原爆を投下した米軍関係者の発言を新聞などで読むと、日本人として衝撃を感じざるを得ない。もう65年も前の、しかも自分が生まれる前のことなのに、である。
英紙「ガーディアン」の5月21日号に掲載された記事が私の目に留まった。黒字の見出しが「また爆弾を落とすだろうか?」とあり、その次に、「落とす(イエス)」という単語が青字で印刷されていた。「一体何故?」―思わず記事を読みだしていた。
広島に原爆を投下したB29型爆撃機「エノラ・ゲイ」の元航法士、セオドア・バン・カークさん(89歳)をガーディアン記者がインタビューした記事だった。カークさんは、12人の乗組員の中で、最後の生存者になったのだという。
私が現在住む英国では、戦勝国というせいもあるのだろうか、戦争を振り返るドキュメンタリー番組が比較的頻繁にテレビで放映される。私は英国に来てから、第2次世界大戦の歴史を「戦勝国の視点から見る」という、興味深い体験をしてきた。しかし、正直に言えば、日本にいた時は世界大戦のことは学校の授業でやっただけで(それもいつも最終学期には時間がなくなり、ほとんどまともには扱われず)、知識は決して豊富ではなかった。英国に来て初めて、日本が当時米英からどう見られていたかを次第に理解するようになった。
原子爆弾の投下に関して言えば、一つの「実験」であったこと、「戦争の早期終結のためのやむを得ぬ手段」とされたことがーー私がこれに同意するのではないが、少なくとも米英ではそう解釈されているーー段々分かってきた。
それでも、現在なお「もし同じ状況だったら、また投下する」というカークさんの言葉は、やはり衝撃だ。英国の記者が原爆投下をどう評価するのかも知りたかった。
ガーディアンの記事によると、去年までは、カークさんは広島への原爆投下を記念する式典などに出ていたのだが、今年はこれをしないことにしたという。他の生存者がいなくなったので、行く気が失せたようだった。
―24歳で参加
エノラゲイの乗組員の一人になった時、カークさんは24歳だった。爆弾投下の6か月前に米ユタ州の特別研修場所に仲間と一緒に入った。当時、「原爆」という言葉は使われていなかったという。ただ、投下すれば「すべての町が破壊される」爆弾だと説明されていた。物理学者もたくさんいて、次第に「原子爆弾だな」と推察するようになった。
投下の前夜、これまでにはない種類の爆弾を落とすことを知らされた。説明会の後、乗組員は眠るように指示されたが、カークさんは興奮して眠れず、仲間たちとポーカーをして過ごした。
原子爆弾は翌朝、「9時15分(日本時間の朝8時15分)」に投下され、広島の上空580メートルで爆発した。
ガーディアン記事はこの後でエノラゲイが爆発の震動を受けた様子や、犠牲者の数を記している。英国で常識と考えられている数字として紹介すると、「爆発直後に7万人が亡くなり、1945年末までに14万人が亡くなった(合計23万人)」、「多くの犠牲者はやけどや放射能による病気で亡くなった」、とある。
―「犠牲者が出るだろうことは承知だ」
ガーディアンの記者が、カークさんに対し、爆弾投下で数千人もの犠牲者が出ることを想定したかどうかを聞く。カークさんは、フランス、アフリカ、どこに落としても重傷を負う人が出るのは承知している、と述べる。民間人の犠牲者が出たことに関しては、「当時、国家の戦う意思を破壊することが目的だった」として、そのためには多数の犠牲者がでることは承知だったと答えた。
爆弾投下によって亡くなる人が出ることを自分の中で処理できないようであれば、航空士などの乗組員は「仕事を全うできない」と。「人を殺さずに戦争はできないーもしあったら教えてくれ」。
―長崎を見ての感想
カークさんと他の乗組員は、日本が降伏をした後、長崎を訪れていた。長崎も原爆投下で打撃を受けていた。長崎の様子を見たカークさんは特別の感想を持たなかったようだ。「ただの日本への旅行だった、それだけだ」。
人が焼かれて粉々になった爆撃の跡が生々しい長崎市の情景はショックではなかったのかと記者に聞かれ、カークさんは「ショックだった」が、軍隊の研修で原爆でどのような情景になるかを学んでいたので「免疫がついていた」と語っている。
記者はカークさんの心の中に迫ろうと思ったのか、「もし原爆を投下された側にいたらと思ったことはあるか」と聞いている。カークさんは「ある」と答えたが、思いを聞かれ、「一つの情報としての反応」だけだ、としている。
もし同じ状況に置かれたら、また原爆投下をするかと聞かれ、カークさんは「まったく同じ状況はないだろう」としながらも、「また投下する」と答えている。
このカークさんのインタビューを衝撃と思うか思わないかは、人によって違うだろう。少なくともガーディアンの記者(カークさんよりずっと若く、おそらくは戦後生まれ)は、カークさんが何の良心の呵責も反省もないように見受けられる様子に、いささかの焦燥感と驚きを持ったようだった。例え当時の判断では正しくても、その後の犠牲の大きさを知った後では、何らかの特別な反応があってもいいのではないか、と記者は言いたげだった。
ある意味では、こうした戦後の若き記者の発想は、当時を生きたカークさんにとっては、門外漢の、かつ後知恵の(後になってああすればよかったなどと考える)態度なのかもしれない。時が変われば、価値観も変わるし、歴史の解釈やある行動の評価が変わっても不思議ではない。
私にとっては、カークさんの発言は衝撃だった。私が広島を訪れたことは2−3回、しかも短時間しかない。駅前から電車に乗って通りを眺めると、「ここが本当に60年以上前に原爆で焼け野原になった場所なのだろうか」、「よくここまで頑張ったなあ」と思い感動する一方で、ここでたくさんの人が亡くなったのだと思うと、鳥肌が立った。
原爆を投下したカークさんと投下された日本側の思いは最後まで平行線かもしれないー記事を読み終えて、そう思った。(「ニューズ・マグ」より転載)
ガーディアン記事原文
http://www.guardian.co.uk/world/2010/may/20/hiroshima-enola-gay-last-crew-member
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