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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2010年06月09日05時51分掲載
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インターナショナルヘラルドトリビューンの論客たち 10 ロシア詩人の死を追悼するセルジュ・シュメーマン(Serge Schmemann) 村上良太
6月1日、ロシアの詩人ヴォズネセンスキー(Andrei Voznesensky 1933-2010)が亡くなりました。1950年代から60年代初頭にかけて開花したソ連の「雪解け」時代。その代表的詩人の一人として知られています。
詩人の死がこれほど世界中で大きく報じられることは滅多にありません。しかし、残念ながら彼の詩はどんな詩だったのか。今、日本の書店に行っても中々、彼の詩集が見つかりません。多くの新聞では歌謡曲「百万本のバラ」の作詞者として紹介されていました。
貧しい絵描きが女優に恋をし、家と絵を売り払って町中のバラの花を買って彼女にプレゼントした。女優は去り、絵描きはその後も孤独な日々を送った。しかし、バラの思い出は心から消えなかった・・・
ウィキペディアによれば、この歌は元々ラトビア語で書かれたラトビアの苦難を歌った歌だそうです。ロシア語版を作る時にヴォズネセンスキーがまったく違った詩をつけ、アーラ・プガチョワが歌って大ヒットさせたと書かれています。仮にそうだからと言ってこの歌を批判するつもりはありませんが、ロシア人にとってヴォズネセンスキーはもっと大きな詩人だったようです。あるロシア人の女性は「人生の困難に直面した時、祈りのように繰り返し読んだ」と語ります。
「ヴォズネセンスキーは建築技師だったので、その詩も独特の構造とリズムを持っていました。また鋭い言葉のセンスを持っていました。」
「雪解け」時代の1962年に製作されたマルレン・フツィエフ監督の映画「私は二十歳」の中に、若い主人公たちがモスクワ技術工科大学の「詩人の夕べ」に出かけるシーンがあります。当時の代表的な詩人が一堂に会し、詩を朗読します。エフトシェンコ、ロジェストヴェンスキー、アフマドゥーリナ、スヴェトロフ、カザコーヴァ、スルーツキー、そしてヴォズネセンスキー。若者が講堂にびっしり詰まって熱気を帯びていました。そういう意味でこの映画は「雪解け」を記録した貴重なドキュメンタリー映画と見ることもできます。経済難のロシアでは最近人々が集まって詩を読む習慣が復活していると聞きます。
前置きが長くなりましたが、インターナショナルヘラルドトリビューンに「アンドレイ・ヴォズネセンスキー」と題したコラムが掲載されました(6月7日)。筆者はセルジュ・シュメーマンという名前です。
「ヴォズネセンスキーの詩は静かに出版された。彼は外国を旅した。モスクワ郊外ペレデルキノにあった彼のダーチャ(別荘)は木造二階建てで背の高い松に囲まれていた。そこではヴォズネセンスキーと作家である妻、ゾーヤ・ボグスラフスカヤが外国人たちをオープンにもてなしていた。私が一番強い印象を受けたのは彼が反逆者といったタイプではなかったことだった。穏やかな話し方で洗練されており、地方の紳士という方がぴったりだったろう。絹のアスコットタイをつけ、長いスカーフを肩にかけていた。」
シュメーマンがヴォズネセンスキーを訪ねたのは1980年代の初頭でした。当時彼はニューヨークタイムズ紙のモスクワ支局員だったのです。
「<当時、私たちは声を張り上げて叫ぶ必要を感じていた。>とヴォズネセンスキーは後になって書いている。<60年代は世界と舞台が1つに綜合された時代であり、詩人と俳優が1つになった時代だった>」
このようにロシアの詩人を追悼するコラムを書いたシュメーマンは紹介欄でEditorial紙面の編集者とクレジットされています。ニューヨークタイムズ紙のインターネットサイトで彼の経歴を見ると駆け出しの8年間はAPで働いていましたが、1981年からニューヨークタイムズ紙のモスクワ支局に勤めます。1987年から91年まではボンに駐留し、ベルリンの壁の崩壊を報じました。この時の報道でピューリッツァ賞を受賞しています。その後、ソ連崩壊を機に、再びモスクワ支局に戻り、94年まで激動のロシアをウォッチします。
彼がロシアにゆかりが深い理由、それは家族がロシアからフランスを経由してアメリカに渡った移民だったからです。父親のアレクサンドル・シュメーマンはアメリカにおけるロシア正教会の大物で、複数の大学でも教鞭を執っていました。母のジュリアナ(Juliana Ossorguine)さんはロシアの聖女Juliana Osorinの子孫という宗教一家です。ウィキペディアによるとこの宗教家の父親アレクサンドル氏は冷戦時代、アメリカがロシア向けに放送していたRadio Liberty で30年間、宗教講話を続けていたそうです。 そうしたロシア系一族に生まれたセルジュ・シュメーマンはコネクティカット州のKent大学を経て、ハーバード大学で英語を、コロンビア大学ではスラブ言語を専攻しています(1971年修了)。
「ナショナル・ジオグラフィック」(2009年4月号)に彼は「ロシアの魂」と題して、母の先祖Juliana Orsonがかつて暮らしていた町Muromを訪ねる旅を書いています。
「私はロシア人であり、先祖の信仰が今日蘇っていることに深い感動を覚えずにはいられない。しかし、私は同時に、西側の記者として、しばしば理想化される、漠然としたこのような過去への耽溺が何につながるのか、危惧を感じないではいられない。ロシア正教会はクレムリンの権力に対し真実を告げる改革の力となりえるのか、それともツァーのいた数世紀と同様、権威主義国家の装飾と道具となるにすぎないのか。」
彼は2009年12月22日付けのニューヨークタイムズに「エゴール・ガイダル(Yegor Gaidar)、統制経済を殺した男」と題したコラムを書いていました。ソ連崩壊後、ロシアで急激な経済改革と自由化を成し遂げようとした若き元閣僚の死を追悼する記事です。
「先週死んだガイダルのことで一番痛切に感じたのは彼がまだ53歳だったことだ。1992年元日に彼が価格の自由化を打ち出してから、わずか18年しかなっていないこともまた心に浮かんだ。」
当時、ロシアでは誰もやったことがなかった資本主義の経済運営。それを担当することになったガイダルはわずか35歳でした。
「他の改革者を見れば、ボリス・フョードロフ(1年前に50歳で死亡)は34歳、ボリス・ネムツォフは33歳、アナトリー・チュバイスは37歳だった。古株のグリゴリー・ヤブリンスキーですら40歳だった。彼らの政敵は<ピンクのパンツの少年達>と彼らを名づけたが、当時、ロシアの人材はこれがすべてだったのだ。」
一時、店の棚から消えた商品もガイダルの改革で再び並び始めました。しかし価格が急騰し、年金暮らしの高齢者を中心に多くの人が混乱に苦しむ結果になりました。さらに、マフィアが跋扈したほか、国有財産の売却で一部の人間が巨利を得、オリガルヒという特権階級を生み出してしまいます。そうした方向に逆行して登場したのがプーチンでした。
「ガイダルは2年前、ロシアの民主化の可能性を問われてこう話している。短期的には無理だが、長期的には可能だ、と。一人当たり1万ドル相当の国内総生産があり、教育水準が高く、現実的な社会を持っているからだ。このような社会が永久に民主主義と無縁でいれらるわけがない」
セルジュ・シュメーマンはアメリカ人であり、同時に魂はロシア人でもあることがわかります。
村上良太
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